第二十五話
「くそ……くそくそくそくそ……どうしてこんな目に……」
ぶつぶつと口汚い罵りを吐き出しながら、笹森武はアクセルを踏み込んだ。
××県の県議という立場である笹森が所有しているハイブリッド魔動車は、笹森の自意識よりもはるかにレスポンスよく動く。
夜の県道を時速八十キロで飛ばし、辿り着いたのは街の中心部からはやや外れた位置に構えた笹森の事務所だ。よくある複合ビルで、一階が理髪店、二階が司法書士事務所に法律相談事務所、そして三階部分がまるごと笹森の事務所になっている。
といっても、笹森がこのビルで事務仕事をしたことなど一度もない。
秘書がスケジュールを組み、事務作業は事務員が行う。笹森の仕事は年に約八十回ある議会に出席して秘書が用意した紙を読み上げること、後援会や地元の有志の集まりに出て「任せておけ」と頷いて笑うこと。
人には求められる役割があり、その意味で笹森武は己の役割に忠実だった。
幼い頃から優秀な兄がいて、両親の期待は兄へ注がれていた。父の病院を継ぐのは兄であると決まっていたから、笹森武はせいぜい周囲が気に入るように振る舞っていただけだ。兄が優秀なので、弟である自分は要領よく立ち回ればいい。
損をしないためには、自分より下をつくること。
それはまだ小学校に上がる前、親戚同士の集まりで学んだことだった。笹森の両親はそのようにしていたし、だから笹森自身も偉そうなふうを装って同世代の子供を下に扱ってみた。一度決まった上下関係は簡単には覆らず、数を増やしてしまえばさらに笹森武の牙城は強固になった。
どうして立場が上なのか?
決まっている。上にいるから上なのだ。どんな能力があるだとか、どれだけ優秀であるとか、そんなことは関係ない。それが笹森の実感だったし、当人はあまり自覚していないが、それこそが笹森武の才能だった。
恥も外聞もなく偉ぶれること。
我が身を省みない面の皮の厚さ。
笹森武の政治家としての才能は、その一点に尽きる。自分の能力を毛ほども信じておらず、政治的主義もなく、後援者の意見に反発することもなく、自分より優秀で立場が上の人物を見分ける鼻が利き、そういった人物に取り入ることに躊躇がなく、自分より下と感じた者たちに神輿として担がれる才能が、確かにあった。
やりたいことも、やりたくないこともない。そもそも笹森自身はなにをするでもなく他人にやらせるだけ。ある種の民意を反映する、という点においては、笹森武は実のところ劣悪とまでは言えない政治家だった。
無論、清廉でもなければ優秀でもないが。
「くそ……くそくそくそが……なにが配信だ、ガキ共が……」
ぶつぶつと呪詛を吐き散らしながら、事務所の棚からバーボンウイスキーを取り出し、ロックグラスに中身を注いで氷も入れずに喉へ流し込んだ。かっとする熱さが身体の内側を流れて胃に落ちていく。
「兄貴も親父も……一体なんだってんだ……あんなもの、誰もが思っている、ただの本音だろうが……くそ! なにが迷宮だ、莫迦莫迦しい……あんなガキ共の遊びで公共の福祉だ? ふざけやがって……!」
例の『アンセム』との会議における笹森武の振るまいは、マネージャーの宣言通りに全世界へ配信されていた。
リアルタイムで配信されているとは思っていなかったが、配信されること自体には同意してしまったので『アンセム』を責めることもできない。いや、厳密には騙し討ちのような形での配信だったので責められなくもないのだが、現状における世論の動きを考えれば、そこを責めたところで意味がないのだ。
強烈なバッシング。
笹森には全く意味不明だったが、会議で吐露した笹森の本音が、どうやら大衆の癇に障ってしまったようだ。あんなものは誰もが思っていた本音だというのが笹森の認識だったが、どうやら違ったらしい。
剣だの刀だのを持ってわけの判らない迷宮で遊んでいるような連中が金を生むのだから、せいぜい好き勝手遊んで金を落としてくれればいい――。
そう思っていたし、ほとんど誰もがそう思っていると考えていた。
「くそ! 親父も兄貴も……どいつもこいつも!」
例の会議が終わった直後、実家に呼び出され、向かってみれば父と兄が修羅のごとき相貌で笹森武へ説教をし続けた。一晩明かした後にもそれは続き、ようやく解放されたのが、つい先程。
この歳になって『怒られる』という事態は、笹森武の自尊心をひどく傷つけた。迂闊な発言と尊大な態度について指摘され、失望され、叱責されたのは、当人からすればあまりにも理不尽だった。
何故ならこれまでずっとそのようにしていたのだ。指摘も叱責も、だとすれば遅すぎるのではないか。
今更、殊勝になって発言や態度を謝罪する?
ありえない。そんなことをすれば『下』になってしまう。下になってしまえば、また上になるまでに無数の人間を蹴落とさねばならない。六十を越えた年齢で、そんなことをする元気はない。
喉を焼くバーボンウイスキーは、後援者が贈ってきた十二年もの。そこまでの高級品ではないが、おそらく庶民が常飲するには少し厳しいという値段帯だ。このくらいの酒ならば売るほど贈られている。
引退するか……?
ふとそんなことを考えてもみるが、どうにも現実感が湧かない。これまでずっと他人の神輿として生きてきて、偉そうに振る舞うのが笹森武の仕事だった。それを、この年齢になって辞めたところで……一体自分になにが残る?
「うぐぐぐ……!」
あっという間にグラスの中身が空になる。今日はこのまま事務所で寝てしまおうかと考えて、そして――今日が終わったらどうすればいいのかと途方に暮れる。
年金をもらう年齢までは、まだ少しある。貯金はそれまで持つだろうが……笹森は自分の金を自分で運用した経験があまりにも少ない。ほとんど誰かに任せて生きてきたし、それで困ることはなかった。
秘書や事務員たちは、落ちぶれた笹森の元で働いてくれるだろうか?
そう考えてみたが、結論は簡単だった。そんなわけがない。笹森武が『上』にいたからこそ、彼らは笹森のために働いていたのだ。それが彼らの利得になるからだ。ならば落ちぶれた笹森に従う理由などありはしない。
どうにか――どうにか挽回するか、帳消しにしてしまえるナニカがあれば……。
ありもしない起死回生を頭の中で空転させながら、とにかくバーボンをグラスに注ぎ、また空にして、さらにグラスに注ぐ。
――ふと、ノックの音。
こん、こん、こん、という規則的で静かなノックの音が、事務所のドアから響いてきた。莫迦な正義感に駆られたジャーナリストか、と笹森は反射的に身を竦ませたが、それにしてはノックの調子が大人しい。
正義を気取った連中は、いつだって勢い込んで浅ましく他人の領域に足を踏み入れて来るものだ。笹森の総合病院で医療ミスがあったときも、メディアの中のわずかなはみ出し者が、鼻息荒く人の庭に踏み入って来た記憶がある。
だが、このノックは、そういう調子じゃない。
黙ったまま笹森は事務所のドアを眺めていたが、ノックが止んですぐ、がちゃりとドアノブが捻られる音がした。そういえば鍵などかけていなかった。
現れたのは、スーツにボーラーハットを被った、奇妙な男だった。
ひょろりと背が高く、身長の半分は脚という体型。左手で杖を突いており、やや猫背気味。ダークグレーのスーツはオートクチュールらしく袖と裾の長さが完璧に整っているのに、金持ち特有の気配がない。
「探しましたよ、笹森武さん」
よく通るバリトンの声。
薄ら笑いを浮かべているようなのに、その男には表情というものがなかった。顔の造形は整っている気がするのだが、不思議と印象に残らない。
なんだか顔色の悪い男だな、と笹森は思った。
「だ、誰だ、おまえは。私になんの用だ?」
「名乗るほどの者ではありません。が、それでは話が進まないでしょうし、身分を明かしましょう。内閣情報調査室の者です」
「ないかく……?」
「おや、聞いたことはありませんか? 平たく言えば日本のCIAですよ。私は迷宮部門の担当者です。組織の性質上、名刺を渡すわけにはいきませんが」
「内閣……内閣官房のこと、か……?」
国会議員でもなく、国政政党からは支援を受けているだけの笹森からすると、雲の上のような話だ。フィクションに登場するような人物が、実際に自分の前に現れても、まるで実感が湧かない。
半ば自動的にバーボンを注ぎ足し、それを口に含み、胃に落とす。
アルコールの熱さが、現実感を笹森に与えてくれた。夢や幻ではなく、この顔色の悪い男は、実際に笹森の事務所にやって来て、目の前に存在しているのだ、と。
「今回の『アンセム』の行動と、笹森さん、貴方を含む××県議やS市義、市長の件に関して……かなり拙いと判断されました。どういうことか理解できますか?」
「え、炎上している……のが、拙いのだろう……?」
「まあそうなのですが、その程度の認識では足りませんね。いや、その程度の認識だからあんな科白を口から吐き出せるのかも知れませんが」
「どういうことだ!」
ばんっ、と思わず机を叩いてしまったが、事務所の入口に立っている男の立場を考えて、一瞬で後悔した。見るからに年下で、丁寧語で話しているからうっかりしてしまったが、彼の立場を考えるなら笹森武をどのようにも処理できるのではないか。
「いや、ね。『アンセム』の――というか、引いては迷宮庁の方が怒る気持ちも判らないでもないのですが、面子の張り合いで国家の安全を揺るがしてもらっては困るということです。せっかく大衆は気づいてないのですから、気づかせてしまっては、面倒でしょう。今回は貴方たちの尻拭いですよ」
やれやれと嘆息する杖の男だったが、口調からも態度からも、感情が読み取れなかった。呆れているかのような言葉ではあったのに、呆れているような雰囲気が伝わってこないのだ。
モルモットの変化には興味を抱いていても、モルモットそのものには興味も愛着もない――そんな感じ。
「海外の、特にかつては発展途上国と呼ばれていた多くの国では迷宮で力を得た探索者が国家運営の中心に携わるのが当然になっていますが、それはそうでしょうね。銃もロケットランチャーも効かないような人間が存在するようになって、そんな連中が好き勝手放題暴れ出したらどうします? 同じバケモノに縋るしかないでしょう、普通の人間たちは。それが日本で起きなかったのは、本当に平和だったからですよ。平和とは理性と怠惰が生み出すものなのです。変わるのは面倒でしょう?」
こつん、と杖を突いて、歩いてくる。
そこまで大きな事務所ではないので、男が笹森の対面のソファーに腰かけるまで、さほどの時間はかからない。
「探索者と呼ばれるバケモノたちには、せいぜい気分よく仕事をしてもらわねば困るのです。今回、貴方たちは見過ごせないレベルで探索者やその支援者たちの機嫌を損ねました。さて、それではどうすればいい? どうするのがいいと思います?」
「……謝罪を……しろ、と……?」
「ははは。いやはや、議員さんは冗談が上手い。貴方がどんなに頭を下げたところで、本心ではないことくらい小学生にも伝わりますよ。そんな状況では既にありません。恐ろしくなって端末の電源は切っているのでしょう? 家族からの連絡も、秘書からの連絡も、事務員からの連絡も、なにも聞きたくない――そうでしょう?」
「……私に、どうしろというのだ……?」
「貴方たち議員やら首長やらが、要らないと思われると困るのですよ。なんだ、あんなもの必要ないじゃないか。結局は人の金を持っていって私腹を肥やすだけ、ろくな仕事もしないでサラリーマンの平均年収以上もらいやがって……探索者にやらせた方がいいじゃないか――そんな日本になると、困るんですね」
言って、男はスーツの内側へ手を差し込み、取り出したなにかをテーブルの上、ロックグラスの隣に置いた。
ほんの小さな、黒い石だ。
親指よりもまだ小さい。手で握ればすっかり隠れるような。
「一旦、ぐちゃぐちゃにしてしまいましょう。めちゃくちゃになった後、必ず必要になります。自治体の力、市長の決断、議員の支援、後援会の協力……あるいは自衛隊の出動。必要なんですよ、我が国には。もちろん探索者だって必要だ。どちらも必要で――だから必要だと示しましょう。笹森議員」
「なにを……」
「S市のダンジョンは繋がっている。貴方が認識しているかは知りませんが、現在、例の『アンセム』が変異したカミオカダンジョンを探索中です。なんと市の協力を拒んで、迷宮庁から直接許可と協力を取り付けたそうです」
困ったものですねぇ、と笑う男の――顔が笑っていない。
どんな表情も、浮かべていない。
男は言う。
「その石は『迷宮』を消滅させる石です。資源価値のある『迷宮』をわざわざ消滅させる者などあまりいませんが、現在、日本政府が把握しているだけでも世界中に三十一個は存在しているはずです。使い方は簡単、迷宮の外から入口に放り投げるだけ。実際にいくつかの迷宮の消滅が確認されています」
「『迷宮』が……消える? 消えたら……どうなる? あの小娘たちは……?」
「ああ、彼女たちは単に消滅した迷宮から弾き出されるだけです。石の投入から迷宮の消滅までは多少のラグがあるので、さっさと逃げることをオススメしますよ」
「だ、だから……カミオカダンジョンを、消したら……どうなるのだ? それでなにがぐちゃぐちゃになる? 自治体がどうしたというのだ?」
「S市の迷宮は繋がっていると言ったでしょう。スガイダンジョン、カミオカダンジョン、そして市街地にあるノウミダンジョン。みっつの中心にあるカミオカダンジョンが消滅すれば、当然カミオカダンジョンにあったはずのものが、残りふたつに流入するでしょう。これは前例があるので、ほぼ確実です」
「りゅうにゅうする?」
間抜けのように繰り返す笹森に、男は鷹揚な首肯を返す。
それでいいのだ、とでもいうような。
「おそらく変異後のカミオカダンジョンはA級、もしくはS級相当の迷宮になっているはずです。その迷宮に内在している『ナニカ』が、D級のスガイダンジョンとC級のノウミダンジョンに流入したとすれば――当然、内圧はひどいことになる。おそらくは耐えられない。耐えられないのであれば、どうなりますか?」
「……外に……?」
放置され続けた迷宮が迎える結末。
それと同じことが――S市内で起きる?
「ぐちゃぐちゃにしましょう。『
口の端を吊り上げて、男は言う。
なのに、笑っているようには見えなかった。
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