五章

一、理解できない寂しさ


 諸葛瑾軍2万、陸遜軍4万、総勢6万の軍勢が荊州襄陽郡を目指して粛々と北上をしていた。

 先行するのは諸葛瑾の軍勢である。大将軍である諸葛瑾は、戦の指揮が苦手であった。

 奇策を用いることや、想定外の事態への対応など、戦時における大将として欠かすことのできない能力に欠けている。

 しかし予定通りに軍を配備し、兵站を保ち、道を舗装し、余念なく哨戒を巡らすことにかけては孫呉随一の手腕を有していた。


 故に上大将軍"陸遜"は、諸葛瑾をよく補佐に置いていた。

 彼が側に居ない戦役など考えられないほど、その調整役としての能力は得難いものがあったのだ。


「子瑜(諸葛瑾のあざな)殿、その情報、確かなのであろうな」

「はい」

「…そうか。陛下には密かにお伝えしなければな」


 諸葛亮は、もう長くない。

 滅亡に瀕していた国家を蘇らせた奇跡の英傑、そして諸葛瑾にとっては実の弟。

 離れていても兄弟であった。弟がどんな無念を今抱えているのか。思わず諸葛瑾の目から涙がこぼれる。


「本当に良かったのか、その情報を私に伝えて。それは諸葛亮の大きな希望の一つを、潰すことになるのだぞ」

「公私混同せず。私は呉の臣下であり、陛下や呉の民に尽くす責務があります。たとえ弟を悲しませることになろうとも」

「そうか。そうであったな。そんな貴方に、私は"夷陵"の頃から救われ続けてきたのであった」


 夷陵の戦い。蜀漢の初代皇帝であり、後漢末期の乱世を戦い抜いてきた当代最強の英傑「劉備」。

 彼は同盟を一方的に破棄し、荊州を奪った呉へ報復を行うため、燃え盛る怒りに身を染めて侵略を開始したのであった。

 それを迎え撃つ呉軍の総大将に選ばれたのが陸遜であった。このときの陸遜はまだ若手であり、実績も山越討伐くらいしかなく、熟練の将兵らには軽んじられていた。


 また諸葛瑾もそんな陸遜の補佐役として後方の支援を取り仕切ったが、弟の諸葛亮はこの頃から既に劉備陣営の筆頭臣下であった。

 共に周囲からの信望は得られなかった。特に陸遜は周囲との協調力に欠け、軍を取りまとめることが出来ないでいたのである。

 そのせいで将兵らは勝手に軍を離れようとし、陸遜は剣を抜いて脅すことで統率を保っているような限界の状況にあった。


「子瑜殿が居なければ、私は夷陵で死んでいた。歴史に残る愚将として、その遺骸は劉備の手で斬り刻まれていただろう。だが、そうはならなかった」

「違いますよ。伯言(陸遜のあざな)殿が勝利してくれたおかげで、私は忠臣でありつづけられたのです」


 信任を得られずとも、諸葛瑾は人々と根気強く真摯に向き合い、信頼を勝ち取り、陸遜を支え続けた。

 陸遜ですら諸葛瑾を疑ってたのにもかかわらず、それでも諸葛瑾は陸遜を信じ続けたのだ。

 これは陸遜にとって頭の上がらない出来事である。そしてその時に、人は一人で生きていけないことを知った。


「諸葛亮が長くないのであれば、呉軍も攻勢を続けるわけにはいかない。義理立て程度の戦果のみを得て、軍を撤退させるよう陛下に進言する」

「我が軍は如何しますか」

「陛下の主力軍との協調が必須だ。我が側近の"韓扁"に伝令を任せてある故、その帰りをまずは待つ。それまでは敵と本格的な戦にならないよう、行軍速度を緩める」


 もし孫権の合肥攻めが順調なのであれば、陸遜としてもこれを助けるべく軍事行動を盛んにすることが優先される。

 ただ、これまでも呉は幾度となく合肥を攻めて来た。更に合肥を守るは魏の名将"満寵"である。簡単にいくとは思えなかった。


「しかしこれには陛下も落ち込まれるでしょうね。かつてない好機であったのは確かですし、最近の陛下はしきりに攻勢に出ることを望んでおられました」

「子瑜殿は、最近の陛下をどう思われる」

「どう、といいますと」

「皇統にある孫家の血筋は代々、激情の色がある。しかし陛下は孫家でも類稀な器量を併せ持つ御方だった。故に激情を抑え込み、その力を正しい方向に注ぎ込めていた。しかし最近はどうも、その激情を抑え込めていないように感じる」


 昔も酔うと子供のように無邪気になり、意地が悪く、そして激情を抑えきれず怒りっぽくなっていた。

 しかし今は宴席の場でもない平時ですらその性格を表へ出すようになっている。以前であればこれはあり得ないことであった。


「陛下も老い衰えておられる。輔呉将軍(張昭)のように厳しく諫言申し上げる者が居らねばならん」

「…でも、私は陛下の気持ちになって考えてみるのです。もしかすると陛下は、寂しいのではないか、と」

「寂しい?」

「先の諸将が一堂に会した任命式でのこと、陛下が前将軍(朱桓)に向ける目は、とても優しかった。私の手を握ってくれたあの掌からは、どこか別れを惜しむ温かさを感じました」

「一国を担う天子ともあろう御方が、そんな子供のような感傷に浸るのだろうか?」

「不敬な物言いかもしれませんが、天子様も人間なのです。人は寂しくなれば内に目が行き、周りが見えなくなりがちですから」


 天子とは、人間に非ざる神の位である。故に一人でなくてはならない。

 そしてその感覚というのは本人にしか分からないもので、陸遜は首を傾げたまま。

 そんな神の座にある孫権の心中を真摯に慮ろうとするあたり、やはり諸葛瑾の感性は非凡なものがあった。


「であればなおさら、子瑜殿、貴方のご子息には慎んでもらわねばならん。今、陛下が最も親愛を見せているのは彼だ」

「恪のことですね。今回の大きな責務が良い薬になってくれればいいのですが」


 恐らく諸葛恪も意図してはいないだろうが、彼も孫権の孤高の寂しさがなんとなく分かるのかもしれない。だから親しく心を寄せることが出来るのだ。

 しかし時の皇帝に気に入られるということは、それだけ大きな権限と責任を預かるということでもある。


 比類なき才を持つが故に、人と協調する道を遠回りだと思ってしまう。

 しかし大きな壁にぶつかってしまったとき、人と協調することでしか乗り越えられないことを知る。かつての諸葛亮や陸遜がそうであったように。

 大丈夫だ。諸葛瑾は息子の行く末を案じ、そう自分に言い聞かせる。


 それでも拭いきれない不安。


 もし、その大きな壁すら一人で乗り越えてしまえるほどの才を持っていたとすれば。

 不意に楊甜の顔がよぎる。頼む、息子を一人にしないでくれと、強く願った。

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