第2話 その神の名は山百合姫

 女はおろしていた籠を急いで背負う。

 こうしている間にも、坂の上から湿った甘い花の香りが流れてくる。


 ささやくように「シロ、クロ」と名を呼んで急いで山道をくだりだした。

 二頭は坂の上と女のほうとを二度三度と振り返り、鼻をならしてあとに続く。


 ヒュウゥと甲高い音をたてて風が吹き、それが女の肌をなでた。


(ああ、これは山百合やまゆり姫の声)


 音と共に風が吹き、音がやむと風もやむ。

 音が、風が、香りが――どんどん強くなっていく。


 背後の離れたところで、ひときわ大きく木の枝がゆれて葉がこすれる音がした。

 近づいてきているのだ。

 女は急ぐが、絡む根に足をとられ、積る枯れ葉で何度もすべる。

 早くはやくと腕を動かしても、足がついてこない。

 額から汗が一筋流れる。


『――あの岩の裏だ』


 また男の声がして、女は前方の大岩の陰に飛び込んだ。

 一人と二頭はぎゅうっと身を寄せ合い、息をひそめる。


 そっと覗き見れば、先ほどまで己がいたあたりに巨大な“何か”がいる。

 家よりも大きな女の上半身だった。

 全身が緑色をしているのは、草葉くさばが寄り集まり人の形を成しているから。

 髪は長く、その一つひとつが植物の茎であり、先端には白い百合の花が咲いている。

 これこそが山百合姫と呼ばれるゆえんであった。

 髪のせいで顔は見えないが、そんなものは初めからないのかもしれない。


 異形のその姿はただただ不気味であるが、女が恐怖で叫びだすことはなかった。

 山百合姫の周囲を蝶やとんぼが楽しげに飛びっているのが見えるからだ。

 草むらで秋の虫が美しい音色を奏でると、姫も歌うかのようにヒュウゥと風を鳴らす。


(あのヒトが言っていたわね)


『あいつはうんと寂しがり屋なんだ。だから、いつも虫たちを周囲にはべらせて賑やかに過ごしている。でも、寒くなるにつれて虫が姿を見せなくなると、己も眠っちまうのさ。そうして冬を越して春になり、夏を迎えて一番山が賑やかな時にまた起きてくるんだ。お前も覚えておくといい――真珠』


 それを覚えていたからだろうか? 女の、いや真珠の目には、山百合姫が恐ろしくもいじらしく見えた。

 だが、けっして近づこうとも思わない。あれらは人のことわりの外にいる。言葉が通じるかわからないし、通じたとて理解し合えるかはまた別の話。

 関わらないことが、一番のやさしさとなることもある。

 そして、山で命を落とさぬ秘訣とも言えた。


 ヒュウゥと何度か風が鳴ると、姫や虫たちは進路を変えて遠くへと去っていく。

 少しずつ湿った空気が秋の乾いた空気に代わり、甘い香りも薄れていく。

 十分に距離が離れて、女と山犬はようやく岩陰から身をだした。

 遠くで鳴る美しい虫の声と草木のざわめきを耳にしながら、真珠はそっとつぶやく。


「楽しそうでよかった」


 頭上で鳥の声がして見上げれば、うす青色の高い空を何羽も連なって飛んでいくのが見える。

 己も帰ろう。人のいる町に。

 一度だけ山百合姫の消えたほうに目をやり、そして山をくだるのであった。

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