灰色の海

沙知乃ユリ

灰色の海


15の夏。


「あー、彼女ほしい」

小さな声でつぶやいた。

口にした瞬間、自分の欲望が急に形になって、胸に沈んだ。


昼休みのざわめき。窓際の席で一人、弁当箱を開き。

ふわふわの卵焼き、生姜焼き、白米、美味しい。

だけど、孤独という隠し味が、どこかで効いている気がした。


少し離れたところから、女子グループの笑い声が耳に届く。

彼女ができたら、きっとあんなふうに、どんな話でも楽しくなるんだろう。


クラスには男子と同じ数の女子がいる。それは客観的事実。

なのに。

女子との接点はまるでない。


ちゃらくて馬鹿っぽくて、浮気してる(らしい)同級生が女子に囲まれている。

あいつより真面目で、一途で、優しい俺の方が――いや、そんな理屈は通じないことくらい、わかっている。

一緒に居て楽しいって、それだけがすべてなんだ。

これは主観的推測だ。


ため息が勝手にこぼれた。女子グループが一瞬こちらを見た気がして、慌てて視線を弁当に落とす。


取り合わせのキュウリをポリポリかじりながら思う。

「性格とか才能って、変えられるのか?」


根暗が明るくなるなんて不可能だろう。

……いや、トンビがタカを産むくらいの確率なら、あるのかもしれない。

そんなことを考えて、自分で苦笑した。


窓の外では野球部が「ばっちこーい!」と声を張り上げている。

俺は小さくつぶやいた。

「頑張るって、大変だ」


19の春。


「……ほんとに? 俺と、付き合ってくれるの?」

自分の声が裏返っていた。信じられなくて、つい何度も確認してしまう。

かっこわるいが、大事なことだ。


大学二年の4月

佐川栞――黒のロングヘアが背中にさらりと流れ、つり目がちのシャープな眼差しをもつ同級生。

真剣にノートをとる横顔は近寄りがたいほど凛々しいのに、犬の散歩中に見せる笑顔は無防備で、驚くほど可愛らしかった。


気が強く、絶対に謝らない。

女友達は少なかったけれど、彼女の周りにはいつも透明な緊張感のようなものが漂っていた。

俺にとってはそれすら魅力だった。


「……うん。よろしくね、綿貫くん」

そのとき見せた笑顔は、普段の鋭い表情からふっと解き放たれたように柔らかく、俺の胸を撃ち抜いた。


世界が一瞬で華やいだ。

隣を歩くだけで心臓が跳ね、彼女が髪を耳にかける仕草ひとつで息が詰まった。

夢のような日々が始まる予感に震えた。


交際翌日には俺の部屋にお泊まり、二週間もしないうちに俺の部屋には彼女の私物が移り住み、同棲生活が始まった。

栞もまた、どこかで俺に依存していたのだと思う。


けれど、同じ屋根の下にいると、小さな衝突は避けられなかった。

食器の洗い方、掃除の仕方、予定の立て方。

俺が「ごめん」と謝れば、その場はすぐ収まる。

栞は決して謝らない。

謝ることで守れていたものもある。


「俺は心の広い男だからな」――自分に言い聞かせるように呟いて、実際は小さなプライドを必死に守っていた。

心にも無い謝意の言葉は、自分の輪郭を少しずつ削る気がした。

そのたびに自分でも気づいていなかった価値観を発見し、そして切り落とされた。


衝突はほとんどが俺の妥協で終わった。

俺の価値観は折りたたまれて、だんだんと曖昧になった。

端から見れば一方的な主従関係のようだった。

普通ならそこで別れるのかもしれない。


でも、大好きな犬の前でだけ見せる無邪気な笑顔を、時々俺にも向けてくれた。

夜になると、彼女が犬のように従順に甘える瞬間があった。

その幻のような儚い一瞬にすがって、俺は彼女に夢中で居続けた。


夢中でいるしか、なかった。


23の冬。


大学を卒業して、彼女は都会に就職した。

俺は地方の会社に入った。

いわゆる遠距離恋愛。


月に一度、安い夜行バスに揺られて彼女に会いに行った。

往復の交通費は大きな負担で、財布はすぐに空っぽになった。

スーパーの精肉コーナーの前でしばらく立ち尽くし、結局は納豆を手に取るのが習慣になった。

「大豆は畑の肉だ」――強がりのように、呟きながら。


そうまでして会いに行ったのに、彼女は少しずつ変わっていった。

俺の服装に文句を言い、デートの行き先に不満を漏らす。

夜、求めると「そういう気分じゃない」と冷たく拒まれた。


俺は困惑した。

確かに欲望はあったけれど、それはただの欲望じゃない。

好きだから抱きたい、近づきたい――その想いまで拒まれた気がした。


一度だけ、必死に言葉を尽くして伝えたことがある。

けれど彼女は、疲れた笑顔を貼り付けて、俺を眺めるだけだった。

その冷ややかさに心臓を握り潰されるようで、それ以降は口を閉ざすしかなかった。


俺は、自分の欲望そのものを否定するようになった。

会うたびに溢れる想いが、胸の底に降り積もり、俺の中の俺は生き埋めになった。


26の秋。


頭の中は疑念でいっぱいだった。

彼女はいま誰といるのか。

想像は勝手に膨らみ、汚れた映像が繰り返し再生される。止められなかった。


眠れない夜が積み重なったある日、稲妻のように閃いた。

「彼女が浮気しているなら、俺も浮気すればいい」

言葉にした瞬間、胸の重石が外れたように思えた。救いに触れた気がした。


派手なピンク色の画面が、暗闇の奥に口を開けて待っている。

吸い込まれるように、俺は画面を見つめ続けた。


残飯に群がるハエみたいだ、とふと思う。

でも指は止まらない。

最低な人間に、ゆっくりと変わっていくのを感じていた。


29の秋。


彼女と同じ街に戻り、再び暮らし始めた。

大学の思い出が散らばる場所。懐かしい喫茶店、よく歩いた並木道。

遠距離の頃よりも、彼女の態度は柔らかくなっていた。


けれど、内側は静かに冷えていた。

湧き上がるのは、冷たい海の映像だけ。

深く、静かで、波ひとつ立たない。


俺の中には、いくつもの「俺」がいた。

表面の俺は、当たり障りのない会話を続ける。

けれど、言葉を交わすたび、「俺」は沈み、冷たい水底に吸い込まれていった。

いまや、「俺」は彼女を完全に拒絶していた。

誤魔化し続ける頭も、次第に錆びついて動かなくなっていった。


些細な言葉で彼女が苛立つと、俺の頭の中は真っ白になった。

何も考えられなくなり、ただ黙り込むだけ。

彼女は不満を募らせ、俺はますます沈黙を覚えた。


ある晩、彼女が俺の耳元で言った。

「ねえ、エッチしないの?」


その瞬間、何かが砕け、散った。

胸の奥に押し込めていた怒りも悲鳴も、言葉にならない叫びとなってあふれ出した。

俺は制御を失い、彼女にぶつけてはいけない言葉を吐き散らし、部屋を飛び出した。


夜の街をさまよい、通い慣れたファミレスに入った。

ハンバーガー定食とマルゲリータピザとチョコレートパフェを頼んだ。

料理が運ばれる前から、熱い塊がせり上がり、視界が滲んでいた。

ピザを一口かじった瞬間、決壊したように涙が頬を伝った。

惨めさも情けなさも混ざり合い、押しとどめようがなかった。

それでも泣くことだけが、唯一の救いのように思えた。


テレビから流れてきたアイドルグループのライブ映像に目をやる。

チャラくて、軽薄で、浮気していそうな笑顔ばかりだ。

昔の俺なら心底嫌っていたタイプ。

だけど、そのなかにひとり、妙に沈んだ目をしたやつがいた。

心に海を隠している。俺と同じだ。

そう思った瞬間、笑いと涙が同時にこみ上げてきた。


29の冬。


俺たちは、もう一度向き合おうとした。

これまで避けてきたことを、今度こそ言葉にするために。

夜遅くまで何度も話し合い、互いの過去を掘り起こし、未来を探そうとした。

ときに声を荒らげ、ときに黙り込む。

辛く、厳しく、それでも続けた。


けれど、どうしても埋まらない隙間があった。

どれだけ言葉を尽くしても、互いの奥に横たわる孤独に、届くことはなかった。


そして、俺たちは別れることを選んだ。

納得のうえで――と、口では言えた。

だが心の奥には、うっすらとした痛みが残っていた。


人影まばらな駅前に、雪が舞っていた。

地元に帰る俺を、彼女は最後まで見送りに来てくれた。

街灯に照らされた白い吐息が、空に溶けていく。


「……元気で」

彼女の声は小さく、わずかに震えていた。


彼女の瞳は静かだった。

寂しさも、悲しみも、確かにそこにあった。

けれど、それが別れを拒む色ではないこともわかった。

受け入れたうえで、それでもなお、何かを抱えている。そんな瞳だった。


俺は彼女と向き合うことから背を向け続けた。

その結果が、自分も彼女も傷つけることだった。

ようやくそれに気づいた。遅すぎるかもしれないが、それでも気づけた。

それだけは意味のあることだと、思いたかった。


「じゃあ、また」

口をついて出た言葉は、すぐに雪に消えた。


お互いに小さく手を振った。

そのとき、彼女の肩がかすかに震えて見えた。

それが寒さのせいなのか、別れの痛みのせいなのか――もう確かめることはできなかった。


灰色の空から、また雪が落ちてきた。

みぞおちに冷たさが広がる。

それでも、これが人生なんだろうと、自分に言い聞かせるしかなかった。

彼女の震える肩の映像だけは、しばらく忘れられない予感がした。


――――――――――――――――――――――


◆あとがき

恋愛や孤独は誰もが通る普遍的な経験だと思います。

今回の物語では、その先にある「沈黙」や「灰色の心」を描いてみました。

読んでくださった方の心にも、何か小さな余韻が残れば幸いです。

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灰色の海 沙知乃ユリ @ririsky-hiratane

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