遺伝子に花を咲かせて
成海。
星空を閉じ込めて
第1話 培養皿の星空
暗闇の中で、青い星屑がまたたいた。
それは吐く息さえ凍りそうな静寂の中、音もなく生まれては消える、小さな銀河だった。
一瞬の油断がコンタミネーション(汚染)に繋がる。たった一つのカビの胞子が、一ヶ月の努力を水の泡にする世界。故に、彼の動きは儀式のように洗練され、無駄がなかった。
ピペットの先端に、透明な液体をマイクロリットル単位で吸い上げる。その一滴に、目には見えない幾億もの生命が眠っていることなど、誰も知らない。環は息を詰め、直径九センチの円いガラスの皿――彼のキャンバス――の上へ、その生命の雫をそっと落とした。
一滴、また一滴。
それは種を蒔く行為に似ていた。これから生まれるであろう光の点を計算し、見えない線で星座を結んでいく。彼の脳内にある設計図を、生命そのものを絵具として、この透明な円盤へと転写していく。この行為に、感情の揺らぎは許されない。指先のわずかな震えが、宇宙の法則を歪めてしまうからだ。環は常に、心を凪いだ水面のように水平に保つ。
最後の座標への配置を終えると、彼はガラス皿に蓋をし、パラフィンフィルムで密封した。日付と識別記号を書き込み、ラックに収める。そして、部屋の隅にある
環は、部屋の中央に置かれた黒いスチールラックに並ぶ、既に完成した「作品」たちへと向き直った。壁のスイッチを入れる。室内灯ではない。鑑賞のためだけに設置された、紫外線ランプのスイッチだ。
カチリ、と硬質な音がした瞬間、それまで闇に沈んでいた数十枚のガラス皿が一斉に光を放ち始める。
青、緑、そして稀に黄色。それは、環がたった一人で創り上げた宇宙だった。一枚の皿が一つの星雲となり、無数の光点が恒星のように瞬いている。濃密に生命が蒔かれた領域は天の川のように白く光の帯を描き、まばらに配置された点は、名もなき星座のようにささやかな光を放っていた。
美しい、と彼は思う。
言葉にする必要もない。この美は、彼と作品との間にだけ存在する、完璧な相互理解だった。分裂し、増殖し、生きていることの証明として明滅する光。時間と共に変化し、やがては衰え、死んでいく、儚い生命の灯火そのもの。
だが、その完璧な美しさを前にして、環の胸に、ほんのわずかな影がよぎった。
(――美しい。だが、この美しさを知っているのは、世界で俺だけだ)
この光は、この部屋の重い防音扉を越えることはない。この静寂の中で生まれ、そしてこの静寂の中で、誰にも知られずに死んでいく。それでいい。それがいい。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに、心のどこかで、この光景を自分以外の誰かが見たら何と言うだろう、と考えている自分がいた。萌芽展で味わった、あの熱を思い出していた。
環は頭を振り、雑念を追い払う。感傷は創作の敵だ。彼は白衣のポケットに両手を差し込み、ただ静かに、自分の宇宙が瞬くのを眺め続けた。
◇
深夜零時を回り、さすがに集中力が途切れ始めた。環は紫外線ランプを消し、白衣を脱いで実験ノートに数行の記録を書き留める。今日の作業は終わりだ。
重い防音扉を開けて研究室を出ると、ひやりとした廊下の空気が肌を刺した。夜の大学は静まり返っている。この孤独が、彼の創作を守る盾だったはずだ。
廊下の突き当たりにある流しで手を洗い、鏡に映った自分の顔を見る。黒い髪は無造作に伸び、目の下には옅い隈が浮かんでいる。美しいものを生み出す人間の顔としては、あまりに色彩に欠けていると、どこか他人事のように思った。
さあ、帰ろう。そう思って踵を返した、その時だった。
「――あの」
背後から、自分のものではない声がした。
環は驚いて振り返った。そこに、一人の男が立っていた。自分より少し背が高く、柔らかそうな栗色の髪をした青年。首からは、使い込まれた一眼レフカメラを提げている。
「……誰だ」
環の声は、自分でも思うより低く、硬質に響いた。
青年は環の警戒を意に介した様子もなく、人懐こい笑みを浮かべた。
「ごめん、驚かせたよな。俺、写真専攻三年の
「……用件は」
「さっき、部屋から光が漏れてたんだ。つい気になって……すごかった。暗闇の中に、星空みたいなのが、たくさん」
悠真と名乗った男の言葉に、環の全身の神経が逆立った。聖域を覗かれた不快感。
「……あれ、写真に撮らせてもらえないか?」
その申し出は、環の思考の最も遠い場所から飛んできたかのようだった。予想外で、そして、最も受け入れがたい言葉だった。
「断る」
「え、あ、いや、もちろん無償でとは言わないし――」
「そういう問題じゃない」
環は悠真の言葉を遮った。「俺の作品は、生きている」
「……生きている?」
「菌が増殖し、代謝し、光っている。それは生命活動そのものだ。一瞬たりとも同じ状態にはない」環は、自分の創造物の本質が誤解されることに我慢ならなかった。「写真は、時間を止める。光を印画紙の上に固定し、死んだ記録にする。お前のやっていることは、俺の作品から命を奪い、美しい死体にする行為だ」
言い放つと、環は唇を固く結んだ。これ以上、話すことはない。彼は悠真の横を通り過ぎ、出口へ向かおうとした。
だが、悠真の言葉が背中に突き刺さった。
「――美しい死体、か。確かにそうかもな。でも」
環は思わず足を止めた。
「俺は、死んでるなんて思わなかった。むしろ逆だ。息をしてるみたいだって、そう思ったんだ。あの光、一つ一つが、まるで呼吸してるみたいだった」
──呼吸。
その言葉に、環の心臓がかすかに音を立てた。彼が自分の作品に対して、誰にも明かさず、自分の中だけで抱きしめてきた感覚そのものだったからだ。
振り返ると、悠真はカメラを胸の前でそっと握りしめ、まっすぐな瞳で環を見ていた。
「頼む。撮らせてくれとはもう言わない。だから――」
悠真は一歩、環に近づいた。
「じゃあせめて、もう一度、この目で見せてくれ」
環は息を呑んだ。理解を求める他者。ずっと一人で完結させてきた世界に、初めて扉を叩く人間が現れた。
環は何も答えず、自分の研究室の扉へと視線を移した。壁には、カードキーを認証させるための電子ロックが、無機質な光を放っている。あの扉を開けさえすれば、この男は自分の宇宙を見てしまう。この静かで、完璧で、そして少しだけ虚しい世界が、終わってしまうかもしれない。
開けるべきか、開けざるべきか。
指先に、まだ触れたこともない他人の体温が宿るような錯覚を覚えながら、彼は――。
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