第6話 寒い奴の居場所

2023年4月29日 午前0時12分


スマホの光が冷えた夜を照らす。俺は笑いながらも、胸に巣食う闇と向き合っていた。


午前零時を回ったトー横は、巨大な空きプールのように音を吐き出していた。昼間に吸い込んだ声と足音は底に沈み、残ったのはコンクリートの冷たさと湿った気配だけだ。


壁面モニターが広告を切り替えるたび、薄い虹が床を横切り、すぐに闇へ飲まれる。自販機の白い明かりが、タイルの擦り傷を一本ずつ浮かび上がらせた。金属の匂いに、濡れた段ボールの紙臭さが混じり合う。通気口からは、止まりかけの換気扇のような低い唸り。白い息のような冷気が、膝の骨を撫でて通り過ぎる。


最奥の通気口の前で、俺、十四歳の工藤ケンジは膝を抱えている。制服の上着は泥で固く、袖口は塩を吹いてざらついていた。片方の靴底は半分めくれ、歩くたびに「ぺた、ぺた」と鳴るのがうざい。


指先をこすり合わせても、戻ってくるのは冷えだけだ。喉は細く縮み、呼吸が胸の中で空回りしている。


(クドー菌! 触んな、ばい菌うつる!)(キモい。感染る。近寄るな)


記憶の中の教室の明るさが、夜の底から何度も立ち上がっては消える。横顔だけの笑い声と、レンズのような無視の視線が、視界の端をぱちぱちと点滅した。胸の真ん中に小さな穴が開き、そこから体温が抜けていく。


「……死に……たい……」


声にならない。吐いた息がすぐに凍り、喉に刺さって戻ってきた。


コツン、と空き缶を蹴る小さな音。足音がひとつ、通気口の風に紛れて近づき、隣に人の気配が腰を下ろした。


少し年上に見えるフードの兄ちゃんが、タイルの上に温かいお茶を二本、並べて置く。距離は肩ひとつ分。近い。


こちらを見ないまま、彼は自分のパーカーの裾を引いて風除けのように広げ、こう言った。「深夜のホットは、舌のストレッチだ」


「近寄んな。マジで汚ねぇんだよ」俺は反射的に返す。


兄ちゃんは目線だけを少し落とし、缶コーヒーを指先で俺の足元へ滑らせる。缶がカランと転がり、スニーカーの先で止まった。


「泥が付いてるのは上着だけだな。中身は無事だ」


「は? だから触んなって言ってんだろ」


振り払った手が彼の頬をかすめ、わずかに赤く染めた。「あっ……」


兄ちゃんは何もなかったかのように、腰の位置を数センチずらし、通気口の風をその背中で受ける。冷気が一枚、薄くなった。


俺は缶を指先で弾き返そうとして、手を止める。缶の底から、かすかに湯気が立っているのが見えた。


喉が鳴る音を自分で聞いてしまい、舌打ちが漏れる。「……誰だよ、お前」


「良弥。ヨシヤ。グッドのヨシに、弥生時代のヤ。リョウヤじゃないぞ」「どうでもいい」「だよな」


お兄ちゃん……良弥は自分の缶を開け、ひと口だけすすった。金属の小さな開栓音が、空きプールの底で跳ねる。


沈黙。俺の胃がきゅうと縮む音だけが、内側で膨らんだ。


「ここは……汚い奴の居場所じゃない」俺が呟くと、良弥は言った。


「違う。寒い奴の居場所だぜ?」


俺は良弥の顔を見る。彼はまだ正面を向いていない。自販機の白を瞳の隅で拾いながら、ぽつりと言葉を置く。「お前は汚れてない。ここにいていい」


胸の穴に、ぴったり合う栓を差し込まれたようだった。反射で吐き出そうとして、うまく言葉にならない。


「……うるせぇ」


俺は拳を握って、タイルを軽く叩く。少し痛い。その拳の上に、良弥の指がそっと置かれた。押さえつけるのではなく、缶コーヒーくらいの重さで。


「これ、あったかいから。置いとくわ」


掌に、じわりと熱が伝わる。俺は反射的に手を引こうとしたが、引けなかった。触れているのは二本の指先だけなのに、風の通り道まで変わった気がする。


「……近寄んなって言っただろ」


「俺、距離感悪くてさ」良弥は笑っていないのに、声だけが少し柔らかい。


静かに、使い捨てカイロを破る音がした。良弥は袋から出したカイロを両手で揉んで温度を上げると、ためらいの間も置かずに、俺の袖口の内側へそっと滑り込ませる。


布越しの熱が、皮膚に触れた。それは明確な「触れられた」感覚だった。嫌悪が湧き上がる前に、凍っていた血の流れが指先まで戻ってくる。


「……あの、さ」


喉の奥で砕けた声が転がる。俺は少し視線を落としながら、かろうじて言った。「……殴って、悪かった」


青年は少しだけ肩をすくめ、空の缶をタイルに並べ直した。「じゃあ、その分、半分こで返しとけよ」


意味はわからないが、俺は少し口元を緩めて缶を開けた。金属の音がひとつ、夜の底に沈んだ。そんな夜だった。

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