第十四話
佐渡山浩二はスーツの内ポケットから煙草を取り出し、火を着けた。
重みのある紫煙が肺を侵し、不健康と引き換えに佐渡山の脳を鈍らせてくれる。正義感だとか、常識だとか、倫理だとか。どうにもならないやるせなさが、タールとニコチンによって誤魔化されていく感覚。
ふぅ、と紫煙を吐いて空を見上げれば、嫌味なくらいの晴天。
十年前の自分は、朝から煙草を吸って晴れた空に恨めしさを感じるなんて未来を想像していただろうか。賭けてもいいが、自分にそのような将来が訪れるだなんて、二十五歳のときの佐渡山浩二は心の片隅にも思っていなかった。
苦笑交じりに油っぽい頭をがしがしと掻き回し、また紫煙を吐く。
「あっ、いましたね。屋上は禁煙ですよ、佐渡山先輩」
屋上へ続く分厚い鉄扉を軽く開いて現れたのは、A級探索者クラン『アンセム』のマネージャーの一人、
十年前は佐渡山と同じクランで探索者をしていた少女が、今はパリッとしたパンツスーツを着こなしたデキる女になっているのは、なかなか感慨深い。
「禁煙もなにも、屋上は立ち入り禁止だよ、菜々美ちゃん」
「そんな場所に人を呼びつけて吐き出す科白じゃないですよ」
呆れたふうに眉尻を下げる菜々美の表情には、昔の面影があまり感じられなかった。ひたすらに迷宮の魔物を殺していた少女は、今はまともな社会人になっている。
もちろん菜々美から見た佐渡山も、昔の面影など探す方が難しいはずだ。
しかし、別に構わない。
互いの過去を懐かしむために呼び出したわけではないからだ。
「このホテル、迷宮課でよく使うんですか? 探索者を招き慣れている、って感じがしましたよ。地方都市にしては」
「まあね。今回の『アンセム』みたいなA級をお招きするのは珍しいが、市内の迷宮のバランスを考えて、ちょくちょく余所から呼びつけてるから」
「昔のコネですか」
「それもある。市長と市議会には嫌がられるけど、迷宮庁の予算編成は市と無関係だからね。迷宮産出物のことを考えれば狂喜乱舞していいくらいなんだが、どうにも、老人ってのは頭がカチコチでいらっしゃる。ちなみに『アンセム』の招致に関しては俺の主導じゃなくて、県議の主導だよ。A級の探索者なんて、こんな町じゃあとてもじゃないけど役不足だ」
「おおー……あの先輩が、立派な公務員じゃないですか」
「菜々美ちゃんこそ。『アンセム』の活動は政策の一環だろ。例の迷宮適正者からさらに選抜した探索者のエリート……そのマネージャーとなれば、国家公務員だろ」
「結構な出世でしょ。地方公務員の先輩より、たぶんいい給料もらってますよ」
「そいつは羨ましいこった」
苦笑を洩らし、また紫煙を吸って、吐き出した。フィルターぎりぎりまで灰の迫った煙草を指先で潰し、火魔法で文字通りに消し炭にしてしまう。
ふっ、と煙草だったものを風に流してやれば、かつての後輩に真剣な眼差しを向けられている。かつての殺気は薄れているが、むしろずっと本気を感じた。
十年前は死ぬ気でやってそれで死んでしまっても、構わなかった。
今は違う。極めて真剣に取り組まなければ、自分ではない人間を――それも、自分よりもずっと年下の後輩を――殺すことになる。
大人になった。それも、思っていたよりも、ちょっとまともな大人に。
「先輩。今回のカミオカダンジョンの変異、兆候がなかったとは言わせません。恵美たちが死ななかったのは、本当に奇跡みたいな偶然です」
「ああ――そうだな」
「見た感じ、徹夜ですよね? どういう段取りを組んだんですか?」
てっきり向けられるだろうと思っていた敵意はなく、話を進めることを優先してくれた菜々美に、佐渡山は素直に驚いてしまった。
「なんですか、先輩。昔みたいに刀でも向けた方がよかったですか?」
「そこで言葉が出るだけ、本当に大人になったよ、菜々美ちゃん」
「それはどうも。で、段取りについては?」
「午後一時に県庁の会議室を抑えた。今は……午前八時か。じゃあ十五分もしたら『アンセム』にも連絡が行くはずだ。S市の市議会議員と市長、それに『アンセム』の招致を推してきた県会議員、迷宮庁の職員を俺以外に一人、呼びつけておいた」
「カミオカダンジョンから『アンセム』を救出して、休みなしで動いてくれたんですね。刀を向けるのは、やめておきましょう」
「そりゃあ、助かったね」
へらへらと笑って、佐渡山はまたスーツの内ポケットから煙草を取り出し、魔法で火を着け、紫煙を吸い込んだ。
脳が鈍る。
まともな人間でいると我慢できなくなるような様々なものたちが、ほんのわずかだけ遠くへ行ってくれる。
「お偉いさんってのは、自分が偉いことに慣れちまうんだろうな。これは個人的な意見だが、ここみたいな田舎であろうが東京であろうが、お山の大将の精神性は、そんなに変わらないよ。菜々美ちゃんも知ってるだろうけどさ」
「迷宮庁の職員を殴り殺そうとした人が言うと説得力がありますね」
「若気の至りってやつさ。今では冴えない地方公務員のおっさんだ」
「先輩。今回、私たちは容赦しませんよ。これで××県の迷宮関係者がどうなろうとも、私たちの知ったことではありません」
あまりにも真っ直ぐな、かつての後輩の眼差し。
佐渡山は紫煙を吐き出し、大仰に肩を竦めて笑った。
「構うもんか。高い位置で他人の手が届かないと思い込んでるから、ああやって偉そうにできるんだ。盛大にバッシングされりゃいい。実務は連中がいなくても回る」
「そう聞くと、なんだか先輩に利用されているような気になりますが」
「それこそ『まさか』だ。若い子の命を生贄に政治の浄化なんか、考えてもいないよ。菜々美ちゃん、俺はね、目の届く場所にいるやつらが、毎日を精一杯生きている――その手伝いが、ちょっとできればいいのさ」
「先輩……おっさんになったんですね」
目を丸くして驚きを表明するかつての後輩に、佐渡山は苦笑するしかなかった。
「三十五だぜ? そりゃあ、おっさんだよ。それより、不確定要素があるのは理解してる? 彼らにも権利があるから、呼ぶつもりでいるぜ?」
「『竜殺しの女剣士』と『現場ニキ』ですか」
「……え、なにそれ」
「SNSくらい確認してくださいよ。……って言っても、私みたいに配信活動のサポートをしてるわけじゃないなら、仕方ないかも知れませんね」
佐渡山は頻繁にSNSの確認をする習慣がない。探索者の中には配信活動をしている者がいて、迷宮探索配信が昨今の娯楽のひとつになっているのは知っているが、プライベートでまで迷宮について考えていたくはない。
「『現場ニキ』ってのは……早坂くん、か。作業着姿ではあったけどさぁ」
「知り合いなんですか?」
「カミオカダンジョンの近くにスガイダンジョンってD級の迷宮があるんだけど、あまりにも人気がなくて『掃除屋』が必要になった。早坂くんは三年前からスガイダンジョンで掃除屋をしている。ちょっと不憫な子でさ、気にはしてたんだ」
「『掃除屋』って、探索者免許を発行されなかった人がやるような仕事ですよね。魔力適応が規定値に満たないっていう……それが、どうしてカミオカダンジョンの下層側から現れて、ボスを倒したんですか?」
「さぁ? 聞いてないから、知らないよ」
「どうして聞いてないんですか」
「怖かったから」
端的な佐渡山の解答に、菜々美が息を呑むのが判った。さすがに元B級探索者だけあって、言葉の意味が判ったのだろう。
早坂透が連れていた『竜殺しの女剣士』――アレは、別格だ。
元A級の佐渡山であっても、全く底が知れないほどの強者。隔絶して強い、ということくらいしか判らなかった。
うっかり話しかけて彼女の地雷を踏むようなことは、絶対にしたくない。彼女を怒らせてしまった場合の責任など、絶対に取りたくない。
「……先輩がそこまで言うほど、ですか」
「『アンセム』のメンバーだって似たような証言をしてるんじゃないの? 俺は後から駆けつけただけで、実際に目の当たりにしたわけじゃない。でも彼女たちは、女剣士の戦いを目撃してたはずだ」
「……あの子たち、あのときは混乱の極致でしたから。それに才能がありすぎるせいで、ああいう窮地に弱いんですよ。恵美も千鶴も、あの状況での主観はあまりアテにならないって自分で言ってましたから」
「その自覚があるだけでも大したもんだけどねぇ」
「先輩が恐れるほどの人を、呼びつけるわけですよね。だからといって私たちは遠慮するつもりはありませんけど――結果の責任は、誰が取るんです?」
「責任を取るのは責任者だって決まってる。責任者が責任を取ってる場面はあんまり見たことがないが……今回は、取らざるをえなくなるさ。たぶんね」
ふっ、と笑ってみせれば、菜々美の眼差しが細められた。警戒、軽蔑、それと……同情、だろうか。お互い大人になったが、違う道を辿って大人になったのだ。
それを悪いとは、佐渡山は思わない。
「たぶん、迷惑をかけると思いますが……私、謝りませんから」
別れの挨拶も告げずに踵を返す浜松菜々美の、昔の面影とはあまり重ならないその背中に、佐渡山は紫煙を吸い込んで吐き出してから、声をかける。
「菜々美ちゃん。早坂透くんは、悪いやつじゃない。少なくとも、十年前の俺たちよりは、ずっとまともな、筋の通った子だよ」
だから、いいように利用してくれるな。
というのは祈りにも似たささやかな願いだったが、無信心な佐渡山の祈りなど、どんな神仏であろうが受け取りはしないだろう。
もちろん、菜々美も返事はしなかった。
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