第3話 アスファルトの匂い

 2023年4月22日 午後11時34分


 妹の笑顔を胸に、俺は決断の重さを噛みしめていた。弱さと向き合う夜だ。


 湿った春風が甲州街道の排気を抱き込み、歌舞伎町の奥へと吹き込んでいた。桜はネオンを吸い込み過ぎて桃色を通り越し、狂い咲いた火花のように枝先をほころばせる。タバコの甘い残り香、甘ったるい香水、唐揚げ油の酸化臭――三つの匂いが湿気に絡みつき、アスファルトの肌を重くしていく。


 TOHOシネマズ前の半地下広場、通称トー横。自販機のLEDだけが白く浮かび、その光に俺のほか二人の家出児が島影のように寄り添っている。


 俺、十六歳の假屋崎雄太(カリヤザキ ユウタ)は、震える指でコンビニのおむすびを口に運ぶ。夜になると父の拳が飛んでくる家を飛び出して二週間、所持金は百円玉が一枚きりだ。海苔のざらつきが指紋にまとわりつき、小さく分けた米粒は掌の体温でじんわりと温まっていく。


「……これでホントに最後か」低い呟きが薄闇へほどけていく。腹は鳴る。だが、もっと奥深く、胸の底が飢えている気がした。


 喉仏の下で空洞が脈打ち、脳裏に浮かぶのは家に取り残した九歳の妹、未来(みく)の顔。彼女に残した「宿題を見てやる」という約束は、港を離れた舟の灯台のように遠のくばかりだ。


 隣では同世代の佐藤美咲(サトウ ミサキ)が膝を抱え、パジャマの袖で赤い爪痕を隠している。義父の手が伸びてきた夜、裸足で非常階段を駆け下りたときに刻まれた裂傷らしい。身をすぼめたまま、美咲はアスファルトを睨みつけている。


 もう一人、中学一年の田村翔太(タムラ ショウタ)。細い首を、誰にもらったのかサイズの合わない大きなフードで隠し、唇だけが「いないほうがいい」と無音で動く。翔太の口癖だ。両親の怒号が脳内で繰り返されるたび、白米の欠片を舌の上で転がすが、嚥下することはできない。


 沈黙が冷え、俺たちの肩にじわりと積もっていく。


「……もう、無理かも」美咲の囁きがちぎれた、そのとき。


 アスファルトに靴底の摩擦音が忍び寄り、路地の影からフードの青年が現れた。自販機の白い光に照らされた横顔はまだ少年の輪郭を宿し、深夜の海の色をした瞳が俺たち三人を順に映す。


 彼の名前は良弥(ヨシヤ)。最近このあたりで見かけるようになった顔だ。


 良弥は美咲の首筋に走る爪痕へ視線を落とし、タータン柄のマフラーをふわりとかけた。


 マフラーは冬の匂いを溶かし、彼女の震えを一段弱める。続いて白いコンビニ袋が差し出された。


 ガサリ、とビニールが乾いた音を立てる。


「おむすびとパン、好きに選べ」


 無機質だが余裕のある口調に、俺は眉を吊り上げる。「あ? 同情か? タダほど高いもんはねえって知らねえのか?」


 良弥は一拍だけ遠い目をした。


「知らねえよ。払わなくていい。昔の俺に食わせてるだけだからな」


 柔らかいが芯のある声。理由のわからないその理由に、俺の肩から力が抜けた。翔太はそっと米粒を摘み、口に含む。温度のないはずの白米が舌に触れた瞬間、胸の氷がわずかにひび割れた。三人とも、同時に。


 俺はためらいながら、マフラーを返す青年の横顔をちらりと盗み見る。その頬にある古い錆色の痕が、押さえ込まれた痛みの歴史を語っているようだった。「お前、なんでこんなことしてんだよ。俺らなんて知らねえだろ」声を絞り出す。父の拳で腫れた右頬が、冷たい夜気にひりついた。


 良弥は片方の目尻だけをわずかに緩め、「昔さ、住ませてもらってた家を出て、山ん中で飢えと寒さと戦った夜があってよ。缶の水だけが俺の友達でさ」と低く語る。


「あの時、知らない人に半分分けてもらった米のおむすびの味を忘れられないんだよな。だから、たぶんその借りを返してるだけだ。俺もお前らと同じ、腹が減って寒い子どもだった」


 俺は小さく鼻を鳴らしながら、胸の奥でその言葉が火を灯すのを感じ、口を開いた。


「俺ん家はさ、親父が酒飲むと人が変わるんだ。母ちゃんは逃げて、妹と俺だけ残されてさ……。俺、辛くて、自分だけ逃げてきた。妹を守るって言ったのによ」


「守るってのは、腕力や金じゃないだろ」良弥は答えた。「腹が減ったときに殴るより、米を分け合えるほうが強い。妹はお前が抱いてるその顔を覚えてるはずだ。だから離れてても、その顔でいてやることだ」


 俺たち二人の間にしばらく沈黙が流れる。


 遠くでサブウーファーの低音が腹に染みた。翔太が小さな声で「友達って……どう作るんだろ」と呟くと、良弥は「同じ釜の飯を食ってりゃ、そのうち勝手になる」とあっけらかんと言った。


 俺は少し笑い、熱が指先に戻るのを感じた。


 その夜、俺は初めて誰かに自分の弱さを話した。


 腹を満たしてくれただけでなく、目を見て返事をくれた人間は初めてだった。父親にも友人にももらえなかった「大丈夫だ」という声が、小さな火種として胸に残る。耳の奥で良弥の言葉が反芻された。「守るってのは、腕力や金じゃない」。その言葉を噛みしめるたびに、俺の中の凍った部分がゆっくりと溶け出していく。

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