三、怒れる翁
皇帝の住まう宮殿、と呼ぶにはあまりにみすぼらしい家屋であった。
まだ街道沿いに建てられていた屋敷の方が綺麗で大きく、立派な屋敷であったように思う。
しかし庭は綺麗に整備されてあり、敷かれた石は白く、余計な置物はなく、一本だけ生えた大きな柳を際立たせているようだった。
あちこちで働いている宦官や女官の所作も静かで美しい。
こうして全て俯瞰して見ると、なるほど、この空間には古びて継ぎ接ぎの宮殿しか似合わないように思う。
まるで俗世と隔絶されているかのような、そんな静かな美しさに楊甜は息をすることすら憚れるような思いであった。
「楊甜、力を抜け。陛下にとってお前はおまけで、用があるのは俺だ」
「は、はい…」
呉帝"孫権"が楊甜との面会を所望している。それを聞いた瞬間、姉の楊燕は顔を真っ青にして倒れそうになっていた。
この"呉"という国は、山越族を始めとした「呉の人間ではない存在」を弾圧し、内側を治めてきた国家である。
怪異に対しても「掃討令」を敷き、積極的な討伐を大いに推奨していたほどだ。
故に朱桓軍は山越討伐の傍らに落頭民を討伐し、諸葛恪も"狍鴞(ほうきょう)"という人食いの怪異を討伐した。
そんな呉国を建国し、長らくこの乱世を切り抜けてきた皇帝が楊甜と会おうというのだ。不安でしかないだろう。
「まぁ、本当にあまり心配しなくていい。怪異や山越の民を毛嫌いしているのは頭の固い老臣共で、陛下の考えとは少し異なる」
「とにかく僕は、ただひたすらに頭を下げてればいい、んですよね?」
「そうだ。受け答えは俺がやる。とにかくおとなしくしてろ」
「分かりました」
こうして宮殿へと二人は足を進める。
元々建業に置かれていた役所をそのまま宮殿として使い続けている建物なだけに、とかく年季が入っていた。
この隙間風を感じる屋敷に、この国の皇帝が住んでいる。それは極めて不自然な感覚であった。
「"諸葛"左輔都尉ですね」
「如何にも」
黒い着物に身を包む老婆とも翁とも見分けのつかない老人が諸葛恪の前で深々と頭を下げる。
皇帝に近侍する"宦官"と呼ばれる役職の人間であり、男根が切除されているためか髭は一切生えていない。
呉の宦官は元々、山越族の出身者が多かった。主に宦官は異民族の若い捕虜などを用いることが多いためである。
「陛下は今お休みになられており、輔呉将軍(張昭)が先に陛下と謁見することになっておりまして」
「ふむ、では出直そう。夕刻にまた」
「お待ちを。それでなのですが、実は左補都尉とお話をされたいという方が別室にいらっしゃいまして」
「どなただろう」
「上大将軍(陸遜)です」
苦虫を噛み潰したように、諸葛恪の顔は苦悶に歪む。
陸遜。呉の国の筆頭臣下であり、政治と軍事の一切を管轄する重臣。その実権は呉帝"孫権"を凌ぎかねないものがあった。
諸葛恪はそんな陸遜がすこぶる苦手である。それどころか少し不気味で恐ろしいとも感じていた。
「会わんわけには、いかないだろうな」
「お連れ様は如何しましょう」
「楊甜、お前は…そうだな、来ない方がいい。客間で静かに俺を待て」
「わ、分かりました」
諸葛恪と通路で別れ、楊甜はその黒い着物の老人に連れられるまま歩いてゆく。
こんなに心細いことはない。石畳の床を歩く自分の足音がやけに大きく聞こえ、手には嫌な汗が滲んでいた。
通された客間もあまり広くはない。長机と、それを囲むように木製の椅子がいくつか。
楊甜は勧められるままに下座の席に座り、目の前に置かれた茶から立ち上がる湯気をただただ眺めていた。
そして上座には一人、居眠りをしているおじいさんが居た。長く立派な白髭、眉毛もまた目を隠すような長さである。
その眉毛のせいか寝ているように見えるのだが、黙って座っているだけかもしれない。
とりあえず起こさないよう細心過ぎるほどの注意を払い、楊甜はただただ石のように固まっていた。
「誰じゃ、見ない顔だが」
「…?」
「お主しかおらんじゃろ」
てっきり寝ているとばかり思っていたから、楊甜は自分への問いかけだとは思わず辺りを見渡してしまう。
しかし誰も居ない。自分とそのお爺さんだけである。
そう気づいた瞬間、体の芯に冷えた棒を突っ込まれたかのような感覚に襲われ、急に鼓動が早くなった。
「あ、あの、えっと…」
「従者か」
「は、はい、ご主人様の、じゃなかった、えっと、左輔都尉の従者を務めている者です」
「左輔都尉、左輔都尉、はて、誰じゃったかな。最近は役職と人の名前が結びつかんなぁ」
「諸葛、左輔都尉です」
「あんのクソガキかぁ!!」
急に老人は大きな怒鳴り声をあげ、杖を振り上げて立ち上がる。
慌てて楊甜は長机の下に隠れたのだが、次の瞬間に老人はまた椅子に座り茶を啜り始めた。
とりあえず楊甜は目だけを机の上に覗かせて、その老人と向き合うことにする。
「そうかそうか、アイツの従者か」
「は、はいぃ…」
「それはさぞ辛かろう。アレには才が有る、努力も惜しまん。されど惜しいかな、それが出来ない者も居ることを理解できておらん。どうだ、大変ではないか?」
「大変、です。大変ですが、あの御方は僕の努力を見てくれます。僕の夢も、笑わずに聞いてくれました」
「ふむ、良い従者を得たのだな。ならば血反吐を吐いてでも懸命に追いかけよ、奴を一人にするでないぞ」
するとその老人は「よっこらせ」と立ち上がり、腰を曲げつつも杖でガツガツと床を殴りつけていた。
急にそんなことをし始めるものだからまた怖くなって、今度は部屋の隅で小さく身を屈めるしかない楊甜。
「では儂は行ってくる」
「ど、どちらへ?」
「陛下をこの杖で殴りつけて起こしてやるんじゃ。どうせ昨晩の宴席で酒を飲み過ぎたから寝てるだけじゃろ。あんの馬鹿垂れめが」
この国の皇帝を殴りつけると息巻いて、果てには「馬鹿垂れ」と侮蔑する始末。
フンフン鼻息荒く出て行くその老人を見送り、本当に早く諸葛恪が帰ってきてくれることを楊甜はただひたすらに祈った。
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