二、苦労人


 しかしその願いも空しく、というべきか。諸葛恪の才知はそんな父の想像すら遥かに飛び越える高みに至りつつあった。

 軍規に反した者、失態を犯した者、才知の無い者、これらを見つけ次第に人員を入れ替え、生じた穴は全て諸葛恪が一人で埋めていき、組織をより完璧なものへと仕上げていく。

 陳表も顧承も、諫言することは出来なかった。全てが冷徹なまでに合理的であり、失策は無かったためだ。

 そして今の諸葛恪に何か口を出せば、恐らく友人の間柄とは言えど容赦なく更迭される。それが分かっていたからこそ、余計に何も言えなかった。


「貴方の主人は、よくやっているようですよ。いや、やり過ぎているというべきか。どうぞ、こちらは白湯です」

「ありがとう、ございます」


 そして諸葛恪に解雇を言い渡され、屋敷からも追い出された楊甜と楊燕の二人は、意外な人物に匿ってもらっていた。

 名は「張休」。諸葛恪・顧譚・陳表らと並んで皇太子"孫登"の寵愛を受ける臣下の一人であり、呉の長老"張昭"の末の息子である人物だ。


 楊甜は一度だけ、あの皇帝の住まう宮中にて彼の父である張昭と面識があった。ただ、なんだかずっと怒っているお爺さんという記憶しかない。

 対してこの張休はとにかく表情から振る舞いから全てが穏やかであり、そして苦労人なのであろうその人生がやつれた表情から滲み出ていた。

 それもそのはず。父がこの国の皇帝とよく喧嘩するせいで、いつも仲裁に回っている息子の張休は生きた心地がしない日々を送っていたのだ。

 それでいて皇太子の覚えもめでたく、最側近として常に政務の補佐を行い、休みという休みを取った記憶はもうほとんどない。


「すいません、急にお邪魔してしまいまして」

「なんのなんの、むしろ助かります。私は政務に忙しく屋敷を留守にすることがほとんど。そして父は最近、体調が良くない。そこに子直(顧承のあざな)殿から貴方を紹介された。助かったと心底思いました」

「でも、僕は…」

「えぇ、元遜(諸葛恪のあざな)のところに戻りたいのでしょう?分かっています。全く、こんなに忠実に思ってくれる従者を放り出すなど、あの男にも困ったものですよ。ま、ほとぼりが冷めるまで、ウチで父の世話をお願いします。面識もあるのでしたね」

「はい、しかし一度だけです。覚えていらっしゃるかどうか」

「父は一度見た人間の顔と名前を忘れることはありません。老いてもなお、です。大丈夫ですよ」


 もし悪い印象を覚えられているのなら話は別ですが。張休はそう言い含めようと思ったが、面倒だからやめた。

 今は猫の手も借りたいほどに、本当に忙しいのだ。それに諸葛恪の下で長く働いたことのある人間はとかく優秀である。そんな人材を委縮させたくはなかった。

 こうして張休はやってほしいことなどを諸々言い含めると、再び政務のため屋敷を足早に出て行った。

 良くも悪くも多忙過ぎてあまり楊甜に興味が向いておらず、詮索をしてくる様子もない。しかし今はそれが陽甜にとってすごくありがたかった。


 こうして新たに住みこむことになった屋敷は広かったが、その広さに対して家人の数が少ない。

 張休が言うには、"父"の機嫌を損ねるのが普通の人には恐ろしすぎるのだとか。その重圧で家人が潰れていく様が見るに忍びなく、解雇してしまうことが多いらしい。

 張昭、この呉の国の長老である。その声望は皇帝である孫権をして「宮廷では皆私に敬意を払うが、外に一歩出れば皆張昭に敬意を払う」と言わしめるほどであった。

 だからこそそんな張昭に何か少しでも粗相をすれば、この国でどのような目を向けられるか、それは言うまでもない。


 これからどうすれば良いのか。白湯を啜り、ため息をつく。

 今の諸葛恪には取り付く島もなく、そして本当に、自分は必要ない存在なんじゃないかと、むしろ足を引っ張っていたのではとさえ思えてしまう。

 追いつかなければならない。今まで自分は甘えていたのだ。しかし、どうやって。

 答えのない不安が押し寄せ、涙が滲む。白湯を一気に飲み干して、袖で涙を拭った。


「とりあえず目の前のことをやらなくちゃ。子直(顧承のあざな)さんにこれ以上の迷惑はかけられない」


 諸葛恪から睨まれることになろうとも、解雇された陽甜を「友だから」と言って迎え、そして張休を紹介してくれた。その恩を裏切るわけにはいかないのだ。

 とにもかくにもまずは病床に伏しているらしい張昭へ挨拶だ。気合を入れて立ち上がり、ズイズイと奥の部屋まで足を進める。


「失礼します!本日からお世話になる陽甜と──」


「なんだその緩み切った腹は!そんな図体じゃ嫁の貰い手も無かろうて!そんなんだから朱桓の屋敷から追い出されたのだろう、この豚め!!」

「そんなに言わなくてもぉ…」

「泣くな!サボるな!尻をもっと落とさんか!!」

「ひーんっ」

 

 そこには先に張昭へ挨拶に行っていたはずの楊燕が、張昭に怒鳴られながらスクワットをさせられていた。

 これは何なんだろう。

 最近また太ったなと思っていた姉が、病床の老人に怒鳴られて運動をさせられている奇妙な光景に、楊甜は言葉を無くしてしまっていたのだった。

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