五、望帝 "杜宇"
速足で歩く諸葛恪にようやく追いつく。
また不機嫌なんだろうなぁと恐る恐るその顔を覗き込んだところ、不思議と眉間に皴は寄っていなかった。
「なんだ、気持ち悪いな」
「顔を覗いただけなのにっ!?」
「顔を覗くなよ気持ち悪い」
「いや、その、怒ってるのかなぁって思って」
「怒る?何でだ?」
何でも何も、先ほど諸葛恪は顧譚と明らかに口論の末、部屋を飛び出したように見えた。
ただなるべく地雷を踏みたくない楊甜は「いやぁなんとなくぅ」とボソボソ答える。
しかしその曖昧な態度で、逆に諸葛恪の眉間に皴が寄った。
「子黙(顧譚のあざな)と喧嘩してるように見えたか?」
「分かってるじゃないですか!」
「フン、よく仲が悪いように見られるが別に俺はアイツが嫌いじゃない。嫌いなのはアイツが憧れ、真似ている男だ」
「…?」
「子黙くらいだ、俺を天才だと"諦めず"張り合おうとしてくるのは。だから負けたくない」
思えばいつもどこか達観しているというか、つまらなさそうにしている諸葛恪がやけに活き活きとしているように見える。
「ご主人様にも友達がいたんですね」
「殺されたいようだな」
「ごめんなさいっ!!」
機嫌が良いのか悪いのか。幸い殴られも蹴られもせず、楊甜はホッと一息をつく。
諸葛恪らはそのまま役所を後にして、大通りを挟んで向かいにある屋敷に入った。
ここが諸葛家の屋敷である。
家主であるのは諸葛恪の父である"瑾"なのだが、大将軍という役職のため西の"公安"の地に駐屯中であった。
「父上の代わりに屋敷を守るのは弟の"融"なんだが、遊び好きでほとんど家に居ない」
「今日もですか?」
「俺が帰ってくる日は絶対居ない。怒られたくないんだろう」
楊甜はまだ見ぬ主人の弟に親近感を覚え、何度も無言で頷く。
そのまま諸葛恪は屋敷の奥へずいずいと進み中庭に出た。
池や草花が整えられた無駄のない明るい庭であり、一本の松が実に雄々しく屹立している。
そしてその松には手が届きそうな位置に枝が短く生えており、その先に一羽の"ホトトギス"がとまっていた。
何か、違和感がある。朱桓の屋敷で感じたような違和感。
思わず楊甜は足を止めた。
こんなに明るい庭がゆえに、ホトトギスの"暗さ"が一層目立っていた。
「気づいたか。やはりお前の勘は確からしいな」
「ご主人様、あのホトトギス…」
「あぁ、あれも怪異だ。だが敵ではない」
「敵ではない?」
「ただ、機嫌を損ねるな。彼は望帝"杜宇"、古のとある国の王だ」
昔々、蜀の地に"杜宇"という王様が居た。彼は民の農業を指導し、国を豊かにした王であった。
そこで杜宇は自分は民を導く徳高き王なのだと自慢げになり、王より格上の帝号を称することにしたのだとか。
すると次は国が洪水に襲われて大変なことになり、杜宇はこれを治めることができなかった。
代わりに洪水を治めて見せたのが杜宇の臣下であった"開明"であり、杜宇は開明に位を譲って隠遁したとされる。
「その霊魂はホトトギスとなり、今なおこうして天下の民の農業を見守ってくださっているのだ」
「如何にもその通りであるっ!!」
「ははぁーっ」
胸を張るホトトギスと、仰々しくひれ伏す諸葛恪。
なんだこれは。ホトトギスが野太い声で喋り、あの主人が小鳥にひれ伏している光景はあまりにも異様であった。
「お前は落頭民だな」
「え、あ、ななななんでそれをっ」
「一目で分かる、ワシは徳高き皇帝であるのだからな!」
「あれ、でもさっき、皇帝の位は人に譲ったんじゃ…」
「お前馬鹿っ!やめろ!!」
諸葛恪は口を塞ごうとしたが、時すでに遅し。
杜宇はわなわなと震えだすと、豪速で飛び出してそのくちばしを楊甜の額に突き立てた。
あまりの衝撃に首がすっぽ抜け、楊甜は後ろに思いきり倒れこむ。
「譲ったのではない!あのバカ開明の野郎に奪われたのだ!!」
「グリグリしないでイタイイタイぃぃいいい!!」
「あの不忠者めが!主君のワシから位を奪い、山中に閉じ込めおって!この無念、死んでも死にきれんわぁあああ!!」
「でもそれは貴方がその開明の妻にちょっかい出したからでしょ」
「うるさいぞ小僧!それを言うな!!」
諸葛恪は楊甜の額から杜宇を引っこ抜く。石頭じゃなかったら普通に深手になっていただろう。
びえびえと泣く楊甜をよそに、諸葛恪は杜宇を再び枝に戻して跪いた。
「ご無礼をお許しください」
「フン、気に食わんがよかろう。"孔明"に免じて許してやる」
「ありがとうございます。今日、古蜀(杜宇が治めていたとされる国)帝に拝謁を願ったのは、一つお願いしたいことが」
「言わずとも知っておる。山越と、長雨の怪異についてだな」
「はい」
「勘違いするなよ、崩れていたワシの祠を整備し祀ってくれたお前の叔父"孔明"の頼みだから、お前に力を貸してやるのだ。いいな?」
「御意」
杜宇は空に飛び立ち、雲に消えていく。
ちなみに楊甜の額は赤く腫れていたものの、翌日にはすっかり元通りになっていた。
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