薬師真珠は鬼の手を取り山へ行く

米田 菊千代

序章 秋の山中にて

第1話 お供はまだ帰らない

「変ねぇ……帰ってこないわ、あの子たち」


 爽やかな風が吹き抜ける中。歳は三十路みそじを過ぎたころの、藍の着物を膝までたくしあげた農婦のうふ姿の女が、のんびりとつぶやいた。


「いったい、どこまで行ったのかしら」


 緩慢かんまんに周囲を見渡して、ほぅ、と息を一つはく。


 秋の気配がただよう山中。

 青々とした葉は黄色に染まり始めて、時折はらりと木の葉が舞った。


 今日は生薬しょうやくの材料を採りにきた。山芍薬やましゃくやく、げんのしょうこ、せんぶり……ほかにもたくさん。

 それでもまだ籠に余裕があるから、やまぼうしの木の実も採っていこうと考えた。

 それでお供に探すようお願いしたが、これがいつまでたっても帰ってこない。


 はぐれたのならまずいが、それ以上にただの人である己がここに長居をするのは

 用事をすませて早く立ち去るべきだろう。さもないと……

 女がもう一度ため息をつこうとした、その時。


 ――ハッ、ハッ、ハッ!


 背後から獣の吐く荒い息が近づいてくる。

 振り返ると、坂の上から山犬やまいぬ(*1)が弾けるように駆けてくる。白と黒の二頭いる。

 町で見かける飼い犬よりも一回り大きくて、あれに噛まれれば大の男でさえひとたまりもないだろう。

 ……が、女はおびえるどころか笑顔をみせた。


「シロ! クロ!」

「わふん!」

「わうん!」


 両手を広げてしゃがめば、二頭の毛玉はエイッと跳ねて女の胸に飛び込む。

 勢いがよすぎて一人と二頭はそのまま後ろへ転がるが、犬たちに遠慮の二文字はない。嬉しそうに彼女の顔を舐めては、ちぎれんばかりに尻尾を振った。


「うふふ。およし、くすぐったいわ」


 女が困ったように笑いながら顔をそむけて、よしよしとなでてやる。

 ようやくおとなしくなると、よだれでべとべとの顔を着物の袖でぬぐった。


 この二頭とは古い付き合いで、よく懐いている。

 お供とはまさに彼らのことで、クロがべっとはきだしたのは小さな赤い実。


「やまぼうしだわ、あったのね。さっそくそこへ案内を」


 してちょうだいな、と最後まで語る前に、びゅうっと一陣の風が吹いた。

 次の瞬間。


『――気をつけろ』


 女の耳元で低い男の声がした。

 何が? と思う間もなくクロの耳がぴんっと勢いよく立ち上がり、森の奥深くに向けられる。シロもそちらに顔を向けて、明らかに警戒しはじめた。二頭の毛がぶわりと逆立つ。


(どうしたのかしら?)


 これから実りの秋が来て、その先に厳しい冬が待っている。

 冬ごもりのために動物たちが餌をさがして活発に行動をはじめる時期だが、熊だろうか?


 しかし、女の本能がそんなものではないと警告する。

 二頭が警戒する先から流れてくる空気が、じっとりと重く湿っている。

 そこに、いやに甘い香りが混ざっていて、この香りには覚えがあった。


山百合やまゆり姫だわ……!」




(*1)ニホンオオカミ

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