第7話 名前も無き家族
2023年5月4日 午後10時12分
肩の痛みを隠しながら、あたし、中野麻衣(ナカノ マイ)は一歩前に出る準備をしていた。もう、負けない。戻らない。そう自分に言い聞かせる。
噂は早かった。ケンジが笑った。それだけで、散り散りだった子どもたちが鉄粉のように引き寄せられてくる。
闇に沈むタイルの隙間を割るように、フードが揺れた。あたしは十六歳になったばかり。夜行バスに染みついたタバコの匂いがまだ肩に残っている。
ほつれたグレーのパーカは指先の油で鈍く光り、左頬の藍色の痣は母の恋人が振り下ろした灰皿の痕だ。その痣を隠すようにポケットの中の拳は乾いた土のように固くひび割れているのに、不思議と震えはなかった。
あたしは視線を鋭く光らせ、自販機の白い光の前にいる少年、良弥を射抜く。言葉にならない問いを突きつけた。(今夜だけは、戻れない)喉の奥で転がった言葉は、まだ音にならない。
「良弥って……君?」あたしの声は小さい。
それでも疑いの刃は含ませてある。良弥は眉をわずかに動かし、そっと顔を上げた。初めて交わる視線の熱に、あたしはようやく自分の体がかすかに震えていることに気づいた。
「なんだよ先客か。静かに過ごせるって聞いたんだけどな」
背後から低く落ち着いた声が闇にこぼれる。同時に、タイルへ靴底から土砂がぱらりと散った。
広告モニターの淡い光が照らし出したのは、肩幅の広い青年。大輝(ダイキ)。この界隈ではダッキと呼ばれている。
山形の建設会社名が擦り切れた白いTシャツ。腰にはグレーの作業上着を巻き、膝にはコンクリート粉が白く付着している。焦げ茶色のベリーショートの隙間で、額の汗が鈍く光った。
腰のごついキーホルダーにぶら下げた六角形の器具が、歩くたびにカチリと鳴る。短い睫毛の下で、琥珀色の瞳が良弥、そしてあたしを順に測っていた。右手に残した半分の軍手から、粉がぽろぽろと零れ落ちる。両腕には鉄筋や釘で刻まれた細かな傷が無数に走っていた。
「三日逃げ回ったら、財布の中身は一三〇円だ」大輝は肩をすくめ、汚れたワークブーツの紐をぎゅっと結び直す。
「……ここなら凍死せずに夜を越せそうだな」
そう言って、彼はそのままコンクリートの床に腰を下ろす。見ず知らずの二人に向けているというのに、彼の周りだけ仮設照明のように温度が上がる。無理に近づかず、しかし離れすぎない距離感。息の仕方を知っているような、体の置き方だった。
あたしはちらりと良弥を見る。良弥は言葉を返さず、湯気の立つ缶をもう一本、大輝の方へ滑らせた。金属がタイルをかすめ、乾いた音が小さく跳ねる。
「助かる」大輝は片手で受け、缶のぬくもりに一息ついた。
タイルの上、三人の影がゆっくりと重なり合う。まだ言葉にはならないが、輪郭だけが確かに立ち上がっていた。
かすかな吐息が、ひとひらの音になった。そのわずかな音でさえ、三人の視線をさらう。
薄闇にひらりと浮かんだのは、少し年上の少女だった。
くすんだ紫のダブルボタンコートは肩口で泥を吸い、裾は少し擦り切れている。切り揃えられた栗色の髪は湿気で跳ね、街灯の冷たい光を細かく散らしていた。胸に抱えた旧型のスマホは塗装が剥げ、画面は真っ黒なまま眠っている。
大きなヘッドホンのイヤーカップが耳をぴたりと覆い、外の音を遠ざけていた。
「……ね」擦れた声帯が、最後の母音だけをそっと置く。それが、彼女なりの精一杯の挨拶らしかった。
あたしたちがしばらく黙り込んでいると、コートの袖口から白い指先が伸び、コンクリートの床にそっと二つのおむすびが置かれた。
米粒が街灯を受けて銀砂のようにきらめき、夜気の底へと静かに溶けていく。
大輝が手を伸ばし、ひとつを受け取る。あたしはヘッドホンと紫のコートを見つめ、小さく息を呑んだ。
「え? カノChan……? あの歌の、『ハルジオン』の?」
見覚えのあるその顔に声を上げたが、彼女は微笑まない。灰紫の瞳がかすかに揺れ、すぐに床へ落ちる。指先でヘッドホンのケーブルを巻き取り、(触れないで)という意思を震えで伝えてきた。
重い静けさが一呼吸、場を覆う。あたしは左頬の痣に触れかけた手をそっと下ろし、「ごめん……その、動画で……」と言いかけて飲み込んだ。
良弥が小さく咳払いをする。「過去は食えねえ。今ここにあるおむすびが、腹を満たす」
彼女の瞳がもう一度だけ揺れ、ゆっくりと瞼が閉じる。開いたとき、その灰紫の眼差しは「ありがとう」と静かに語っていた。
あたしは唇を結び、差し出されたもうひとつのおむすびをそっと受け取る。大輝が小さく息を吐くと、こわばっていた口元がわずかに緩んだ。コンクリートの冷たさの中に、かすかな温度が灯った気がした。
「……ありがとう」自然とあたしの口からこぼれた。
そして更にいくつかの影が、夜のアスファルトに集まり、ひとつの家族の輪郭を刻み始めていた。
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