五日目:母のレシピのパイ
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「今夜は?」
看守の問いに、男は少し目を伏せて答えた。
その瞳には、遠い過去を見つめるような静けさがあった。
「……母のレシピのパイ。リンゴとシナモンが使われていた……」
言葉は短く、しかしその響きには、深い情が込められていた。
しばらくして、厨房から運ばれてきたパイは、焼きたての香りを漂わせていた。
甘く、温かく、どこか懐かしい匂い。
牢の冷たい空気が、少しだけ柔らかくなる。
石壁に囲まれた空間に、ほんのひととき、家庭の温もりが差し込んだ。
「母は料理が得意だった。 家に帰るたびにこのパイを焼いてくれた。 俺が何をしていても、どんな顔をしていても、この味だけは変わらなかった……だが、母は……育ての父が亡くなってからすぐ、後を追うように……亡くなった……」
ジャウハラは一口食べると、しばらく黙っていた。
その沈黙は、言葉よりも雄弁だった。
「…………」
看守はその沈黙を破らなかった。
その夜、言葉よりも香りが、記憶を語っていた。
パイの湯気が、過去の情景を静かに浮かび上がらせている。
「……」
看守サフラは、昨夜の会話を追想する。
ジャウハラの告白は、あまりにも重く、あまりにも痛ましかった。
それは、真実であると同時に、贖罪の叫びでもあった。
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ジャウハラの話を聞いた看守サフラは、すべての真相を悟った。 サフラは、痛ましい表情をして、彼を見つめる。
『……ジャウハラ隊長、あなたは、ルゥルゥ王妃の罪を──』
『…………』
ジャウハラは、首を振った。
その動きは、否定ではなく、拒絶だった。
『違う。それだけは、違う! 俺は……俺が、陛下を殺めたのだ! 陛下は、愛する相手に殺められてなどいない! そんなことを記録に残させはしない! 薄汚い裏切り者の俺が、俺が、俺が……! すべてを壊したのだ!』
死刑囚ジャウハラは、鎖をじゃらりと鳴らしながら錯乱する。
その姿は、罪人ではなく、悔恨に沈む一人の男だった。
『そうでなければ、あまりにも報われない! 陛下は……陛下は……陛下は、……国のために尽くして……ようやく、心から望んだ伴侶を得られたはずの日だったのに……俺は――ルゥルゥの想いを知っていた……何かできたはずだった、何かしなければならないはずだった! ――だから、俺が……陛下を殺したのだ!』
ジャウハラの叫びは、看守サフラと石壁だけが聞いていた。
その声は、牢の闇に吸い込まれていった。
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パイを完食せずに眠りについたジャウハラの寝顔を見ながら、看守サフラは、静かに拳を握った。 その拳には、怒りでも憎しみでもない。彼がこれから何をすべきかという問いが込められていた。
死刑執行まで、あと二日。
ジャウハラの人生は、静かに終焉へ向かっている。
「……ジャウハラ隊長」
だが、終わりとは、すべてを閉じることではない。
終わりと始まりは、連なったものでもあるのだから──。
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