〝菜々子さん〟の戯曲《シナリオ》海を見に行く不実な理由

高木敦史

●REC『くらげのできるまで』

 たしか八分一九秒だ。

 おれたちがいま浴びている太陽の光は、約八分一九秒前のものだという。もしいまが夜で北極星を見たならば、それは四〇〇年前の光だ。アンドロメダの大星雲に至っては二三〇万年前というから、途方もない話だ。とはいえ、おれは見たものがいつのことかよりも、見たのがいつのことか、重要なのはそっちだと思っている。

 さて、いまおれが見ているものといえば、南中を目指す太陽が木陰を溶かし、女子たちがじりじりとビーチパラソルの下へ追いやられていく姿だ。その様を横目に、おれは波打ち際へと足を進めた。砂浜は徐々に湿りを帯び、足跡を一瞬だけ浮かび上がらせては呑み込んでいく。キラキラと光を散らす水に足を突っ込むと、浮力だか水圧だかでサンダルが持っていかれそうになる。そのうえ水は想像より遥かに冷たい。しかし、たじろいではいけない。背後ではカメラが回り、おれの姿を撮っているのだから。

 カット、と声がした。

「水にビビりすぎ。そんなに冷たい?」

 カメラを回す男子が笑った。

「いやあ、割と我慢したんだけどなあ」

「水に浸かる前から勢いが削がれてたぞ。もっとこう、あばれトビウオみたいに飛び込んでくれよ。その麦わら帽子が離岸流に流されるくらいがちょうどいい」

「おれの溺死がご所望で?」

 そもそもあばれトビウオが何かわからない。と、そばでもう一人の男子も笑った。

「安心しろ。帽子だけは死守してやるから」

「おれの死守は高望みかなあ」

 溜息をつくおれに、カメラが下げられた。

「ちょっと休憩しよっか」

 途端に、パラソルの下で日陰を貪っていた三人の女たちがぞろぞろと飛び出してきた。

「オッケー、アイス食べよう。食べる人、挙手!」

「わたし買ってくる! ついでに、宿から日焼け止め取ってくるね」

「水、そんなに冷たいの〜? それとも水が苦手とか? 動物的な本能で」

 三人のうちの一人が、ニヤニヤしながらおれに近寄ってきた。

 水着の上からパーカー状のラッシュガードを着込んでいるが、オーバーサイズで丈が長く、体型を覆い隠している。髪を後ろで引っ詰めてフードをすっぽり被っているため、少年のようにも見えた。

「おれは近くに海のない地域で育ったもんでな。まあ、圧倒的存在感に気圧されているといえば嘘ではない」

「ここにいるメンバーはみんなそうでしょ。海水浴とか家族で行かなかったん?」

「べつに、海が初めてだなんて言ってない」

 話しながら、どんどん端の方に追いやられていると感じる。

「おい、なんなんだよ」

 パーカー女は、下から睨めつけるようにおれを見あげた。

「なんだじゃないでしょ〜。朝、どこに行ってたの? ふらりといなくなってさあ」

「あっちの岩場はどうなってるのか気になっただけだ。撮影に使える場所は多い方がいいだろ」

「わたしが先に見たって言ったじゃん? なんで信用できないかなあ」

「おれにはおれより信じている人間など存在しない」

「ふうん」彼女はわざとらしく作り笑いを浮かべた。「で、何かあった?」

「ああ、見に行く? どうせしばらく休憩だろ?」

 振り向けば、他の面々は思い思いに海辺で戯れている。おれたちが少し消えたところで問題あるまい。

 海を左手にして砂浜を進むと、次第に岩が増えてきた。心なし、足に力がこもる。

「ねえ、あんま急ぐと滑るよ」

「気をつけてるよ」

「じゃなくって、わたしが滑るからもっとペース落とせって言ってんですけど」

「じゃあそう言えよ」

「言ってるって言ってるでしょ〜。ほんと鈍感な男だなあ」

 その発言に、悪びれた素振りは微塵もない。傲慢な奴だ。まあ、身長はおれより一五センチかそれ以上低いし、おれが大股で進むペースだと追いつけないのも無理はない。全ての女性の傲慢さを受け入れる度量を持つおれは、振り向いて彼女に手をさしのべた。

「ここ、幅広いぞ。掴まれ」

「エラそっ。あんたの頼りになんてすがりませ〜ん」

 不平を漏らしつつも、結局彼女はおれの手につかまった。

「うえぇ。フナムシだらけ。気持ち悪いなあ」

「おまえ、山に行ったらバッタだらけって文句言うだろ」

「うっさいなあ。ほれ、ちょっと蹴散らしてよ」

「蹴散らすまでもなくこいつら逃げてくぞ。わははっ、さながらモーセの気分だ」

「モーセは人をフナムシに喩えないでしょ」

「じゃあ何に喩える?」

 返事はなかった。やはり傲慢な奴だ。さらにしばらく進み、平らな岩場の上で振り返る。いつの間にか他のメンバーは豆粒のようなサイズになっていた。

 パーカー女が目を細めて数える。

「えっと……あの人も、他の人も……誰もこっちを気にしてないし、大丈夫そうだね」

「だな。これでようやく話ができる」

 昨日からずっと機を伺っていた。おれたちには、どうしても二人きりになって話す時間が必要だったからだ。

「あんたさあ、日焼け止め塗ってるの? この日差しで上半身裸だとすぐ真っ黒になるよ」

「焼けてた方が映画の雰囲気出るだろ?」

「シーンごとに見栄えが違うと困るって話してるんですけど」

「編集でどうにでもなるさ。それより」

 この期に及んで本題に入らない様に痺れを切らしたおれに、相手は諦めたのか口を尖らす。

「わかってるって。まいの弔い合戦だもんね」

「死んだみたいに言うなよ」

「ひっどーい。勝手にナムアミ沙汰ざたにしないでよぉ」

「降りるならいまだぞ、真柴ましば

 おれの言葉に、パーカー女こと真柴幾乃いくのの瞳が一瞬揺らいだ。が、強引に隠して、ふて腐れたように呟く。

「撮影中は名前呼んじゃダメなんじゃなかったの?」

「いまは休憩中だ。それに、自分だってさっき天坂あまさかの名前出したじゃないか」

「それはいいでしょ。もういない人なんだし」

「だから死んだみたいに言うなって」

「うるさぁい。宮本みやもとうるさい」

 ブツクサ言いながら、真柴はもう一度砂浜の方を見た。視線は一人、大ぶりのストールを両手で掲げ、旗のように風になびかせる女性に固定されている。

「あーあ。先輩に嫌われたくなかったな」

「何されるかわかんないしな」

「じゃなくってえ。人として好きだから、あの人」

「おれもだよ」

「何遍も聞いたわ」

 二人、嘆息する。お互いに、いまの気持ちは一緒だろう。憂鬱と不安と高揚だ。

「宮本に協力したら、本当にわかるんだよね? 舞が、脚本だけ残して部活を辞めた理由」

「おれは約束を破ったことがない。そっちこそ忘れるなよ、報酬のこと」

「わかってるよぉ」

 真柴は口を真一文字に結び、決意か諦めの表情を浮かべた。

「しゃあねえ。信じるかあ」

「OK。ここから先、おれたちは運命共同体だ。背中は預ける」

「そうだ、合図は? それを聞くためにここに来たんだった」

「決めてある。『先輩、陰険すぎです』だ。その台詞のタイミングで動く」

「なんで?」

「そりゃおまえ、突き詰めればそれが原因だからだ。問題あるか?」

「……ない。わたしは助手をまっとうするのみ。オッケー」

 焼けつく日差しに晒されながら、おれたちは二人、拳をぶつけ合った。

 砂浜に戻ると、カメラを持つ男子がこっちに向けて手をあげた。

「戻ってきたか。そろそろ撮影再開するぞ」

 おれたちは夏休みを利用して映画えいが研究部けんきゅうぶの合宿に来ている。部活動の規則で文化祭までに一本の映画を作らねばならない。その撮影の大半を、この一泊二日で集中してやってしまおうってハラだ。今日は二日目、夕方前には撤収して帰途に就く。撮影に使えるのはせいぜいあと一時間ちょっとだろう。

「撮影、ね。気が重いなあ」

「表向きは、撮影で気が重いってことにしろよ」

 小声で話すおれたちに、ストールをスカートみたいに巻きつけた女子が言った。

「二人とも遅いよー。アイス溶けちゃう前に食べな?」

 黒いセパレートの水着に、エメラルドグリーンのストールが鮮やかに映える。屈託ない笑顔で棒アイスをつまみ、彼女は「いらないなら、宮本くんの分はわたしがもらうけど」なんてゆらゆらと揺らした。

 習志野ならしの菜々子ななこ先輩だ。

「食います! 超食いたい」

「しゃあねえなあ。はいどうぞ」

 アイスを差し出すその人は、おれの憧れで、ライバルで……おれはこの人に認められたいという一心で高校生活を送っていると言っても過言でない。

 なのに。それなのに。

 アイスの拍子に触れた指先。その冷たさが、じわりと罪悪感を浮かび上がらせた。

 ああ、なんてことだろう。

「あっつい」

 降り注ぐ陽光に目を細め、額の汗を拭う彼女。

 おれはいまから、このひとを罠にかけようとしているのだ。

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