七日目:最後の皿

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 朝日に照らされた、バザールを見下ろせる高い丘の上で、死刑囚ジャウハラは、目を覚ました。

 風が静かに吹き抜け、草の葉が揺れている。

 空は澄み渡り、遠くの街並みが金色に染まっていた。

 その光景は、牢獄の石壁では決して見られない、自由の色だった。


「……!?」


 ジャウハラの手足を縛っていた鎖は、すでに外されていた。

 冷たい鉄の感触が消えたことで、彼の身体は軽くなったように感じられた。


「なんだ……ここは? どうして?」


 ジャウハラは、驚きと戸惑いを隠せず、目を見開いた。

 その瞳には、長い間見ていなかった朝の光が映っていた。


「あ、お目覚めですか、ジャウハラ隊長」


 そんな彼の前に、看守サフラが現れた。

 腕には、たくさんの買い物袋が抱えられている。

 袋の中には、見覚えのある食材がぎっしりと詰まっていた。

 赤ワインの瓶が、陽光を受けてきらりと光る。


「あはは。看守権限を使って、鍵を開けて、脱走してきちゃいました。でも、……昼頃には、兵士が来ると思います。だけど、それまでの間は、遠方からの監視付きで自由にさせてくれるそうです」

「……何故……!? 俺は、王殺しの大罪人だというのに……」

「もちろん、詳細は知らないのだろうけど……みんな、ジャウハラ隊長が好きなんですね。ジャウハラ隊長に助けてもらったり、ジャウハラ隊長に守ってもらったり、激励してもらったり……みんな、ジャウハラ隊長が、やりたくて王殺しなんてしたって思ってないんです。だから……」


 サフラの声は明るく、どこか無邪気だった。

 だが、その言葉の裏には、深い覚悟が滲んでいた。

 ジャウハラは、サフラの顔を見つめながら、唇を震わせた。


「…………馬鹿、なんてことを、なんてことを! 脱走に関与したなんて露見したら、サフラ、お前まで連座で裁かれて──」


 怒りではなく、悲しみがこもった声だった。

 だが、サフラは笑顔で手を合わせた。


「……さ、ジャウハラ隊長! 辛気臭い話はやめて、ご飯をたべましょう! 自慢じゃないけど、何でも作れますよ。……僕は看守ですけど、荷物運びとかで王宮によく出入りしていて。王宮秘伝のレシピは、目で盗んできちゃいましたから」


 サフラの笑顔は、太陽のように眩しかった。

 その明るさに、ジャウハラは言葉を失った。


「…………サフラ。なぜ、どうして、そこまで!?」


 問いは、心の奥から漏れ出たものだった。

 ジャウハラには、理解できなかった。

 なぜこの青年が、命を懸けてまで自分に尽くすのか。


「さあ。どうしてでしょう。どうしてでしょうね……」


 サフラは、目を細めてジャウハラを見つめた。

 その瞳には、憧れと慈しみが宿っていた。

 ジャウハラの、赤い瞳。美しく長い黒髪。

 かつて盗人として処断され、歪んだ人生しか送れなかったはずのサフラが、見とれたひと。


「…………僕は、あなたに救われました」


 その言葉は、風よりも静かに、しかし確かに届いた。


「だからどうか、あなたの食べたいものを、教えてください、ジャウハラ様」


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 ジャウハラが、ためらいながら選んだメニューは、見覚えのあるものばかりだった。

 黒パンと豆のスープ。

 干し肉と酸っぱいキャベツ。

 王宮のロースト。

 母のレシピのシナモンパイ。

 ──毒も、睡眠薬も入っていないワイン。


 それは、彼の人生を彩った記憶の皿だった。 サフラは、手際よく料理を行い、二人前を簡易机の上に並べる。

 戦場の夜、王宮の厨房、母の微笑み──ジャウハラのすべてを象徴するような食事が、食卓に並んでいた。


「お。この干し肉、結構おいしいですね、ジャウハラ様」


 サフラは、笑いながら口に運み、干し肉を咀嚼する。

 その手は震えていたが、表情はとても明るかった。


「……そうだな、サフラ」


 ジャウハラは、ゆっくりと頷いた。

 その声には、安らぎがあった。


 サフラとジャウハラは、太陽が天高く昇るまで、ゆっくりと、食事を味わった。

 風が丘を撫で、草が揺れ、鳥が空を舞っていた。

 その時間は、まるで世界が二人のために止まっているかのようだった。


「なあ、サフラ、どうしてお前は……笑っているんだ?」


 ジャウハラの問いは、静かだった。

 だが、その奥には、深い感情が込められていた。


「……さあ。どうしてでしょうね? なんて……」


 サフラは、はにかみながら答えた。

 その笑顔は、涙を隠すためのものだった。


「……内緒にしてても仕方ないので、言いますね。確かに、僕、死ぬのは怖いです。怖いですけど……それ以上に――あなたの人生最期の食事の相手を務めることができるのが……光栄で、幸せなんです」

「……そうか」


 ジャウハラは、目を細める。

 その瞳には、感謝と哀しみが宿っていた。


「そうか……」


 ジャウハラとサフラは、目を合わせた。

 言葉はなかったが、何かが通じ合うような感覚があった。

 ジャウハラは、赤い瞳を細めて、微笑んだ。


 ジャウハラが最後に口にしたのは、母のレシピのシナモンパイだった。

 焼きたての香りが風に乗って、バザールの方角へと流れていく。

 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえた。

 その音は、かつて守ろうとした王国の未来のように、明るく、儚かった。


 サフラは、ジャウハラの隣で静かに座っていた。

 太陽の光が二人の影を長く伸ばしていた。

 その影は、まるで過去と未来が手を取り合っているようだった。ジャウハラは、ゆっくりと、サフラの手を握った。


「……ありがとう」


 その言葉が風に溶けていく頃、丘の上には、ただ穏やかな沈黙が残った。


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 翌日、死刑囚ジャウハラは、静かに死刑を執行された。

 処刑場には、朝の光が差し込んでいた。

 その光は、まるで昨日の丘の朝日を思わせるように、柔らかく、穏やかだった。


 彼に与えられたのは、即効性の毒薬。

 苦しむことなく、静かに息を引き取ったと記録されている。

 その顔には、わずかな安らぎが残っていたという。

 まるで、すでに心の中で誰かに別れを済ませていたかのように。


 その一週間後。

 元看守サフラも、連座扱いで処刑された。

 罪状は、死刑囚ジャウハラの脱走幇助。

 だが、彼に与えられた毒もまた、苦痛のないものだった。

 処刑場に立ったサフラは、最後まで笑顔を崩さなかったという。

 その姿を見た者は、誰もが胸を締めつけられた。


 表向きには、二人は王殺しに関与した大罪人として記録された。

 だが、彼らの墓は、荒らされることもなく、丁寧に守られていたという。

 墓標には、名前と簡素な言葉だけが刻まれていた。

 それでも、花が絶えることはなかった。

 誰が供えているのかは、誰も語らなかったが──。

 王妃ルゥルゥは、窓越しにいつまでも懺悔のような祈りを捧げていたという。


 真相は、闇に葬られた。

 真実は記録には残らず、語られることもない。

 だが、王宮の人々は、きっと感じていた。

 死刑囚ジャウハラが、王に向けて捧げた忠義を。

 元看守サフラが、命を懸けて守ろうとした秘された愛を。 


 ──それは、決して、声に出されることのない物語。


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王殺しジャウハラと看守サフラ 〜七つの晩餐〜 ジャック(JTW)🐱🐾 @JackTheWriter

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