命の水

日戸 暁

命の水


店の掃除から氷・グラスの用意まで済み、

ウィネは“営業中”の札を手に、店の外へ出た。

夕方の空には黒い雨雲が広がっており、彼はため息をついた。


昼はからりと晴れていたので、彼は気合を入れて買出しに行ったのだ。


張り切った日に限ってこうなるとはな。


天気と、早くも今日の売り上げを気にしつつ、ドアに掛けた“準備中”の札を外す。


暗い気持ちで、表の札を掛け替えたウィネは、扉の横に子供がいるのに気づいた。


この国では珍しい黒髪の、歳の頃は12,3歳といったところか。


「おい、お前、何処のガキ?」


膝を抱えて座っている少年に、ウィネは声をかけた。

「……」

少年は、地面を見つめたまま、何も言わない。


「人の店の前に座り込まれちゃ困るんだけど」


ウィネの言葉に、少年はふらりと立ち上がり、歩き出した。


だが、数歩も行かぬうちによろめいた。

慌ててウィネは、彼を支えてやった。


「おい、大丈夫か!?」

蚊の鳴くような声で、少年は呟いた。

「お腹空いた……」

半ば抱えるように彼を支えて、ウィネは驚いた。

腕の中の少年の体は冷えていた。

どれだけの長い間、戸外にいたのだろう。


ここらには、子どものいる家は無い。

歓楽街のはずれで、宿屋と酒場がぽつぽつと建つだけだ。


一番近い住宅街はもう“隣町”で、ここからだと大人の脚でも歩いて2時間くらいはかかる。


疲れ切っている少年を、ウィネは見た。


少々土埃に汚れているが、器量の良い子だ。


曇る空を見上げ、ウィネは少年に視線を戻した。


「俺ん家で何か食って帰れ、な?」

ウィネの言葉に、少年は身震いした。


「お金、持ってない」

「んなもん要らねぇから」

ウィネから離れようとする少年の腕を、酒場の店主は捕えた。


「でも……」

俯いて、自分の服をぎゅっと掴む少年の頭を、ウィネはわしゃわしゃ撫でた。


そして、彼は少年を店に連れ込んだ。


「ちょいと待ってな」

カウンターの、真ん中の席に少年を座らせて、ウィネはカウンターの内側に入った。


少年は、渡されたタオルで顔や手を拭った。やはり、整った顔立ちをした、見目の良い子だった。


「ここ、酒場?」

店内を見回し、少年は呟いた。


「おう、酒飲むかい、未成年?」

とりあえず、牛乳を片手鍋に沸かしながらウィネはふざけて訊いた。


「誰が飲むよ」

仇でも見るような目で、棚に並んだ様々な酒瓶を観察しながら、少年は言った。


「顔に似合わず、おっかない声出るんだねぇ」

卵をボウルに割り入れ、ウィネは少年をちらりと見た。


「酒飲む奴に、ろくな人間はいないよ」

少年は、カウンターに目を落し、言った。


「……もう一遍、言ってみろ」

スープストックを小さな鍋に溶かしながら、ウィネは不機嫌な声を出した。


酒場の店主として、今の少年の言葉は聞き捨てならなかった。


すると、ちりっと電気の走ったような鋭い空気が、一瞬、少年を包んだ。


「酒を飲む大人なんか、信用しない…僕はね」


じろりとウィネを睨めつけ、少年は低い声で言った。


その目つきに内心かなりたじろぎながら、ウィネは少年を見つめ返した。


ウィネの手元は、鍋のスープを一匙、溶き卵に加えてかき混ぜている。


「酒も酒飲みも嫌いなら、何でうちの前にいたの」


ウィネに真っ直ぐに顔を見つめられ、居心地が悪くなったのか、

少年は席を替えた。


ウィネから見て右へ二つ席を移動すると、彼は、俯いて呟いた。


「……灯り」


「え?」

卵を混ぜていた泡だて器を流しに置きながら、ウィネは聞き返した。


少年が答えないので、ウィネは、フライパンにバターを落し、熱し始めた。


「灯りが……暖かそうだったから」


漸く、恥ずかしそうに、少年は答えた。


扉の、小さな看板を照らす灯りは、先代からそのまま引き継いだものだ。

店の内装と店名は、ウィネの代で新しく変えたが、あの表の灯りは、先代であった祖父のものをそのまま使っている。


ウィネは黙って、先の卵にケチャップと胡椒を足して撹拌し、それをフライパンに移した。


暫く二人は黙っていた。

外の雨の音がかすかに聞える。


ウィネが、焼けた玉子を器用にひっくり返した。


少年が身じろぎした。

彼に目をやり、ウィネは、おや?と思った。


どこか冷ややかな目をしていた少年が、今は、興味津々といった体で玉子を見つめているのだ。


先とはまるで違う少年の様子に、ウィネは心中で微笑んだ。


「ほらよ、熱いうちに食べな」

白い皿にオムレツを盛り付け、横にミニトマトも数個添えて、ウィネは料理の皿を彼の前に出してやった。


だが、皿が一つなのを見て、少年はウィネに言った。


「…あなたのは?」


「俺は食わないよ、営業時間中は、店の人間は基本、飲み食いしないの」

「……」

熱々のオムレツを見つめて首を傾げ、少年は黙ってしまった。


ウィネは、少年の真似をして首をかしげた。そんなウィネに、少年が少し笑った。


「俺に遠慮してるのか?」


ほかに客が居ないのをいいことに、ウィネは身を乗り出して、カウンターに片肘ついた。


「いいから、さっさと食えって…お前のためにわざわざ作ったんだぞ」


スプーンでオムレツを少し切り取り、少年の口元に持って行ってやる。


「ほれ……あーん」

恐る恐る開かれた少年の口に、玉子を放り込む。

スプーンをオムレツの皿に戻し、ウィネは少年の反応を見守った。


「……」

少年は、ゆっくりと咀嚼し、軽く目を見張った。そして彼はスプーンを自ら手にした。


それに一つほっと息をつくと、ウィネは中鉢にスープを注いだ。


カウンターにスープを出し、もう一度ウィネは少年を見つめ、笑みをこぼした。


少年は、何も言わないが、しっかりスプーンを握って、次々と玉子を口に運んでいる。


「……うまいか?」

ウィネの問いかけに、少年は愛らしい笑顔で応えた。


**********


それから、少年はこの酒場にたびたび来るようになった。

客の入りが落ち着いた頃にふらりと入ってくる。

いつしか、ウィネはそれが楽しみになっていた。



 ある日、スキャッティはいつもの時間にウィネの店に来なかった。

酔った客に連れられ、いつもよりずっと早くに現れた。


客に無理やり手を引かれ、店の中に入ってきたスキャッティ。


彼は、ウィネの視線を避けて、戸口に震えて立っていた。


「兄ちゃん、がつんと強いの、こいつに」

客が、ウィネに注文する。


「……お連れ様は、まだ未成年かと」


ウィネは、客の隣に座らされたスキャッティをちらりとみた。


「堅いこと言うなよ、兄ちゃんだってまだ若いじゃん、この商売何年やってんの」


客はスキャッティの肩を抱いて笑う。一瞬、スキャッティが目を瞑った。


とても辛そうに、目を瞑った。怯えていた。


ウィネは唾を飲み、言った。

「……かしこまりました」

スキャッティに、ウィネは珈琲を少し入れた牛乳を注いでやった。

牛乳の面を覆うように、酒を振掛けただけの氷を浮かべた。客にも同じ物を勧めた。


だが、此方には本当にきつい酒と牛乳を注ぎ、よく混ぜておいた。


飲み物の色は、スキャッティのものとさほど変わらない。客はそれらの香りを嗅ぎ、スキャッティのコップの方が酒の香りの強いのを知り、満足げに笑った。


スキャッティは牛乳を恐る恐る一口舐めて、それから呷るように牛乳を飲み干した。


それを見て、客はにやりと笑み、自分に出されたものを勢いよく飲みきった。


ウィネは、客にはどんどん強い酒を、口当たりの良いカクテルにしてたくさん飲ませた。


スキャッティには、酒の香りをつけただけの甘い飲み物を何杯かだしてやった。


熱く辛いスープも途中で出してやり、スキャッティはそれを呑んだ。


それのおかげでスキャッティの頬は紅潮し、少し汗ばみ始めた。


「坊主、酔ってきたなぁ……、そろそろ切り上げようか、え?」


客は赤ら顔で言い、意気揚々と立ち上がった。

スキャッティも席を立ち、客のために店の戸を開ける。


勘定を済ませ、店を出ようと数歩歩いたところで、酔いが回った客は床に倒れた。


ウィネは客を何とか店から離れたところへ運んで行って、路上に放置した。


客はそのまま鼾をかいて寝入ってしまった。

そのうち、巡回の警察なんかが見つけてくれるだろう。



強引に客だけを追い払い、ウィネは店へ戻ってきた。


まだスキャッティは店内にいて、不安そうな顔をしていた。


ウィネはその頭を撫でて言った。


「まだ腹減ってる?」

少年はこくりと頷いた。



ウィネは、臨時休業の札を表に掛けた。

スキャッティは、あの日のように、カウンターの中央から2つ外れた席に座っている。


「怖かったろ?…あんな野郎に絡まれてさ」


豆の缶詰をあけながら、ウィネは言った。スキャッティはぎこちない笑みを浮かべた。


ウィネは、スキャッティの表情に一つため息をつき、カウンターから出た。


そっとスキャッティを抱きしめ、彼の頬に触れた。


「またあんなのが寄ってきたら、すぐ俺んとこに逃げてきな、いいな?」

スキャッティは、黙ってウィネを見つめている。


「悪いな、今日は簡単なもんだけど」

言って、ウィネは食事を出してやった。


缶詰の煮豆とクラッカーとゆで卵を前に、スキャッティは嬉しそうだった。


「今晩、泊まってもいい?」

スプーンについた豆の甘い煮汁をねっとり舐めてから、彼はふと、ウィネに訊いた。

「ん?お前、家は?」


調理器具を洗いながら、ウィネは訊ねた。


「帰るには……遠すぎるんだ」


ぐさっと、ゆで卵をスプーンで突いて、スキャッティは呟いた。


「……そうだな、…また何か危ない目に遭ったらあれだし。いいぜ、泊まってけ」


スキャッティの様子に瞬きし、ウィネは承諾した。


「ごめん…また、お金持ってないんだけど…」

言いにくそうに、スキャッティがウィネを窺い見た。


ウィネにとってスキャッティは一応、客だ。


「ま、気にすんな」


「何か、しようか?お金の代わりに」


潰したゆで卵をクラッカーにのせて食べながら、スキャッティがまた言った。


「何もしなくて良いさ、お子様はさっさと食べて、風呂入って寝ろ」


「……判った」


スキャッティが食事をしている間に、ウィネは風呂を沸かした。


自分以外の誰かのために風呂を沸かすのは、何年ぶりだろう。

ウィネは思った。


店に戻ると、スキャッティが使った皿を洗っていた。

自分以外の誰かが、台所にいるのを見るのは何年ぶりだろう。

ウィネは微笑んだ。


「風呂もう沸くぜ、入ってきな」

ウィネは、スキャッティから洗い物を取り上げた。少年の指は白くて細かった。


自分の食事を終え、店の掃除をしながら、ウィネは風呂の水音を聞いた。

自分以外の誰かが、この店の二階の、ウィネの自宅にいるのは何年ぶりだろう。


ウィネは懐かしさを覚えた。


風呂場へ行くと、スキャッティがバスタオルに包まっていた。白い肌に血の気がのぼっている。


「寝室に着替えだしておいたから、使えよ」

スキャッティは頷いた。


ウィネが風呂から上がり、寝室へ入ると、スキャッティは椅子に座って眠っていた。


可愛い奴。


ウィネは微笑み、彼を抱き上げてベッドに運んだ。

「ウィネ?」

目を覚ましたスキャッティに布団を掛けてやる。

「寝るの?」

「スキャッティ、お前は先に寝てろ。俺はもう少し起きてる」


部屋のちいさなテーブルで、ウィネは寝酒を飲む。

それは彼の習慣であり、先代の習慣でもあった。


「注ごうか」

スキャッティが起きてきて、酒をグラスに注いでくれた。


「さっきの牛乳、どうなってたの。お酒の香りはするのに、お酒の味はしなかったよ」


向かいの椅子に座って、彼はウィネに訊いた。ウィネは答えた。


へぇと頷いて、彼は酒を注ぎ足した。


「一人暮らしなの?」

ウィネは答え、酒を飲んだ。

スキャッティが酒を注ぎ足した。


「兄弟は?」

「兄がいるよ」


「お兄さんなんて名前?」

「ウィヌム」


スキャッティが可愛らしく笑って


「ちょっと名前似てるね。仲良さそう」


なんて言うから、ウィネは嬉しくなって、酒をくぃっと飲み干した。


別の質問をされ、ウィネは答え、スキャッティは頷いて酒を勧める。


スキャッティが質問する、それに対してウィネが返答する、酒を少量ウィネは飲み、スキャッティがまた酒を注ぐ……。


繰り返す。


スキャッティは、ごく普通の、好奇心旺盛な子供のようで、ウィネのこと、店のこと……質問は尽きない。


湯冷めする体を酒で温めながら、ウィネはこの時間を楽しんだ。


自分以外の誰かと、こんなに寛いでいるのは久しぶりで、ウィネは幸福だった。


だが、気づけば、いつもよりはるかに多い飲酒量。

ウィネは、自分がそんなに酒に強くないことを知っている。


ウィネの頭の中に警鐘が鳴り響いた。


「もう遅い、寝るぞ」

スキャッティから酒瓶を取り上げた。

「……寒い」

スキャッティがしがみついてきた。

何の気なしにウィネは震える少年を抱きしめた。

「……ウィネ」

囁くような子供の声。

そして、明らかな意図を持った、触れるだけの口付け。


「……ウィネも冷えてるよ」

ウィネの警鐘は鳴り止んでいた。


スキャッティをベッドに押し込み、自分も隣に入った。


翌朝。

ウィネは、自分の隣で眠るスキャッティを見つめた。


彼の肩や膝が、まだ案外子供のように丸みを帯びているのを、ウィネは昨夜初めて直に触れ、知った。


もはや彼が子供ではなく、だが決して大人になりきっていないことを知っている男が、自分以外にどれだけいるのか。


悲しい気怠さの中、ウィネはスキャッティを見つめた。


薄いカーテン越しの光の中で少年は、体を丸めて眠っている。

胎児のような格好で、淡く美しい朝日から逃れるように、掛け布団に包まっている。


昨晩見たスキャッティの体は綺麗で、輪郭……特に背から腰にかけての線は何か楽器に似て、滑らかだった。


昨晩の、仄暗い中で身を震わせていたスキャッティ。


その肌の白さ、髪の黒さ。


ませた少年は、明らかに異国の香りがした。



「おはよう……夜は満足できた?」

目を覚まし、スキャッティは言った。

「……お前、最初から企んでたのか?」

ウィネは訊いた。


「そうだよ」

スキャッティは自分の服に着替えながら答えた。

彼のシャツの袖口は解れていた。


「何で」

「これで、ちゃらにしてくれるかい?」

スキャッティは言った。


「お前……代金のつもりか、俺相手に、お前……」

「いけなかった?」


ウィネは胸のうちに苦いものがこみ上げた。

喋っているだけだったあの時間。

幸せな満ち足りたひととき。


それは全て、この一夜に打ち砕かれた。


少年に抗えず、誘われるがままに、ウィネは確かに快楽を得た。


昨夜の全て、何もかもが悔しかった。


「俺は、お前を買ったのか」

「そうなるんじゃない?」


「俺は、お前にこんなことさせたくて飯食わせたわけじゃ……、泊めてやったわけじゃ……」

声を震わせるウィネを見つめ、スキャッティが訊く。


「あの日、君が僕に食べさせてくれたのは、親切心からだったわけ?お店の経営者が、損得抜きにそんなことしていいの?」


「……お前を昨日、あの客から助けたのは間違いだったのか」

唸るように問うウィネを、スキャッティは落ち着いた、どこか賢そうな目で見つめる。


「間違いかどうか、それは君が決めることだよ」


「人の親切をお前、よくもそんな」


「……悪いこと、したかな、僕」

小首を傾げるスキャッティ。


ウィネは泣きたかった。

泣く代わりに怒鳴った。


「さっさと失せろ、二度とくるんじゃねぇ」


スキャッティは頷いた。

「うん。……君を客にとった僕が間違っていたね……僕は一晩5000ヤーエ以上とることにしてるんだけど、二回分の飲食代に足りるよね?……さようなら、ウィネ」


ウィネの頬に優しく口付けるとスキャッティは、ウィネの答えを聞かずに、ウィネの目の前から去った。


透明な口付けをのこして、美しい少年は消えた。



**********


「本当に、来なくなったな」

嵐の晩。

客の一人もいない店内で、ウィネは呟いた。あれから数年が経ったのに、嵐の日には昨日のことのように思い出す。


あの最悪の朝、彼を追い出したあの日は、天気が大きく崩れ、夕方からひどい嵐になった。

そのせいか、嵐の晩は特に彼のことを思ってしまう。


あの少年がどこにいるのか、どこに住んでいるのか、何も知らない。


自分より10歳近く年下の少年。家に寄り付かず、どこかの路上で私娼をしているらしい少年。

美しい少年。


出会った日のように、あの子が灯りの下でうずくまっていないかと未だに期待している自分にウィネは苦笑した。


出会ったあの日も雨だった。

雨が止むまで店で過ごさせ、オムレツを食べさせてやったあの日から、幾度となく少年はウィネの店に姿を見せた。


初対面の時は名乗りもしなかった彼は、確か7回目に会ったとき、ようやく名前を教えてくれた。

それまでウィネは、彼を坊主とかガキとか呼んでいた。


「スキャッティ。……僕の名前」


ただで出しているお冷を、ちびちびと舐めていた彼は、ぶっきらぼうに名乗った。


スキャッティは、客が居ない時にふらりと入ってきて、いつもの席で水を飲み、

一時間ほど居座って、他の客の出入りにまぎれて、そっと扉をすり抜けるように店を出て行く。


挨拶を交わすだけで、会話らしい会話もなく、ふっと現れ、ただそこに居て、いつの間にか姿を消している不思議な少年だった。




 外の嵐にキイキイと悲鳴を上げていた扉が、がたりと開いた。


てっきり風で壊れたのだろうと思ったウィネは、戸口を見やって驚いた。


つばの広い大きな帽子を目深に被った人物が入ってきていた。


「あ、いらっしゃいませ」


「僕は客じゃない。……これが、飛ばされていたので持って来た」


全身からぽたぽたと雨の雫が滴るのを気にしてか、彼は店の奥に入ろうとしない。


戸口で突っ立ったままの彼が手にしているのは、店の看板を照らす灯りだ。


「ありがとうございます。よく、これがうちのだって判りましたね」


受け取って礼を述べる。


酒瓶と葡萄があしらわれた小さなカンテラに、店名は刻まれていない。


帽子のつばを引き下げて顔を隠したまま、その人は言った。


「見忘れやしないさ」


**************


カンテラを見つけてくれたあの晩以降、彼はちょくちょく姿を見せた。


「どうして、また来るようになったんだ」

ウィネは訊いてみた。


「来ては邪魔かい」

コップの水に口をつけつつ、スキャッティは聞き返す。


ウィネは、棚のワインボトルを一本一本、丁寧に拭きながら言った。


「いんや。……俺にとっちゃ、馴染みの客が通ってくれるのは有り難い」


スキャッティは、ウィネの答えに少し笑った。ガラスのコップをつついて言う。


「売り上げに全く貢献しない客が居着いたら困るだろう」


それもそうか、と笑いながらウィネは、拭き終えたボトルを棚に戻すべく、カウンターにくるりと体ごと後ろを向いた。


「……君が、言ってくれたから」

スキャッティがぽつりと呟いた。


ウィネは、スキャッティに背を向けたまま、ボトルを棚にしまう。

ラベルが見えるように向きを整える。

「お帰りって」

スキャッティのコップの中で、氷がからりと鳴った。



**********


ある日、

「こんばんは、ウィネ。この子に、何か頼めるかい」

スキャッティが少年を伴って来店した。


ウィネは戸惑った。

「えっと……お連れ様は、未成年では」


「強い酒など頼んでいないよ」

スキャッティは呆れたように言った。


「あの、僕、14歳です。セルディア・フィーリスって言います。……向かいの宿屋ターティに住んでいます」


名乗る少年に

「あぁ、うん。向かいね」

とウィネは素っ気なく返事をする。


この店は、路地を隔てて宿の裏に建っているので、それを“お向かい”と言われてもウィネにはしっくりこない。


宿ができたせいで、店の上階、ウィネの居間兼食堂に日が入らない時間が長くなったのも少し不満に思っている。


「僕はそこの宿泊客だ。……貸し切り状態だよ」

スキャッティは言いながら、いつもの席に座る。その真横に、セルディアも当たり前のように座った。


宿の息子にスキャッティは懐かれて、何かと面倒をみてやっているようだ。


「何か、……紅茶とか、あれば頼みたい」


ウィネは少し悩んで、温めた牛乳に刻んだチョコレートを入れた飲み物をセルディアに出してやった。


「甘ーい!!とっても美味しいです」


大喜びでチョコレートミルクを飲むセルディアに優しい眼差しを向けながら、

「すまないね、ウィネ。ありがとう」

スキャッティは礼を述べた。


「あのー。チョコミルクください」

それから、セルディアまでこの店に通って来るようになった。


「お子様は家に帰って飯を食え」


ウィネは、口ではぴしゃりと言いながら、手元の片手鍋に牛乳を注いでいる。


「うーん。ちょっと、居づらくて」


困ったように笑うセルディアを一瞥し、ウィネは早くもセルディア専用となったマグカップを棚から出し、調理台に用意する。


二人ともが黙ると、甘いチョコを刻む音だけが聞こえる。


そこへ、スキャッティがやってきた。


「セル、それを飲んだらお帰り。マスターが心配していたよ」


いつもの席に座って、スキャッティはセルディアに言う。


「そう……」


聞き流して、チョコミルクをゆっくり飲んでいるセルディアに、スキャッティがふと思い出したように言った。


「そういえば、夕飯、若鶏のカツレツにマッシュポテト、ゆで卵がたっぷりはいったマカロニサラダだったよ」


それを聞いて、セルディアがぴょこんと跳ねた。


「じゃぁ、早く戻らなきゃ」


チョコミルクを急いで飲み干し、セルディアは

「ウィネ、ご馳走さま!」

と言いつつ、駆け出して行った。


「……彼の好物。マスターも、セルの養父になろうとして、必死なんだ」

「養父?」

短く問えば、スキャッティは逡巡してから答えた。

「あの子は母子家庭で、母の仕事の都合で居所を転々としている。今は宿屋の主人のもとに身を寄せている。旧知の仲らしい」


「セルの、母親ってのは」


「仕事の無理が祟って、……療養中だ。回復すると良いんだが」


ウィネはスキャッティを見つめた。


だが彼はドアの方を向いて、それきり何も言わない。


「チョコミルクが鍋で温まってるんですけど、いかがです?」


「酒場の店主のおすすめかい? 頂こう」


一口飲んで、

甘いな。

とスキャッティがぼそっと呟いた。


「お子様にぴったり」


戸口が、がやがやと賑やかになり、既に酔っ払った男女数名が入ってきた。


「さて、僕はお暇しよう。マスター、チョコミルクのお代は?」


ウィネは瞬きした。


少し考え、スキャッティの茶色の目を見つめ返して、値段を告げた。


「お前も、宿に戻るのか」

財布を開けて硬貨を数えながらスキャッティは答えた。


「僕はね。でも、そこが彼の帰る場所になるよう祈っているよ」


ちゃらと小銭をウィネに渡し、続けた。

「戻る場所じゃなく」


「お前も、帰ってくれば……その、」


「すみませ~ん、マスター!!」


カウンターから客に呼ばれ、ウィネがそちらに気を取られたすきに、スキャッティは店を出ていった。


ここに帰ってこい。

そう伝えることはできなかった。


**********


とある常連の男性客が来なくなり、彼と少しばかり親しくなっていたスキャッティも、来なくなる。

セルディアが夕方に遊びに来る日々が続く。


「なぁ、セル。スキャッティは、まだ宿に泊まっているのか?」

ウィネが問うと、セルディアは頷いた。


「でも、昼間は出かけてて、夜に部屋に戻ってくるよ。疲れてるみたい。いっつも眠ってる」


此処へ来ない寂しさはあれど、彼が夜に眠れていることにウィネはほっとした。



**********


ある秋の、客の一人もいない夜の酒場。

店主のウィネが、酒瓶を一本一本、丁寧に拭いている。

扉が微かに軋んだ。


「こんばんは、ウィネ」


落ち着いた声が挨拶する。


ウィネの店に入ってきたのは、黒髪の青年、スキャッティだ。


「やぁ、スキャッティ」

拭いている酒瓶から目を上げて、ウィネも客に挨拶する。


いつものように彼は、カウンターの真ん中から2つ奥の椅子に座った。


今日はカウンターの板に視線を落としたまま、黙っている。


ウィネはしばらくスキャッティを眺め、何も言わずに酒瓶を棚に戻した。


30分ほどして、店の戸を賑やかに開けて、セルディアが入ってきた。


「スキャッティ!」

彼はスキャッティに駆け寄った。


ウィネは軽く眉を顰め、

「セルディア、そこに座れよ」

スキャッティと一つ椅子を挟んで隣、ちょうどカウンターの中央の椅子を勧めた。


「え? 何で? 何で隣だめなの?」

「いいからそこ座れや」


セルディアは渋々、ウィネに従った。

スキャッティが一度ちらりとウィネを見た。


「何か飲むかい?セル」

ウィネはセルディア専用のマグカップを出して訊いた。


「あ……いつもの!」

はしゃぐ少年に笑顔を返し、ウィネはチョコレートを刻み始める。


一定のリズムでチョコの刻まれる音を聞きながら、セルディアはスキャッティに顔を向けた。


「ねぇスキャッティ……本当に行ってしまうの?みんなが言ってるんだ…君が、この町を出て行くって」


かこっと、チョコの最後の一欠片が砕かれた。


ウィネは、火にかけた小さな片手鍋に牛乳を注いだ。

そこへ砕いたチョコの殆どを入れ、ゆっくりかき混ぜてチョコを溶かしていく。


優しい甘い白色だった牛乳が、徐々に白っぽい茶色へと変わっていく。


セルディアに答えずに、ウィネの手元を見つめていたスキャッティが、


小さくため息をついた。

「……僕が何処へ行こうと、皆とは関係ないし、それは、僕の自由だろう?」


セルディアから目を背けるように右肘をカウンターについて、スキャッティは答えた。


「そんな……そんなの酷いよ、冷たすぎるよスキャッティ!本当に出て行くの?また戻ってくるよね?」


セルディアは体ごとスキャッティの方を向いた。スキャッティは頬杖をついて、店の奥を見つめている。


彼の顔は、セルディアからは見えない。


スキャッティの、俯き加減の横顔を一瞥し、ウィネは敢えて黙ったまま、自分の作業を続けた。

カップにほんのり温かいチョコレートミルクを注ぎ、先程残しておいた砕いたチョコを浮かべる。

「ほい」

出来上がったウィネ特製の甘いドリンクに、少年の顔が綻んだ。

「いただきます!」

いつもより明るい声で彼は言い、いそいそとカップを口に運んだ。


「……あれ?いつものより少し苦い……気がする」


一口飲んで首を傾げるセルディアに、ウィネは微笑んだ。


「チョコをな、少しだけ、苦いのに変えたのさ」


二種類のチョコを手に、ウィネは種明かしすると、少年に訊ねた。


「飲めない味かい?」


曖昧に首を横に振るセルディア。

あまりお気に召さなかったようだ。


「何で変えたの、チョコ」

「俺の気分さ。……ちょいとばかし、大人っぽい味になるかしらってね」


ウィネは、2人の客の間の空席を見て言った。

スキャッティはさっきから、店の奥の壁に掛けられた絵を、軽く目を細めて眺めている。


ウィネはまた、黙したままのスキャッティをちらりと見た。


くるりと彼に背を向け、ウィネは棚から白ワインを取り出した。


細身のグラスに注ぎ、スキャッティの前に出す。


「…………頼んではいないよ」


漸く此方を向き、スキャッティは言った。


「だから、俺がそれをお前に出したい気分なの」


そう言うウィネの青い目を見つめ、

「……では頂くよ」

ほんの一口だけ飲んで、スキャッティはグラスを置いた。


暫くグラスに入ったワインを眺めてから、彼はそれを飲み干した。


「……ご馳走様」

空のグラスが、コースターにそっと戻される。

「ねぇウィネ、スキャッティは白ワインが好きなの?」

「さぁね、俺が知るかい」


別のグラスを拭きながらウィネはセルディアに答えて言った。


「ただ言えるのは、それは、酒嫌いの奴が俺の店で飲んだ初めての酒だってこと」


グラスを拭く手は休めずに、彼はそう続けた。


「そうなのスキャッティ?」

「……何度も此処へは来ているけれど、この店で飲んだ酒は、この一杯だけさ……僕は酒は好かないからね」


視線のみをセルディアに向け、スキャッティは今度はあまり間を置かずに返した。


扉が開いて、一人の客が入ってきた。

「いらっしゃ……」

軽く顔をそちらに向けたウィネの言葉が切れ、その手からグラスが落ちた。


ぱりんと床でグラスが砕けた。


新たな来客を、呆然と見つめるウィネ。


「怪我は、無いか」

目を伏せ、右腕で頬杖をついた姿勢のままスキャッティはウィネに訊いた。


「あ……あぁ、大丈夫」

我に返ったウィネは床に屈み、割れたグラスの破片を拾い集めた。


「何か……頼んでもいいか」

客は言った。

「わたくしがお客様にお出しできるものが、果たしてありますかどうか」


客を見もせず、ウィネは突き放すように言った。

客もまた、ウィネから目を逸らし、カウンターの板を見つめながら言う。

「無ければ?」

「どうぞ、お引取りください」

接客を放棄したウィネに、スキャッティがぽつんと呟いた。


「いつものを、おくれよ、マスター……彼にもね」

ウィネがスキャッティを見た。

スキャッティは、自分の隣の空席を見ている。


「彼がそう言ったのを、まねしただけさ」

だがウィネは、震える手で果物を切り始めた。


今夜は変だ。

だってスキャッティがお酒を飲んだ。

全ておかしい。

だってウィネがグラスを割った。

何かが狂っている。


苦いチョコレートミルクを啜りながら、セルディアは思った。



「私の一人息子が、患っていてね」

客が不意に言った。

ぴたり、とウィネのナイフが一瞬止まった。


「彼とはたいそう仲が良かったとみえるね。まるで兄弟のように。彼は君に会いたいそうだ」


「……えぇ。よくして頂きました。……私を弟のように可愛がってくださった」


皮を綺麗に細く剥き、カウンターからは見えない調理台で果物を皿に盛り付ける。


「彼も、よくここへ?」

ウィネは客の問いに、肯いた。


苺を一粒、皿に載せる。


「誰も頼んでいないその果物をどうするのか、訊いてもいいかい?」


ウィネの動きを横目で眺めていたスキャッティがぼそっと言った。


「…………あ」

ウィネは困った。つい、用意してしまった。

その空席を彼は見つめた。


「……お出ししたらどうだ、彼の好きだった味を」


頬杖をついてそっぽを向いているスキャッティが言った。


「あれを?」


スキャッティの前に置かれたままだった空のグラスを下げ、ウィネは訊き返した。


「そちらの方が飲みたいと仰るなら……いや、君の好きに」


スキャッティはちらりと客を見た。


ウィネは暫しスキャッティに目を留め、鍋に湯を沸かし始めた。


「君は……いったい誰だ?君は私や私の息子を知っているようだが」


少々戸惑いながら、客がスキャッティに尋ねた。


「ここの客です。上の息子さん…いえ、ウィヌムさんとは幾度か、こちらでお会いしました。

ウィヌムさんが貴方とお話しているところを以前見かけましてね、」


ウィネに一度視線を向け、


「彼から、貴方のことを」


客にスキャッティは答えた。


「そうか、……君が。息子から少々君の話はきいたよ。年は幾つ?」

「今年で二十歳です」


そうだったのか、とウィネは思った。


「まだ子供じゃないか。……なのに君はふらふらと、酒を飲み歩いているのか?たとえばこんな店で?家にも帰らずに?やれやれ……親御さんが悲しむよ」


「……酒を飲んだのは、今日が初めてです。家へはもう何年も戻っていませんね……」


「ほぅ……家も親も捨てる子というのは、何処にでも居るのだね」


客の言葉に、ぴりっと、スキャッティの纏う空気が張り詰めた。


「……ウィヌムさんの飲んでいらしたもの、召し上がりますか?」


スキャッティが客に問い直す。


「そこまで言うなら」


ぶしつけにスキャッティをじろじろ見ながら、客が言った。


「ウィネ、僕も戴きたいね……ただし、砂糖抜きで」


「承りました」

スキャッティに頷いて、ウィネは角砂糖を一つ、カウンターに置いた小皿に載せた。


そこにウイスキーを数滴垂らす。

じんわりと酒が砂糖に滲み込んでいく。


ティーカップを二つ並べ、熱い紅茶を注ぐ。


「お待たせしました」


先ほどの角砂糖を沈めた紅茶を、ウィネは客に供した。


旬の果物が美しく飾り盛られた皿も、彼の前に置く。


「どうぞ……トロエ様」

「……」


客は会釈もせず、黙って紅茶を見つめている。

「え……?トロエって、……ねぇ、スキャッティ?あのお客さん、もしかしてウィネの…」

「……いい子だから、お黙り、セルディア」

深く出した苦めの紅茶を飲み、スキャッティは優しい声で言った。


トロエ氏は会計時に、一つの病院の名を言い残して去った。


「行けない距離ではないな」

スキャッティが言って

「行っていいらしいや、俺も」

ウィネはほんのりと笑みを浮かべた。



苦いチョコミルクを頑張って飲み干し、セルディアは

「あの、僕、家に、帰るね」

そう言って、店を出ていった。

宿屋を営む家に“帰る”ために。




スキャッティは尚も、店の奥を見つめている。


「スキャッティ」

ウィネが声をかけた。

「……行ってしまうんだな」


たっぷりと間があった。


スキャッティは紅茶を飲み終えてもまだ黙っていた。


「君に、僕が家を出た訳を話したことはなかったね」


ウィネがカップを下げようと手を伸べた時、唐突にスキャッティは答えた。


「あ、……あぁ、でも」

ウィネが止めようとするのを無視して

「父親が酒飲みで、……女もいた」

感情のない声で、彼は言った。


「……内縁の妻か」

考えて言葉を選んだウィネを一瞥し、

「そうさ、不倫相手だ」

吐き捨てるようにスキャッティは言った。


「母と妹は家を出て、よその国にいた親戚の元に身を寄せた。そこは父子家庭だったので、母は親戚と再婚した。僕は、……親戚の元には既に跡取りがいて、……男子が増えては困るというので、父のもとに残らされた」


つまり、母に見捨てられて、置いていかれたのだ。


「そして父は女に逃げられ、僕がその代わりになった。酒代も僕が稼いだ。……ある日、父が酩酊した隙に、家を逃げ出してきた。それだけのことさ」


唖然としているウィネに、スキャッティは淡々と続ける。


「父の飲んでいた酒を、僕も飲まされた。……ひどくきつい香りで、吐き気がした。酔わされて頭が痛かった。なぁ、ウィネ。さっきのをもう一杯、おくれよ」


「スキャッティ」


「ねぇ、さっきのワインを、もう一杯くれないか」


逡巡した挙句、ウィネはスキャッティにまたワインを注いでやった。


グラスの中で輝く白ワインを見つめ、口を付けずにスキャッティは言った。


「あぁ……綺麗だ」


スキャッティは泣いていた。


「……君がくれるお酒は、美味しい。とても……綺麗で、香りが良くて……」


グラスを置き、スキャッティは俯いた。


「でも、僕も。家に、帰ろうと思う。久しぶりに」


顔を上げ、スキャッティはどこか寂しげにそう告げた。


久しぶりに帰る先は、何処なのだ。


母と妹は遠い国にいて、そこはスキャッティの家ではない。


ならばスキャッティは、かつて帰るには遠いといった別の町の何処かで、また、父と暮らすというのか。


「そんなところに、帰るのか」

ウィネは引き止める代わりに訊ねた。


スキャッティの顔に、微笑が広がっていった。

やがて、堪えきれないというように、ふふ、ふふ、とかすかな声を立てて笑いだした。


そしてはっきりと言った。


「父が死んだ」

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命の水 日戸 暁 @nichi10akira

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