カクコン11短編『欲』
宮本 賢治
1話完結·短編
順風満帆。
振り返れば、そんな人生だった。
3人の子宝に恵まれた。
バブル真っ只中。
わたしはバブルを知らない。
子育ての記憶しかない。
ちょっと回覧板を回しに出かけて、帰ったとき、3人の子どもたちの鳴き声が家の中から、聞こえた。
急ぎ、鳴き声の元へ。
ひっくり返った衣装タンス。
血だらけの子どもたち。
まさに血の気が引いた。
たたんだ洗濯物を片付けるお手伝いをしようしたらしい。
上の段にシャツをしまおうとしても届かない。そこで、下の段を開け、それを踏み台にしたら、バランスを崩してタンスは倒れた。その下敷きになったようだ。
この事件で、長女は頭に一生消えない切り傷を負った。しかし、髪の毛で隠せるし、今となっては、笑い話。
苦労も何もかも、過ぎれば、すべては笑い話だ。
3人ともそれぞれに家庭を持ち、かわいい孫たちの顔を見せてくれた。
こんな幸せなことはない。
そして、
夫。
家業を継ぎ、何不自由のない暮らしを守ってくれた。
事業主。
社員の健康を心配し、社員たちには、定期健康診断を必ず受けさせていた。しかし、自分は医者嫌いと言って、診断を受けていなかった。
夫の体調に変化があった。
休肝日無く、毎日飲んでいたお酒が飲めなくなった。
黒い便が出ることが続いた。
体の中から、激しい痛みを感じる。
そう言って、病院に行った。
胃癌だった。
ステージ4
2/3の胃を切除した。
癌が転移しているかもしれない。
高価な治療薬を使った。
薬の副作用に苦しんだ。
ひどい吐き気。
何も食べられず、栄養は点滴に頼った。
副作用には苦しんだが、おかげで癌の転移は無く、抗癌治療を終えた。
人は病気やケガ、事故なのではなく、寿命をまっとうするのが一番。
夫婦2人。静かに訪れる死を待つ。
幸せな人生だったと思う。
これ以上望むものは無い。
欲。
そんなものは、もう無い。
最近、夫の様子がおかしい。
何も考えていない気がする。
仕事を引退し、長男にすべてを任せた。
隠居生活。
何も考える必要が無いのだろう。
当たり前のことを、ただ当たり前にこなすだけ。
知人のご主人がアルツハイマーがひどくなり、そのまま、老衰で亡くなった。
考えなくなると、アルツハイマーは進む。何もかも忘れる。
食べることを、
息をすることを、
心臓を動かすことを。
生きる欲が無くなる。
それを老衰と呼ぶのか?
そんな気がする。
夫は食べることが好きだった。
夕食を食べながら、
明日の夕食は何?
と聞いてくる人だった。
「その日のゴハンが何かわかってると、
帰るとアレが待ってると思えて、
1日がんばれるんだ」
そう言って、笑う彼が好きだった。
今日の夕食。
夫の好きな金目鯛の煮付け。
夫が一口食べた。
「何か、甘み足りないな」
夫の感想に、あら、ごめんなさいと謝った。
「赤魚はもっと下品に砂糖をタップリ使って、甘く煮付けるもんだ」
夫は文句を言いながら、煮付けを残さず食べた。
シメシメ。
わたしはちょっとイタズラをしたのだ。わざと、甘みを弱くした。当たり前のことを当たり前に。それが良くないのかなと思い。変化をつけてみた。
夫は変化に気づいた。
頭を使い、考えたのだ。
生活にちょっとした変化。
ストレスにならない程度の変化は刺激になる。
お詫びに明日は、大好物の肉豆腐を作ってあげよう。
もちろん、イタズラ無しだ。
今日の反応を見て、わたしはあることに挑戦しようと思った。
それは、
夫に明日の夕食は何?
そう言わせること。
明日はアレか!
そう思って、生きることをがんばって欲しい。
生きることを楽しみに、
張り合いを持って欲しい。
そうしたら、わたしもがんばって生きられる。
そんな気がする。
欲が出た。
生きる欲だ。
欲の無い人生、
そんなのはつまらない。
了
カクコン11短編『欲』 宮本 賢治 @4030965
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