第五章:荒川家の血
八月十五日、盂蘭盆の夜。
朝から町は不気味なほど静かだった。
家々の窓は固く閉ざされ、戸口には盛り塩や護符が置かれている。犬の吠える声も聞こえず、風の音だけが町を流れていた。
——誰もが、今夜が何の日かを知っている。
昼過ぎ、夏芽が古びた木箱を抱えて現れた。
中には、虫食いだらけの巻物と、黄ばんだ家系図。
家系図にはところどころ赤い墨で“薪当番”と記されており、その多くが荒川家の長男や当主の名だった。
「……薪当番?」
静馬が問い返すと、夏芽は眉を寄せて言った。
「八幡様の社に、“人”を捧げる役目。代々、当主の血筋が担ってきたの」
「迷信だろ」
「そう思いたいけど、これが途切れた年には、必ず大きな災いがあったって記録が残ってるの」
その時、襖が静かに開き、母が入ってきた。
「……静馬。あんたには隠してきたことがある」
母は畳に正座し、深く頭を下げた。
「お前が十歳の夏……本当は、私の兄——お前の伯父が“薪当番”だった」
「伯父さんが……?」
「でも、あの人は怖気づいて逃げた。儀式の前夜に、家も、町も出ていった」
母の声は淡々としていたが、その奥に押し殺した感情が滲んでいた。
「代わりを立てなければならなかった。当主の血を持つ者の子……それが条件だった」
静馬は息を呑む。
「……だから、妹を?」
母は静かに頷いた。
「澪はまだ七つだった。……でも、町は私に選ばせなかった」
母の目が遠くを見つめる。
——十年前の夏の夜。
庭先では提灯が揺れ、蝉の声が夜に溶けていた。
澪は花火の残り香をまといながら、ふと立ち上がり、竹林の方へ歩き出した。
その足取りは迷いがなく、呼び止めても耳に届いていないようだった。
母は縁側からその背中を見つめた。
竹林の奥には青白い炎が揺れていた。
炎の前には小さな祠、そして白装束の男たち。
その中に見覚えのある顔があった——町の古老や、親戚筋の者たち。皆、無言で澪を囲み、祠へと導いていった。
「私は……あの夜、止められなかった。止めれば、次はお前が連れていかれるとわかっていたから」
炎が大きく揺れた瞬間、澪の姿は光の中へ吸い込まれ、跡形もなく消えた。
残ったのは、地面に舞う温かな灰と、薪のはぜる音だけ。
母は両手を膝の上に置いたまま、低く続けた。
「それからずっと、八幡様の夢を見る。炎の奥で澪が笑って、手招きしている夢を」
「なぜ……なぜそんなことを黙っていた」
「言えば、お前も……」
母の声は途切れ、唇が震えていた。
その時、玄関で音がして、狩野刑事が現れた。
「町の西側で、また一人消えた。もう警察じゃ止められん」
懐中電灯を握った彼の顔には、刑事らしい冷静さはなかった。
「静馬さん……妹を取り戻すなら、今夜しかない」
夏芽は机の上に古びた短刀を置いた。
「これ、荒川家が代々持ってたもの。八幡様を祓える唯一の道具だって」
刃は黒ずみ、柄には松脂のような樹脂が固まっていた。
窓の外から「パチ……パチ……」と薪の音が響く。
竹林の奥で炎が揺れ、その中心に澪が立っている。
幼い頃の姿のまま、微笑みながら——。
静馬は短刀を握りしめた。
「……行く。今度は俺が迎えに行く」
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