三、贅沢な悩み


 料理番の仕事を解雇され、顔には出さないまでも楊燕は少し元気が無かった。

 諸葛瑾の宿舎には既に厨房担当の家人も多い。流石に名家なだけあって、とてもではないが楊燕の入り込む隙は見当たらない。

 それに弟である楊甜が忙しなく働いたり勉学しているのを見て、自分だけがこのままでいいのかという焦りもあった。

 

「姉さん、もしかして元気ない?」

「今まで忙しく働いて来たけど、急に暇になっちゃうと気も塞ぎ込みがちになってねぇ…」


 新しい環境に慣れるのは大変だ。

 忙しければ気も紛らわせるのだろうが、出来る仕事は縫物ばかりで息が詰まる。

 あと建業は物資の集積地なだけあって、とにかく食材も豊富で美味しかった。これではさらに丸くなってしまうだろう。


「昔みたいにひもじい思いもせず、まさか呉の都で暮らせるなんて夢のような話なのに、贅沢な悩みよね」

「いや、まだまだだよ。もっと頑張らないとご主人様に解雇されちゃう。でも、頑張ればちゃんと認めてくれる」

「本当に優しくて、素晴らしい御方ねぇ」

「優しい?」

 

 よくよく思い出せばいっつも蹴られたり叩かれたり走らされたりしているし、無理を押し付けてくることばかりだった。

 それでいて失敗すれば心が折れてしまいそうなほどの説教を受ける。思わず楊甜は首を傾げた。


「いやいや姉さん、ご主人様は確かに凄い人だけど良い人では全然なくて」

「──おい楊甜、居るか?」

「ひぃごめんなさい殺さないでっ!!」

「何してんだお前」


 諸葛恪が楊甜の部屋に突然押し入ると、 そこには腰を抜かしてひっくり返った楊甜と刺繍仕事途中の楊燕が居た。

 ひっくりかえった拍子に首が取れており、こんなに間抜けな奴もいないだろうと諸葛恪は冷ややかに楊甜を見下ろす。


「荷物をまとめろ、また出るぞ」

「え、荷解きがようやく終わったところなんですが」

「俺がやれっていったらやるんだよ」

「はひぃ…」

「楊燕はこの部屋を自由に使っていい。分からないことがあったらここの家人に聞け」

「は、はい、お心遣い痛み入ります」


 荷解きを終えた矢先、また数日中に再び荷物をまとめた諸葛恪の一行は、建業の南に位置する"宛陵県"へ向かうことになった。

 宛陵県より更に南に進もうとするとそこは陵陽山や黟山といった険しい山々の連なる地域になってしまう。

 そしてその山々を根城にし、呉の支配に抵抗する人々も多く隠れていた。

 この抵抗勢力をどう無力化するか。それは呉王朝が長年悩まされてきた最大の課題と言っても良い。


「えっと、それで僕たちはそんな危険な山中に現れた"雨を降らせる蛇の怪異"の調査に向かう、と」

「あぁ、そうだ。でもそう気負わずとも良い。宛陵県からそこまで離れるつもりはないし、あの辺りは俺も詳しい」

「そうなんですか?」

「宛陵は父上の封地だ。つまり諸葛家の領地であり、色々と都合は効く」


 だから濡須口からの帰還の時と比べてそこまで荷物が多くないのかと、ここで楊甜は気づく。

 船には少しの荷物と三頭の馬、そして楊甜も含めた従者や家人が六人ほどのみであった。


 河を南に下り、船着き場に到着するとそこにはずらりと出迎えの人々が並んでいる。

 彼らは皆、諸葛恪の出迎えに来たのだ。楊甜は自分の主が本当に凄い人であることを強く実感し、自ずと背筋も伸びてしまう。

 その出迎えの中から一人、年長の老人が前に進み出て諸葛恪の側に駆け寄った。

 

「若君、お元気そうで何よりに御座います」

「出迎えありがとう。荷物は多くない、すぐに運び入れてくれ」

「承知しました。あと、先客が既に来ておられますが」

「先客?」

「"顧"舗正都尉(顧譚)、"顧"騎都尉(顧承)です」

「あー、分かった。だったら俺は先に行くぞ。おい楊甜、ついて来い」

「え、あ、はい!!」

 

 馬に乗って駆けだす諸葛恪と、遅れて走り出す楊甜。

 周囲の人々はそんな無遠慮な主を見ても、いつものことだという様子で淡々と荷下ろし作業を始めていた。


 当然、人の足で追いつけるはずもなく置いていかれた楊甜は、道すがらの町の人達に諸葛恪の通り道を聞きつつ先を急ぐ。

 ようやく北門付近に構えられている役所にたどり着くと、衛兵らは事情を知っているようで親切に屋内へと通してくれた。

 ひぃひぃと乱れる息を整えて、やっとの思いで奥の客間の戸を開く。


「おい、子黙(顧譚のあざな)。小賢しい嫌がらせしてんじゃねぇーよ…」

「元遜(諸葛恪のあざな)、それが客人を迎える者の態度か?」

「その台詞を言いたいがために予定を随分と早めて宛陵に押し入ったんだろーが」

「まぁまぁ、二人とも。会って早々に喧嘩はよくないですよ、流石に」

 

 戸を開いた先は、なんだか険悪極まりない空気となっていた。

 凄く怖い顔の諸葛恪と、無機質な表情で茶を啜る人物。そして二人を仲裁しようとしている人。

 この光景を見た楊甜はまず「巻き込まれたくないなぁ」と真っ先に思った。

 

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