終章 こぼれたミルクに泣かないで

「あっつい」

「夏だからね」

坪手つぼてくんはわかり切ったことを言うね」

 光果みちかさんはそう言って、麦わら帽子を頭に載せた。

「あ、いまのは嫌味じゃなくてね」

「じゃあエピタフにしようかな」

「坪手あきらかく語りき、みたいな?」

「そう。夏は暑い——坪手明ここに眠る、みたいな」

「けだし名言だね」

 駐車場で車から降りたとき、ぼくらの会話はそんなだった。

映研えいけんの人たちは元気?」

「卒業してからは会ってないなあ」

宮本みやもとくんも?」

「卒業してからは会ってないなあ……大学を」

「三年くらい?」

「そんななるかな。かも」

「映画を見るだけなのにずいぶんかかったなあ、我ながら」

「待ち甲斐があったよ」

「間違いないね」

 あるいはこれは、新しい間違いについての話だ。


 光果さんからそれが届けられたのは、彼女が高校三年生の秋だった。

 それから今日まで、夏は毎年だんだん暑く長くなり、九月はもうみんな夏だと思っている。秋はそのうち消滅すると思う。

 緩やかに秋が滅びゆく中で、ぼくは同じ年に生まれた多くの人たちより何年か遅れて中学を卒業し、光果さんと同じ高校に入学した。彼女は卒業したあとだったけれど。

 そこに三年通ったあと、北関東の国立大学に進学し、大学四年生になり、順当にいけば半年後に卒業を迎える身だ。

 九月に入っても夏休みはまだまだあるので、最近は頻繁に実家に帰っている。妹の勉強を見てくれと親に言われたのが主な理由だが、だいたいは何もせずゴロゴロしていることが多い。

 この日の朝も、ゴロゴロするのも飽き飽きだと思いながらゴロゴロして二度寝か三度寝の入口を彷徨っていたら、呼び鈴が鳴ったのが耳にうっすら届いた。

 宅配便だろうか。

 母がひとつトーンの高い声で何やら大袈裟に話している。

「やだ久しぶりーっ、元気してたあ?」

 誰だろう。そう思ったのが最後で、ぼくはまた眠った。

 飛び起きたのはその数十秒後か、数分後か。

「痛たっ!」

 首筋に噛まれたような刺激が走り、思わず叫ぶ。起き上がると、すぐ目の前の人影に焦点が合った。

 見覚えがあるような、ないような女性が立っていた。

「おはよう。寝坊助ねぼすけだね。アイス食べる? きみんのだけど」

「……ああ、びっくりした。アイスだったのかあ」

 首筋をさすると、僅かに冷たさが残っていた。

 それが光果さんとの再会だった。ぼくの怠惰のせいかおかげか、それは劇的なものにはならなかった。寝起きのぼくの反応の薄さに彼女は我に返ったらしく、慌てて居住まいを正しお辞儀をした。

「今回はご連絡いただきありがとうございます」

「こっちこそ、お呼び立てする形になって恐縮です」

 きっかけはぼくだった。

 数日前に、スマホから彼女に映画を見た旨を伝えるメッセージを送ったのだ。

 映画が届いて以降は年賀状が送られてくるくらいの関係でしかなかったから、本当に久しぶりだ。

「来るときはきっともっとサプライズが必要かと思ってたんだけれど、考えてたら脳がギュッてして何もわかんなくなって、でもええいままよって感じで」

「感じで?」

「来ちゃった」

「何より。嬉しいよ」

「ほんと? あ、これつまらないものですが……」

 光果さんは空っぽの両手をぼくに差し出して、しまったという顔をした。

「あ、下でお母様に渡してきたんだった」

 ほどなく母が、光果さんの手土産のシュークリームとアイスコーヒーを運んできて、すぐに出て行った。

「アイスからのシュークリームになっちゃった。起き抜けにスイーツばっかでゴメンね」

「いいよ。甘いものはいつでも美味しいし」

 光果さんはくすりと笑い、部屋をぐるりと見回した。

「クラゲは?」

「もういないよ。とっくに」

「亡くなったの?」

「うん。なくなった。誰に聞いたの? 宮本くん?」

まいちゃん」

「彼女は何してるの? ぼくが聞くのもなんだけど」

「シナリオの勉強ができる学部のある大学に行ったって聞いたかな。その先はわかんない。卒業したのかとか、いま何をしてるのかとかは」

「みんな疎遠だね」

「高校なんて、たまたま近所に住んでて似たような成績の子が集まってただけだしね」

「きみはどう?」

「すっかり社会人ですよ。メールでも言ったけど、遅い夏休みをとって帰省中」

「せっかくの夏休みなのに、こんなところに来るなんて」

 光果さんはアイスコーヒーを一口すすり「おいし」と呟いた。

「ねえ坪手くん。せっかくの夏休みだし、海を見に行かない?」

「どうしてまた」

「わたし、聖地巡礼ってしたことなくて。ある?」

 たしか、映画とかの舞台の場所に実際に行くというあれか。

「ないけど……それってフツー本人はやらないんじゃないの?」

「じゃあ、本人による案内付きのツアーに参加しませんこと?」

 光果さんはなぜかご令嬢れいじょうべんで言った。「レアですわよ?」

「何かあるの?」

「ていうか、何か捨てに行くの」

「それで……なんで海に?」

「海は何かを捨てに行く場所じゃない?」

「警察や学校や環境系の活動をしている人たちに怒られそうな意見だね」

「大丈夫、環境にはやさしいから。質量ないし」

「何それ?」

「内緒」

 結局ぼくはシャツを着替え、三十分後には光果さんと出かけることになった。

「この青いの、坪手くんの車?」

「そう。買ってもらったやつだけど」

 車の免許は大学に入った年に取得した。彼女はぼくの運転に、最初こそ「そんなことある? あの坪手くんが運転してるよ」なんてビビりまくっていたけれど、そのうちに慣れてすっかりリラックスしてくれた。

「きみの青い車で海へ行くのまき、だ」

「何それ?」

「なんでも」

 そしていまに至る。

 海はシーズンが去ったせいか人も疎らで、ぼくらは目についたベンチに並んで座った。

「はいこれ」

 光果さんはビニール袋からフードパックに入った漬け物を差し出した。さっき道すがらの個人商店でお茶を買ったときに店主のおばあさんがオマケしてくれたものだ。光果さんは昔からよくお年寄りに何かをもらう。

「ん。何これ美味い」

「本当だ。ちょうどいい漬かり具合」

 ポリポリと噛んだあとペットボトルのお茶で流し込み、ぼくは溜息をつく。

「この海に来たのは初めてだ」

「車があるなら大学からまあまあ近いんじゃないの?」

「意外と近場には来ないもんなんだよ」

「たしかに」

 言ってから、光果さんは思いついたように訊ねた。

「聞いたよ? 大学院に行くんだって?」

「耳が早いね。あくまでもまだ予定だけど」

「北海道だそうで」

「まあね」

「なんで?」

「べつにいまいる大学でもよかったんだけど、どうせなら環境を変えたくて」

「東京にすればよかったのに」

「北海道のあとで行くかも」

「そっか」光果さんはペットボトルからお茶を飲み、

「そしたらまた遊べるね」

 と緩く笑った。

 ぼくが彼女と遊んだりしてたのは、小学生のときのほんの一年程度だ。それからずっと、彼女はぼくより先の人生を歩み、ぼくらの人生は重ならなかった。

「そっちは忙しくないの?」

「割と忙しい。何に忙しいのかはわかってないけど。でもこうやって休みを取るくらいは簡単にできる」

 ぼくは海を眺める。波はゆっくり寄せて返して、ときどきちゃぷんと音が聞こえる。永遠に続く光景を目に映しながら、脳裏には光果さんと東京の人混みの中に立っている自分の姿を思い描いた。

「いま、懐かしんでるみたいな顔したよ」

「ほんと?」

 光果さんに言われ、誤魔化すようにお茶を飲む。

「東京ってどこで遊ぶの? 人多いんでしょ?」

「そんなのでっかい街だけだよ。人のいない場所だっていくらでもある。きっと楽しいよ」

 光果さんは自分こそ、懐かしそうな目をした。

 良い未来を想像するとき、人はなぜか懐かしがる。たぶんそのメカニズムは、良い過去を思い起こすときと同じなのだ。そういえば大学受験のとき小耳に挟んだけれど、英語の『過去形』という名称はニュアンスが正確ではないのだとか。あの活用は過去ではなく「ありえない全て」に適用されるものらしい。たとえば仮定法もそうだろう。未来も過去も、あるいは夢も、全て同様。目の前の現実ではない、過去形の世界にのみ存在する光景。「懐かしむ」とは、それらを眺める行為全般を指すのだろう。

「それで、ここが聖地?」

「まあね。いかが?」

「ちょっとうら寂しい」

「シーズンがね……」

「でも、木陰のおかげでだいぶ過ごしやすいね。風もあるし——」

 喋るぼくの脇で、光果さんは膝を揃えて姿勢を正し、唐突にピッと手をあげた。

「はい。自分、懺悔を一つよろしいでしょうか?」

「どうぞ。神はそなたの罪を赦すじゃろう」

「なんで長老ちょうろうべん?」

司祭しさいべんだよ。で、何?」

 光果さんは膝頭をこちらに向けて、でも顔は少し背けて言った。

「あの映画を撮ったときさ。ここで、何年前かな? 七年くらい? わかんないけど。あのときからずっと、言わなくちゃいけないなと思ってたことがあってさ」

「なんだろう」

「この場所でね。わたしはちょっとあることがあって。いや、結果的にはなんにもなかったんだけど」

「一個も何言っているのかわからないよ」

「このベンチで宮本くんにつき合おうって言った」

「へえ」

 自分がどんな表情をしていたのかはわからない。光果さんは少し気まずそうで、たぶんぼくの気を引きたくてそんなことを言ったのではないとわかった。でもこの人が人に何かを言うときは、相手の感情とか内心をある特定の所へ誘導したいから言うのだ。

「これは、何かをどうかしようという意図ではなくて」

 嘘だね。

「自分が、これはどうしても抱えきれないぞと思ってなんだけど」

 嘘だね。

「わたしは、わたしの感情をうまく誘導したくて話しているの」

 嘘……じゃないかもしれない。

 彼女が自ら弱点を晒すのは、そういう手段の一つとしてありうる。でも、自分を誘導したいと言った。彼女は自分を変えずに人を変えることに全精力を注ぐ個体だ。いまの彼女の発言は、彼女という存在自体に対して相容れないものだ。

「変わりたいってこと?」

「うーん、ちょっと違うかな」

 彼女はこちらをちらりと見て咳払いする。

「あのときのわたしは、変わりたいとは思ってなかったんだけれど、変わりゆく自分を受け入れる覚悟をしなくてはいけないと思っていたの」

「変わりゆく……そういう自覚があったってこと?」

「自覚せざるを得なかった。ビックリした」

「それは面白そうだな」

「面白いかはさておき、興味を持ってくれたのなら嬉しいかな。坪手くんは、特別なものや出来事と遭遇した瞬間を覚えてる?」

「どうだろ。病室のベッドで目覚めたときか、高校入試か大学入試か。あんまり物欲がないから、特別っていうとだいたい経験になるかな」

「どうだった?」

「まあ……まあまあ」ぼくは言葉を濁した。「なんていうか、過ぎていったことばかりだよね」

「そう! 時間が流れるせいで、特別なはずのことがなんもかんも勝手に失われていくんだよね」

 完全に同意する。

 たいての特別は幻だ。

 もしもそれが本当に特別なら、どんな物理法則があろうともそこで立ち止まることができるはずだ。でも、時間の流れと共に失われたり、手放さなくちゃいけなくなったりする。なら逆説的に、それは特別ではないのだ。

 手放すという選択が現実味を帯びたとき、失われるしかないことを受け入れたとき、特別でもなんでもなかったのだと気づく。

「で、何が特別だったの?」

「うん……『どっちだ』を当てられたの」

「宮本くんに?」

 光果さんは頷いた。

「わたしが高校二年生の頃だから、彼と会って最初の夏かな。ほんとにたまたま、一回だけだけどさ。なんの脈絡も前兆もなく当てられたの。それから実は、ずっと気になって……」

 彼女の、ペットボトルを握る手の指先が複雑に動く。

「一年経ったら、映画撮るって呼び出されて。そしたらなんだか、この人は特別なのかもしれないとちょっと思っちゃってさ。わたしは坪手くんだけがこの世で特別だと思って生きてきたのに」

「それで、つき合おうって言ったの?」

「うん。そしたらさ」光果さんはペットボトルのお茶を一気に飲み干し、その勢いに任せるように言った。

「あの男、その理由を解くとか言い出したんだよ」

「……光果さんが告白した理由、ってこと?」

「そう。しかも全然見当違いなの。わたしが彼に告白した理由は、一年前に一回『どっちだ』を当てられたっていう、それだけなのに。そんなに簡単なのに。近いんだか見当違いなんだかわかんないこと言ってさ。まったくあの男は。千載一遇のチャンスを逃したね」

「それは彼にとっての? きみにとっての?」

「……どっちだろ」

 風が一つ吹いて、光果さんは帽子を押さえた。

「宮本くんは最終的に真相に気づいたのかな」

「たぶんね。そのあとなんも言ってこなかったし、なんか絶望の顔してる時期あったし」

 光果さんは乾いた声で笑った。ぼくは海を見ながら言う。

「そういえば『ピクニック』も見たよ」

「あー……あれは、まあ。どうだった?」

「正直よくわかんなかったな。何か、内輪だけで盛り上がりそうな暗号でも仕込んである感じ? 変なところにピントが合ってたり、同じ場所をグルグルしてて不自然だった。それがオチに使われてるわけでもないし」

「さすが。それ以上はわたしの口から言うことはないね」

 ぼくたちはいま、ここにないものを見つめて話している。過去も未来も存在しない。いまだって、一瞬先には本当にあったことなのかもわからない。

「ねえ。坪手くんのクラゲって、どうやって死んだの?」

「ある日、見たら沈んでた。一晩様子を見たら身体が崩れてて、そのうち消えてた」

「そっかあ。でも、消えてなくなるのはいいね。後腐れなくて」

 光果さんは砂浜に落ちる木の影を見つめながら呟いた。足下には蟻が列をなして、さっきぼくの落としたきゅうりの漬け物の欠片に群がっている。

「わたしねえ。連絡をずっと待ってた。ときどき忘れながらだけど。これ、今日家に帰ったらもう『終わった』になってなくなるのかな」

 なくなるのは寂しいことだ。なくす前からきっと寂しいと想像していたとしても。答えは求められていないと感じたので、ぼくは彼女に質問をした。

「東京にはいつ戻るの?」

「木曜かな。今週いっぱい休みの予定だったんだけど、一日早く帰らなくちゃいけなくなったっぽくて」

「きみがそういうスケジュールに縛られてるのはなんだか不思議な感じがする」

「まだ新鮮だし、楽しんでるからべつにいいかな」

 それからぼくを見る。

「大学はどう? ていうかどうだった?」

「そこそこ。といっても割と暇だったからずっと勉強してたかな」

「お酒とかは?」

「少々。一人でいるのが好きだし、車でどこかに出かけることが多かったし。だからお酒を飲む機会は他の人より少なかったかもしれない」

「そうなんだ」

「そっちは?」

「うーん……わたしも少しかな。性格的に、やらかしそうだから控えてる」

 たぶんやらかしたことがあるのだろう。

「話戻すけどさ。北海道って、もしかして行ってみて気に入ったからとか?」

「そう。楽しかった」

「すっかり旅人だね」

「たまたまだよ」

「遊びに行っていい?」

「もちろん」

「約束ね」

 光果さんは言ったあとで気づいたのか、弾む声でこう付け足した。

「約束するの、すっごい久しぶりじゃない?」

「そうかな。そうかも」

「じゃあさ。久しぶりついでに言うけど」

「何?」

「わたし、坪手くんは永遠にわからないままだと思ってた」

 それは、例のノートのことか。

 彼女はこっちを見ていないと思ったから、ぼくも見ずに答えた。

「ノートの存在を知らせてくれる人たちが来たからね。真相に辿り着く術がなくてもそこに秘密があるってことには気づける」

「さすが」

「たぶんぼくのために隠してるんだろうから、感謝してる」

 ぼくたちが子供の頃の事故について、彼女は自分が犯人だとぼくに思わせていた。

 その理由をずっと考えていた。天坂さんと宮本くんが家に来るまで。

「真相を隠すってことは、事実はぼくの単独犯か、でなきゃぼくと光果さんの共犯だ。仕掛けの場所にぼくらを誘ったのはエヌだから、三人の共犯って言えるかもしれないけれど」

 いずれにせよ、その真相を一人で抱え込むために生まれたのが菜々子ななこさんだ。

 菜々子さんはべつに菜々子さんじゃないのだけれど、みんなからは便宜的に菜々子さんと呼ばれていた。彼女があの映画で捨てて以来、もう誰も呼ぶ者のいない名前だ。

「かなわないなあ」

「じゃあ教えてくれる? きみの隠してる真相について」

「黙秘」

 秘密は教えたら消えてなくなる。なくなったら寂しくなると、彼女もまた知っているのだろう。ぼくらの絆とは、つまり寂しさ預け合う行為なのだ。

「ならいいや。少なくとも、ぼくはそう理解した」

「曲解かもよ?」

「人間関係において、理解ってのは曲解を引き受ける覚悟のことだよ」

「なんだそりゃ」

 軽く笑い、光果さんは口を尖らせて言った。

「映画、大変だったんだよ。撮り直しも演技指導もいっぱいあったし、自分でいいなと思ったとことか編集でバッサリ切られたりしてるし」

「映画っぽいねえ」

「映像だって、使われた分の十倍くらい撮ったんだよ」

「なんでそんなに減ったの」

「撮ったその場でチェックしたときはあんまり思わなかったんだけどさ。あとから見ると、映像が白く飛びすぎててイマイチなのばっかで。太陽の真下でアホみたいに撮影してたから。あと音。風の音が強くて使えないやつが多かった。『ピクニック』……わたしが一年のときは、台詞がほとんどないから全然気にしてなかったな」

 言ってから鼻先をピクリと揺らし、こう付け加えた。

「でも『ピクニック』よりずっといい映画じゃない? 何よりワケわかんなくてフツーに面白い」

 それから口元を歪め、

「いや、『面白い』の意味が違うかもな」

 と頭をかいた。

『ピクニック』も『くらげのできるまで』も、彼女はなんだかんだ言っても自分の出ている映画を褒めてほしくてぼくにおくってきたのだ。それは間違いない。でも、そうじゃない側面もある。特に『くらげのできるまで』は。

 光果さんは横目でぼくを見た。

「背、伸びたよね」

「うん、きみと同じくらいにはなった」

「もっと伸びるかな?」

「いまも一年に二ミリくらい伸びてるよ」

「大人になっちゃう」

「子供はね、生きていくには大人になるしかないんだよ」

 彼女はぼくの言葉に反応するでもなく、ぼんやりと海を眺めている。いくつかの波が消えたのを見送って、隙間を埋めるように呟いた。

「わたしは一つ黙秘したから、坪手くんももしそうしたかったらそう言って」

「どうだろう。聞いてみないことには」

「ずっと、確かめたかったことがあんだよね。舞ちゃんのこと、どうしてフッたの?」

「そりゃ、きみの手先かもしれないし」

「あの子がそんな役割引き受けるわけないじゃん」

 お茶を飲みたかったけれど、もう空だったのでペットボトルを揺らしながら答える。

「最初は、映画が光果さんとの交換日記みたいなものになればいいと思った。でも」

「脚本がその域に達してなかった?」

「言葉を選ばないなら……まあ。天坂あまさかさんはぼくらの『名前を捨てるかどうかのゲーム』をもっとスピリチュアルな観念で捉えてたから、あの脚本じゃダメだと思った。だから」

「だからフッた? そんなの理由になる?」

「何か思うところがある口ぶりだね」

「まあね」

 光果さんは足を組みかえ、ベンチの背にもたれた。

「坪手くんさ。舞ちゃんの脚本を読んだときに、作戦を変えたでしょ。ていうかずっと並行して別の作戦を考えてた。交換日記がプランAなら、それが無理なとき用のプランBにすぐ切り替えられるように」

 ぼくは水平線を見つめながら目を細め、うーんと伸びをして言う。

「なんだろう。完成した映画は味があって良かったけど」

「それ、もしも会う機会があれば伝えておくよ。でもいまはそれじゃなくて」

 光果さんがずいっとぼくににじり寄った。

「きみ、舞ちゃんを使って映研を潰そうとしたね?」

 横顔に光果さんの視線をたっぷり受けながら、ぼくは薄く笑みを作る。

「……なんでそんなことを? ていうかどうやって? 遠隔でって言うつもり?」

 光果さんは顔をさらに近づけてくる。

つくだくん——わたしを骨折させた人ね。彼の友達の、わたしが中学のときケガさせた人。坪手くんはその人の存在を知ったときに『使えるな』って思ったんでしょ」

 深呼吸すると海の匂いが胸に広がった。久しぶりの海だから、もっとそれを眺めたいのに。でも光果さんはそれを許してはくれない。

「友達思いの佃くんがその人の件でわたしにモヤモヤしたものを抱えている。それをあの真面目で思い込みの強い舞ちゃんが知ったら、きっと黙っていられない。この構図を利用することを思いついた。思いついたからやってみた。その結果がどうなるかは神のみぞ知るって感じだったろうけど……違う?」

「思いついたからやってみたって……簡単に言うけどさ。どうすれはそんなことができるってのさ」

久美子くみこを使ったんだよ。口で言ったか、メールに書いたかは知らないけど」

「……覚えてないなあ。古いやりとりはケータイからスマホにしたときに全部消えちゃったし、見返すこともできないし」

「白々しいなあ」光果さんの目がぼくの目をのぞき込む。ぼくは動けなくなる。

「久美子は心配性だからさ。それで余計なことをして……気持ちは嬉しいけどさ。で、佃くんも佃くんで勘違いから余計なことをして、そこに舞ちゃんが首を突っ込んで余計なことをした。あのときはなんでこんな立て続けにみんなして余計なことすんだって思ったけど、同じ人がコントロールしてたならわかる」

「その尻拭いを宮本くんがやる羽目になったわけだ」

「そういうこと」

「でも、ぼくは家にいただけだよ。片寄かたよせさんとは直接会ってないし、宮本くんも一度会っただけ。佃って人に至っては完全に知らない人だよ。ああ、天坂さんから名前くらいは聞いたかもだけど」

「わたし、久美子に『逆恨みされてる』なんて言ってないんだよね。だってその自覚なかったし」

「そうなんだ。でもしょっちゅう逆恨みされてたってイメージがある」

「それは否定しないけど。でも久美子からの言質はある。映画の最後の方のシーンで、宮本くんがいろんなアホみたいな映像に紛れ込ませてたでしょ」

「……あの最後? 個人的には好きなラストだけど」

「好きなら覚えてるんじゃない? 『逆恨み』『……てくんから聞いたんだ』って。ねえ、わたしは気になったから何回か見て、気づいたよ」

「そんなのあったっけ」

井口いぐちさん、映研のあのとき二年生の子が撮っててさ。撮ってたのはたまたまだろうけど、あの子はMVPだね。そしてもちろん宮本くんも。彼は撮影した素材の山からそれを見逃さず、坪手くんに届けられるであろう映画に忍び込ませた。宮本くんからきみへの『交換日記』だね。彼のメッセージには気づかなかった?」

 もちろん気づいた。宮本くんの人となりはそんなに知らなかったけれど、光果さんに一目置かれるくらいだから、もしかしたらぼくが映研を意図して潰したことに気づくかもとは思った。そして映画を見て、やっぱり気づいていたのだと知った。

「宮本くんは怒ってたけど、復讐なんかするタイプじゃないから今更気にしなくていいと思うよ。でもわたしはさあ——」

「ぼくは、ぼくなんてとっとと忘れて先に進んでほしかった。引き留めておきたくなかったし」

「……それが理由?」

「そう」

「わたし、ずっとその理由を考えてた。でも浮かぶのは、つまらなくて偽物みたいなものばかりだった。坪手くんの口から聞けてよかったよ」

「……ならよかった」

 光果さんの前髪がぼくの肌に触れ、心臓がざわりと毛羽立った感じがした。

「坪手くん、緊張してたでしょ。やっと柔らかい表情に変わったよ」

 そう言うと光果さんはようやくぼくから顔を離し、代わりに左手をすっと差し出した。

「でもこれだけ言っとくけどさ。わたし、そのせいで骨折したんですけど」

「……それは本当にごめん」

「嘘。自分で折られにいった。いや、骨折するとは思わなかったけど」

「なんでそんなことをしたの?」

「友達に恨まれたらどういう気持ちになるか、知りたくなったんだよね」

 彼女はもう痛むはずもない手首をさすって続ける。

「坪手くんをとられるかもって舞ちゃんを恨みそうになって、そしたら恨まれる側ってどういう気分になるのかなって気になって」

「で?」

「佃くんをけしかけるようなことを言って、恨んでもらおうとした」

「どうだった?」

「最悪だった。二度としないって誓った」

 光果さんはそれが言いたかったんだとばかりに嘆息を挟み、海に視線を向けた。解放された安堵感から、ぼくも同じように海を見つめる。

「海っていいね」

 たぶんどちらもが思っていたことを、どちらかが言った。続く言葉はぼくが言った。

「さっき、大学はどうだったか聞いたよね」

「うん」

「実際、つまらなかった。きみより面白い人はいなったから」

「そうなんだ」

 視線を海に定めたまま、彼女は口元を緩めた。

「わたしも坪手くんが近くにいたらいいなと思ってたよ」

 でもそれはもう叶わないことだ。

 誰かと同じ気持ちのとき、その人と同じ場所にいるとは限らない。

 これまでもそうだし、これからもそうだ。

「さっきした約束も、どうなるかわかんないよね。何年かしたら急に謎の疫病が流行ってみんな外に出られなくなるかもしれないよ」

「そんな極端な」

 それだったら、彼女が誰かと結婚してるとかぼくが棺桶に入ってるとかの方があるかもしれない。あるいはその逆でも。

 いまのここ、は、いまここにしかない。

 いつか思い出に変わりそうな物事について、先んじて懐かしがることを感傷と呼ぶ。

 きっとぼくたちは感傷のたびに、いろんなことを先延ばしにして「またね」を言い合うだろう。そしてもし次が来たなら、過ぎ去ったことを話しては「いろいろあったね」と後戻りできないことを噛みしめる。

「ぼくたちって、時間と空間に縛られすぎだよね」

「うん。世界がSFだったらいいのに」

「インターステラーみたいな?」

「そんな壮大じゃなくていいんだけどさ」光果さんは足下の蟻を見つめた。「……でもおんなじか。壮大でもアリンコでも」

「だね。結局は一瞬の連なりだ」

「うん。そう思う」

 光果さんは両手をあげて思いっきり伸びをした。

「一瞬の連なりとさ、わたしの余計な興味が原因だったなら、それはしょうがないんだけどさ」

 どのくらい話し込んでいたかわからないけど、少し冷えてきた気がする。そろそろ帰らなきゃいけない時間かもしれない。水平線と太陽の隙間を見つめ、いま何時くらいだろうと考えた。

「坪手くん。ほんとは、わたしが羨ましかったんじゃない?」

「……なんのこと?」

「わたしを引き留めておきたくなかったっていうなら、何年経ってもわたしがおくった映画なんて見ないよ。あの頃の坪手くんは、わたしが映研の友達や後輩と楽しそうな高校生活を過ごしてるのが気に食わなかった。けれども時間が経ってきみの中のそういう感情が成仏したから、映画を見る気になったし、わたしに連絡をしてもいいかなって思った」

 ああ。やっぱりそうだ。帰らなきゃと思った感情は、正しくは「逃げなきゃ」だ。でも逃げられるわけないので、できるだけ逃げ腰にならないよう、堂々とした口調でぼくは言う。

「か、考えすぎじゃないかなあ」

「映画じゃこぼれ落ちちゃったことだけど、舞ちゃんの脚本に書いてあったよ。わたしが捨てる名前で〝菜々子〟を選ばなかった場合の宮本くんの台詞。『これで誰かさんは嫉妬し続けるな』だってさ」

 横目で様子を伺うと、彼女は海を見つめていた。口元だけが、別の生き物みたく滑らかに躍る。

「坪手くんは舞ちゃんのこと内心でたわいないなと思ってたかもだけど、きみの内心はあの子にバレてたんだよ。これでもまだ考えすぎかな?」

「……黙秘」

 光果さんはぐるりとこちらを向いた。ぼくの言葉に満足げにニヤニヤして、左手を仰々しく見せびらかす。

「骨折したのが佃くんとか舞ちゃんの善意の空回りだとか、坪手くんの健気な気持ちとかなら受け入れてたけど、そうじゃないなら」

 視線がバチリと合ったまま、彼女はまたもぼくににじり寄る。

「……なら?」

「やり返したくなっちゃうかも」

 マジか。

「でも、今更かも。どうしようかな。揺らいでる」

 その目は明らかに何か企んでいて、これはしてやられたと思った。さっきは家に帰ったら『終わった』になるなんて言ってたけど、全然そんなつもりなんてない。まったくもって不実な話だ。光果さんは、新たな幼生へと生まれ変わるためにここに来たのだ。

「昔、わたしたちの人生が滅茶苦茶になったとき。わたしね。坪手くんのことをすごく大切だと思ったの」

「それは……ありがとう?」

「どうだろ。この人とはずっとそれができると思ったんだ」

「……何を?」

 次の言葉は、光果さんの口から空気を伝わってぼくの鼓膜を震わせ、なんらかの神経を伝達してぼくの脳のいちばん奥を揺らして響いた。

「やったり、やられたり」

 それは脳の奥から脊髄を突き抜け、全身に張り巡らされた末梢神経のすみずみまで一瞬で行き渡ると、皮膚から湧き出てぼくの身体を静かに震わせた。

 唾を飲み込みたいのを我慢して訊ねる。

「それで……どうするの?」

「うーん……」光果さんはわざとらしく首を傾げ、それからポンと手を叩いた。

「坪手くんに決めてもらおう」

 言うや、ベンチの下に屈みこんで小石を二つ拾いあげた。

「これやるの久しぶりだな」

 右と左の手のひらに一つずつ載せ、ぼくに見せる。

「こっちの丸いのは健気で気遣いしいの坪手くん。こっちのカクカクしたのは嫉妬深い嫌がらせ野郎の坪手くん」

 そして両手を後ろに回し、何やらモゾモゾさせる。

 ぼくは思う。

 ぼくらの絆が寂しさを預け合う行為なら、ぼくはまだ彼女のシナリオの中にいるのかもしれない。

 光果さんはぼくに向け、とびっきりの笑顔と共に両手の拳を差し出した。

「どっちだ?」

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