第六章:竹林の向こう側

八月十五日、午後十一時過ぎ。

 八幡町は完全に闇に沈み、月明かりさえも雲に隠れていた。

 遠くから「パチ……パチ……」という薪のはぜる音が一定のリズムで響き、町全体がその音に包まれている。

 炎はまだ見えないのに、焦げた匂いだけが鼻をつく。


 静馬は短刀を帯に差し込み、玄関で深呼吸をした。

 背後には夏芽と狩野刑事。二人とも懐中電灯を手にしているが、その表情には恐怖が滲んでいた。


 「行くなら……今だ」

 狩野の声は低く抑えられていた。

 静馬は頷き、庭先へと歩き出した。


 竹林の入口は、昼間とは別物のようだった。

 竹が風に揺れず、まるで生き物のように道を塞いでいる。

 足を踏み入れると、空気はひやりと冷たく、蝉や虫の声は一切聞こえなくなった。

 あるのは薪の音だけ。


 一歩、また一歩と進むたび、背後の景色が闇に溶けていく。

 振り返れば、もう家も町も見えなかった。

 「絶対に振り返るな」——夏芽の言葉が脳裏をよぎる。


 やがて、竹の合間から青白い光が漏れ始めた。

 炎の色は現実の火とは違い、まるで水の中で揺れているようだ。

 その光の中に、人影がぼんやり浮かんでいた。

 ——妹の澪だ。

 七歳の姿のまま、白い浴衣を着て、笑みを浮かべている。


 「お兄ちゃん……来て」

 その声は懐かしくも、どこか耳の奥に直接響くような不自然さがあった。


 狩野が小声で言う。

 「気をつけろ……あれは——」

 言い終える前に、竹林の左右から白い腕が幾つも伸び、道を塞いだ。

 腕は炎のように揺れ、触れた竹が一瞬で黒く焦げる。


 奥へ進むと、竹林はやがて開け、そこに古びた祠——薪の社があった。

 社の周囲では、白装束の人々が無言で薪を積み上げ、その中には見覚えのある顔もあった。

 ——町の古老、かつての同級生の父、そして……母の兄、伯父の姿。

 十年前に逃げたはずの伯父は、俯いたまま薪を抱えていた。


 「伯父さん……」

 静馬の声に伯父は顔を上げたが、その目は虚ろで、感情が抜け落ちていた。

 「……遅かったな」

 低く呟き、再び薪を炎の中へ投げ込む。


 炎の奥で、澪が手招きをする。

 その背後には、長い髪の女が立っていた。

 白い顔に赤い唇、そして目だけが炎の色を映して異様に光っている。


 女が微笑むと、炎が一斉に揺れ、薪の音が耳を打った。

 「さあ……迎えに行け」

 それが女の声だったのか、炎そのものの声だったのか、静馬にはわからなかった。


 ——次の瞬間、地面が抜け落ちるような感覚に襲われ、世界が炎に包まれた。

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