3.白霞の森②

 あれだけ煩わしく騒いでいた『戯れる少女達』の声が小鳥のさえずりくらいの大きさになった頃、アルマスはぽっかりと開けた場所に辿り着いていた。霧に満ちた森の中にあって広々とした空間は、そこだけ霧が薄れており一見して『森の広場』とも言うべき景観をしているが安易に足を踏み入れるのは躊躇ってしまう。


 ぽっかりと、と言ってもそこだけ不思議と木々が生えていないのではなく、その場所にある樹木が何かによりなぎ倒され、圧倒的な力で無理矢理へし折られていたのだ。


「見るからに怪しいよね、あれ」


 アルマスの視線は自然と空間の中央へと向かう。そこには一本のとんでもなく巨大な古木が生えていた。大人の男が5人いたとしてやっとその太い幹を囲むことができるかどうかというくらいにはその古木は太く、大きかった。


「こういうときは大抵『巨木の翁トレント』か『絡み茨の猿人トロール』と決まってる気がするけど」


 広場に入り込まないように慎重を期して距離を取りながら、アルマスは雑多に木々が倒れ込んでいる広場の縁に沿って移動し様子を見る。


「『動物系』である可能性も否定できないしな」


 どうしたものかと思考しながら、ぐるぐると広場の周囲を歩く。もう既に『戯れる少女達』の気配はないが、あの妖精達の感覚に従うのであればこの広場を通った向こう側がアルマスの目的地に続いているみたいだった。なにも考えずに広場を突っ切ってしまえば早いのだがどうにもきな臭い。あわよくばこの危なそうな空間を避けて進みたいと考えていたアルマスの足が止まる。


「そりゃそうか。これですんなりいけたらこの場所の意味がないか」


 アルマスの目の前にあるのは濃霧を通り超して、もはや白い壁と表現した方がいいような凄まじい密度の白霞。


 広場を迂回しようとした途中から、ある地点を境に現れた霧の壁の向こう側は試しに入り込んでみると今までとは別次元に思えるほどまるで視界が効かない。それこそ目を閉じているのと大差ない状況にアルマスは早々に引き返した。


 手探りで無理にでも進もうと思えばできなくはないが、それは命を捨てるに等しい愚行だ。


 森の中の危険はなにも妖精だけではなく、崖や底なし沼は言うに及ばず、ちょっとした地面の凹凸で足を踏み外したり、倒木などの障害物にぶつかるだけでも運が悪ければ大怪我につながる。なんとか周囲の把握ができる程度ならまだしもまったく認識すらできない状況下で闇雲に歩き回るのはリスクが高すぎた。


 おそらく森の深奥に近づいているのだと思う。言うなればこの広場は魔女の住処に続く関所といったところか。


 どうやら先ほどの怪しげな広場を通り抜けて先に進む以外に方法はなさそうであった。


 アルマスは広場の中央にそびえ立つ大樹を再び見やった。

 樹の種類は定かではないが、トウヒばかり生えているこの森において珍しい広葉樹は春先になったばかりのはずなのに光加減で黒くも見える深い緑の葉をあらんばかりに茂らせている。ぼこぼこと堅そうな節の目立つ何本もの枝も、幹ほどではなくともそこらの針葉樹の太さなど優に凌駕していた。


 この樹自体が妖精の類でなくても、魔女の手が入っているか強力な妖精の影響を受けているかのどちらかは明かである。


 胡乱げに樹を眺めていたアルマスは一つ息を吐く。


「しょうがないな。待ってても何も起こりそうにないし、まずは動くとしようか」


 アルマスはとりあえずとばかりに開けた広場の中に無造作に足を踏み入れた。さてどんな反応があるかなと様子を伺っていたアルマスに対し、予想に反して何かが起きる気配はしない。肩透かしを食らった気分になるアルマスだが油断はしない。気を抜いた瞬間にここが死地になることはわかりきっている。


 じっとりとした嫌な汗が纏わり付くのをなるべく気にしないようにしながら、いつも通りの気楽さを心がけて足を進める。軽快な足取りでちょうど広場の半ばまで来た途端、身体中の臓腑が締め上げられる言いようのない感覚がアルマスを襲う。思わず込み上げる吐き気を無理矢理抑え付け、膝を着かずに済んだのは上出来であった。


 一拍の間をおいて理解する。突然巨木の幹に浮かび上がった皺だらけの老顔が、その醜悪な見た目に相応しい聞くに堪えない悲鳴を発したのだ。


「やっぱり『巨木の翁トレント』か。これまたゴツいのがいるもんだ。まっ、この感じだと多分門番ってとこだろうね」


 地面が揺れ動いていることを錯覚させる高低入り交じる雄叫びに冷や汗を流しつつ、アルマスはそれでも口角を上げて見せた。


 倒せと言われれば迷わず首を横に振る。魔女ならぬ只人であるアルマスには妖精を力尽くでどうこうするなど無理な話だ。


 しかし、別にどこぞの怪物退治の英雄譚のように倒す必要はないのだ。どうにか彼の妖精を出し抜いて広場を素通りさせてもらえればいいだけ。そう考えれば少しは肩に入った力も抜けてくる。


「ひとまずアレの出方を見たいところだな。―――やばっ」


 叫び終えた『巨木の翁』はそれでも苦しげなうめき声を漏らしながらその太い枝を腕のように持ち上げる。ミシミシと生々しい音を響かせながらしなる枝は膨大な数の葉をまき散らしながら頭上から振り下ろされる。


 慌てて後退するアルマスはギリギリ範囲内から逃れた。先ほどまでアルマスが立っていた場所は地響きと共に巨大な枝の腕に叩き潰されている。余りの勢いに大枝は雪の地面に深くめり込み、白い煙のように粉雪が舞い上がった。


 一撃でも当たれば死ぬ。そうでなくても掠っただけでも死にかねない。


 その事実が実感を纏ってアルマスの脳裏に過ぎる。それと同時に冷静な思考の中で枝が届く距離の限界があることに気付く。


 『巨木の翁』が持つ枝の腕は恐ろしい破壊力を持ち、それが何本も襲いかかってくるとなれば紛れもなく脅威だ。しかし、当たらなければどうということもない。


 恐怖に狂って突撃なんて馬鹿な真似をせず、落ち着いて対処をすることができればまだ怪我を覚悟する段階ですらない。


 最も簡単な手段として思いつくのは、地面に根を張った相手が動けないのを利用すること。すなわち枝の腕が届かないギリギリの距離を見極めて広場の出口まで近づいていけばいいのだが―――。


「やっぱ無理か」


 『巨木の翁』が生えているのは完全に広場の中央というわけではなく、『巨木の翁』の背面側にある広場の出口に少し寄っているらしい。


 広場の端を通るようにして半分以上進んできたが、これ以上出口に近づくためには荒れ狂う枝の嵐の中をくぐり抜ける必要がある。


 どれだけ枝を振り回しても一向に当たる気配のないアルマスに業を煮やしたのか、『巨木の翁』は一層乱暴に枝を地面に叩き付けてアルマスに向けて呪詛のごときうめき声をわめいている。


「うーん、どうしようか」


 このまま放っておいて『巨木の翁』が疲れたり飽きたりするのを待つのも手ではある。


 正直、良い方法とは思えない。そもそも妖精でも疲れるのかとか、これだけ執着をしているアルマスへの興味を失ってくれるのかという点が不確かだ。


「まずは無難に行こうか。錬金術師らしく、ね」

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