第5話『分け合え』

 2023年4月26日 深夜1時03分


 夜風が薄い鉄の匂いを運び、肩をすくめる者たちは、それぞれの灯を守る覚悟を胸にした。


 人通りは途絶え、白い自販機だけが孤島の灯台のように立っている。冷蔵コンプレッサーの低い唸りが、遠い換気扇の規則的な音と重なって夜をゆっくりと揺らす。濡れたタイルはわずかに冷気を吐き出し、桜の花屑が排気の渦で小さな円を描いた。


 良弥はポケットからおむすびの包装紙を取り出す。書きにくそうだが確かに丈夫な紙が指に貼りつき、油性ペンのキャップを歯で抜いた瞬間、インクの匂いが立った。彼は四文字を書く。……インクが青くじんわりと滲む。ペン先が止まり、四文字が浮かび上がった。


 分け合え


 丈夫な紙の上で、インクがじんわりと滲む。良弥は自販機の鉄肌を掌で温めてから、紙片をそっと押し当てた。冷たい金属と湿気が、紙を静かに吸い着けていく。


 風が顔を撫で、桜の花びらが一枚、紙の端に触れてから滑り落ちる。LEDの白い光が包装紙の縁で跳ね、値引きシールの橙色が一瞬だけ混じって灯った。紙片は細かく震えながらも剥がれず、まるでここに小さな灯台が立ったかのようだった。


 次にここを通る誰かが、きっとこの四文字を読むだろう。その瞬間まで、灯台はここで光り続ける。


 良弥は空を仰ぐ。遠い怪獣像の目は黒いが、街灯が一点だけ映り込み、白く瞬いた。頬がわずかに緩む。彼は広場に背を向けた。明日の夜、同じ島影でまた灯を分け合えると、どこか確信しながら。


 その帰り道、良弥の脳裏に十六の冬、裏店の倉庫に閉じ込められた少女の泣き声が蘇っていた。


 店長が外した鍵をそっと拝借し、名簿を破り捨てながら逃げ出した夜。闇の中で震える肩には、また誰かに買われる恐怖がこびりついていた。


 あの子の手を握って走り抜けた路地で、足音と舌打ちの雨が追いかけてくる。殴られた頬の痛みより、背後で響いた男たちの笑い声が、今でも耳から離れない。


「『帰る場所なんかないよ』って泣いたあの子がさ、最後にひと口だけおにぎりを分けてくれたんだよな」昔、誰かに聞いた言葉と繋がる。


 良弥は独り言のように呟いた。「『分け合え』って、あの子にも言われた気がしたんだ」


 あの夜以来、良弥は刃よりペンを選んだ。闇の中で暴力や売買春の網に絡め取られる子どもたちを外へ引き出すために、目に見えない「手順」を作ることを決めたのだ。今夜、風に震える包装紙に押し当てた指先に、あの子の小さな手の温度が重なるようだった。

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