第15話 春の残香 ―そしてライラックの香る日―

◆朝、風の色が変わる


 封緘から三日。

 学院の空は、ほんの少しだけ春の匂いを含んでいた。潮の香りに白い花粉の甘さが混じり、風は冬の硬さを忘れたみたいに、角を丸くして校舎の壁を撫でていく。

 屋根の上で鳥が跳ね、羽音が屋根瓦を走る。金属の水切りに当たって澄んだ音が鳴った。音が、もう怖くない――その事実が、最初のご褒美のように胸を温める。


 ノエルは朝の光を浴びながら温室へ向かった。石畳には昨夜の雨が残し忘れた雫が点々と置かれ、靴の先でぱちりと割れるたび、空がもう一度映っては消える。

 温室の扉は、封緘印の上を白い布でやさしく覆われていた。布は風にゆっくり膨らみ、ため息みたいに戻る。扉を押すと、油に馴染んだ蝶番が短く鳴き、その後は静かに従った。


 内部は、以前よりも明るかった。封緘符の淡光が消え、代わりに朝の光がガラスいっぱいに広がっている。白百合が規則正しく並び、花弁の縁は淡い金を帯びていた。

 黒百合は、いない。けれど、存在の痕はまだある。通路の角、基礎石の目地。指を滑らせると、そこだけ温度がほんの少し高い。

 ノエルは屈んで、掌を温かい石にそっと置いた。

 「……おはよう」

 声は誰にも届かない。それでも、胸骨の裏側で“今”が小さく鳴って、返事の代わりになった。



◆温室の片づけ:新しい根


「残留符、あと三枚」

 エリナの声が、鉛筆の芯みたいに細く固い音で空気を切った。白衣ではなく作業用の簡素な上着に袖を通している。袖口には墨がひとすじ。癖のような汚れは、彼女の落ち着きをむしろ強く見せた。


 脚立の上で陽翔が片手を高く伸ばし、ガラスの桟に半分残った封緘符をつまむ。

 「よっと……! 貼るより剝がすほうが楽しいな!」

 埃っぽい笑顔。指先で外れた符は、陽に透かすと薄い羽のようだった。

 「それは、終わった人の特権だ」

 ローザは鞘に収めた剣を背に、紐で束ねた古い符をまとめて箱へ落とす。音は軽いのに、箱の底だけが重そうに鳴る。


 ノエルは温室の奥、黒百合の根があった場所にしゃがみ込んだ。指を差し入れると、土は想像よりも柔らかく、乾きと湿りの境界が呼吸のように指先を押し返す。

 小さな鉢から、青紫の苗を取り出す。葉の縁には細かい毛が光り、まだ頼りない茎がふるりと震えた。

 「……ライラック」

 言葉が苗を支える支柱みたいに、静かに根元へ差し込まれる。

 母の庭にもあった花。香りはまだ薄く、空気の中の色のない場所に、ごく淡い紫の影だけを落とす。


「咲くかな」

 陽翔が脚立から降りながら言う。

 「咲くよ。たぶん、ゆっくり。――ゆっくりなのは、いいこと」

 ノエルは土をかぶせ、指の腹で小さく押さえ、掌で輪を作って苗の周囲に空気の空間を残した。

 エリナが覗き込み、真顔のまま頷く。

 「統計上、見守りの密度と開花の速度には相関がある」

 「どこの統計だよ」

 陽翔の突っ込みに、エリナは肩だけ笑った。


 ローザが水差しを持ってきて、ノエルに渡す。

 「たっぷりやるな。根が呼吸できなくなる」

 「うん。――“今”で」

 ノエルは胸の内と同じテンポで水を落とした。一拍で待ち、二拍目で少しだけ足す。水の線は糸のように真っ直ぐ、土に吸われて消えた。



◆学院中庭:静かな修復


 昼前、鐘が二つ鳴る。中庭では、各年次ごとに分かれて修復作業が進んでいた。割れたガラスは端から新聞紙で巻かれ、木箱に並べられていく。枝が折れた樹は布で包帯を巻かれて支柱に固定され、土には新しい苗が点々と置かれた。

 誰も泣いていない。誰も英雄の名を叫ばない。労働が沈黙のまま続くその光景が、どんな華やかな祝賀よりも心を強く、静かにさせた。


 ノエルたちは中庭の端で、倒れた鉢の破片を拾い集める。割れ口の鋭さは残酷なほど正直だが、角を合わせれば形は戻る。

 「ボンド、もう一本」

 エリナの声に、陽翔が駆け足で取りに行く。

 「俺さ、“冗談ノート”作るわ」

 「また突然だな」

 「言わなかった冗談だけを書く。――読むのは俺だけ」

 「誰も読めないノートね」エリナは眉を上げる。

 「うん。読まれないほうが、ちゃんと笑える気がする。冗談って、口に出した瞬間、古くなるだろ?」

 エリナは破片を合わせながら小さく笑った。

 「それ、研究論文より健全ね。腐らない」


 ローザは向こう側で、中腰の一年生の背を掌で支えて姿勢を直している。

 「腰。――そこ」

 「はいっ……!」

 「力は抜く。抜くほど、持てる」

 短い言葉の余白に、教わる側の呼吸が乗る。抜き方を覚えるのも、技の一部だった。


 ノエルは、接着した鉢の継ぎ目に指を置いた。滑らかな段差。触れているうちに、段差は段差でなくなる。手の温度で、違いは違いのまま落ち着いていく。

 (戻るって、たぶん、こういうこと)

 忘れることじゃない。見えなくすることでもない。

 見えるまま、触れて、置いておく。



◆午後講義:記録としての余白


 午後の短縮講義は、研究局の講堂で行われた。灰衣の学匠が黒板の端に小さく書く。

 “楽と守る”。

 昨日と同じ言葉でも、今日のチョークは乾いていて、線の角が立っている。


「楽は悪ではない。だが『忘れて楽になる』は守ると両立しない」

 学匠はチョークを置き、教壇から降りて、最前列の机に手を置いた。

「君たちは“戻す”を覚えた。――それは、記録の仕方にも影響する」

 エリナが素早く手を挙げる。

 「主観の扱いを、もう一度確認したいです」

 「主観は否定するな。だが、主観に居場所を与えるな。外に置け。ノートの余白は、そのためにある」

 ノエルはノートの端に小さな丸を描いた。丸は風船みたいに少し膨らんで、すぐに落ち着く。

 “今”。と書き足す。

 (余白に置いた“今”は、明日も“今”だ。――それでいい)



◆放課後:藤棚の下の誓い


 夕方の光が藤棚の房を通り、地面に紫の影の斑点を落とした。斑点は風で動き、四人の靴に柔らかく重なる。

 手を重ねる高さも、いつの間にか決まっていた。胸と腹の間、人の中心に近いところ。体の真ん中で交わした約束は、忘れにくい。


 「“今”」

 四つの声が重なり、藤棚の影が一度だけ細かく震える。

 ノエルは、握った手の温度と脈の位置を確かめてから言った。

 「私ね、この学院を卒業しても、“送り”の仕事をしたい」

 「研究局に?」陽翔。

「ううん、もっと外。――まだ“出迎え”のままの場所が、きっとあるから」

 ローザが頷く。

 「戻る道を知っている者は、行く資格がある」

 「なら俺は帰り道専門でついてく。方向音痴だから」

 「その言い訳、便利すぎる」エリナが笑った。

 笑いは、約束の端を柔らかくする。固く結びすぎないほうが、長持ちする。



◆夜:母への手紙


 寮の部屋。窓の外で風が布を軽く叩き、鈴のない鈴が鳴る。

 ノエルは机に紙を置き、インク壺の蓋を開けた。香りが夜にほどける。


お母さんへ。

黒百合は眠りました。

封緘のあと、私はそこにライラックを植えました。

あの庭にあったのと同じ香りです。

“送り”は難しいけれど、もう怖くありません。

私たちは“今”を覚えました。

だから、もう大丈夫。

いつか、また春が来たら――そのときはきっと、笑って報告します。


 万年筆の先を布で拭い、紙を二つ折りにする。封はしない。

 出さないことで、言葉はいつでも“届く途中”にいられる。

 途中のままの言葉は、たぶん、いちばん長く呼吸する。



◆夢:白い風の中で


 眠りは、やわらかい湖みたいに静かだった。

 白い風が吹く。温室の通路。白百合は眠り、黒は“いるが、来ない”。

 母が立っている。夢に出てくる人は輪郭が曖昧なはずなのに、今夜の彼女は現在形の硬さでそこにいた。


「ノエル」

「……はい」

「今日は、送りをしたね」

「うん。少しだけ、怖くなかった」

「それでいい。送りは『短い言葉』で足りる」

「“今”」

「ええ。“今”。――それだけ」


 “今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。

 母は出迎えない。出迎えないから、ここにいられる。

 白い風が一度吹いて、母の姿は花弁の裏側に回り、やがて光の方へ戻っていった。

 “消える”ではなく、“戻る”。

 それは、悲しみの練習ではない。呼吸の練習だ。



◆朝:ライラックの花開く


 鐘が三つ鳴る前。

 温室に行くと、ライラックが一輪、咲いていた。

 開いたばかりの花弁は、薄紙のように柔らかい。紫は軽く、朝の光で透ける。

 ノエルは胸に手を当て、“今”を置いた。

 二拍。戻す。

 香りはまだ控えめ。でも、確かに春の匂いが混じっていた。


 外で鐘が鳴る。

 学院の日常が、音で戻ってくる。

 戦いは終わり、物語は続く。

 ライラックの香りは、通路を抜け、藤棚をくぐり、誰かの髪にやさしく絡まりながら、校庭の端まで流れていった。



◆六月、風がやさしい朝(半年後)


 春が通り過ぎ、丘に夏の光が降り始める。

 それでも温室のあたりには、まだライラックの香りが残っていた。香りは季節の境目を記録する。潮と土と、教室を出入りする靴の粉じんと混じり合って、学院の匂いになる。

 封緘から半年。校舎の壁には新しい蔦が這い、剥がれかけた漆喰は塗り直され、見た目よりも内部の梁がしっかりしてきた。

 生徒たちの笑い声、板張りの床を走る足音、遠くの港から届く金属音。

 どの音も、もう“こちら側”の音だった。


 ノエルは朝の光の中で深呼吸し、胸の銀を指先で叩く。

 “今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。

 このリズムはもう、儀式ではなく生活になっていた。

 呼吸と歩幅と、言葉を選ぶ間合い。すべてが“今”の面に並ぶ。



◆再会:四人の「今」


 中央庭の噴水のほとりに、三つの影が集まっていた。噴水の水柱は高さを抑え、朝の光を粒にして飛ばす。風で飛沫が頬に当たると、夏の匂いが少し近づく。

 陽翔は輪を小さく転がして、噴水の縁で止めた。

 「半年ぶりだぞ!」

 エリナは相変わらず手帳を片手に、噴水の水面に落ちた波紋の周期を数えている。

 「波紋の干渉、去年より素直」

 「人の再会に対しての感想が物理なの、変わんないな」

 ローザは剣を持たない。髪は少し短く、背筋は前よりも柔らかく見えた。

 「音のない場所に帰るのは、たまに難しい」

 「難しいときは?」

 「“今”だ」

 ローザの“今”は、言葉より早く、首の角度で鳴る。


 ノエルが歩み寄ると、三人の視線が同じ高さで止まり、笑いが同じ深さで揃った。

 陽翔が胸を張る。

 「俺さ、“空白ノート”ちゃんと書いてるぞ!」

 「書いてる……って、読めないんでしょう?」

「うん。でも開くと、ページが勝手に笑ってる気がするんだよ。何も書いてないページが、一番面白い」

 エリナが微笑む。

 「未記入のデータは可能性を保存する。――それ、ほんとに研究に使える」

 ローザは空を見上げた。

 「冗談を残さない勇気。それも“送り”だ」



◆学院の丘:風の向こう側


 四人は丘を登った。

 かつて黒百合が眠った温室は、透明な硝子の屋根に取り替えられている。梁は洗われ、金具は磨かれ、ガラスは海の方角の淡い青を受け止めた。中には紫のライラックが、以前より数を増やして咲いていた。


 「この香り、懐かしいね」

 「でも、あのときとは違う。悲しくない」

 ノエルは小さく笑った。母の声はもう聞こえない。けれど、香りの中に“送りの後”の温度がある。

 ローザが手袋を外して土に触れる。

 「乾きすぎていない。夜の見回りがいい仕事をしている」

 「森の呼吸も正常。封緘符、異常なし」

 エリナが短く報告し、陽翔が空を指差す。

 「なあ、見ろよ。鳥が輪描いてる」

 真上で鳥が二羽、同じ半径で円を描き、合図みたいに反対にほどけた。

 四人の影が芝生で重なり、また離れて、どれもすぐに薄くなっていく。



◆進路の話:それぞれの道


 丘の上のベンチに腰掛ける。背もたれは陽に温められ、木目の節が小さく浮いていた。

 「ノエルはどうするの?」

 エリナが訊く。問い方には迷いがない。ただ、答えを置く場所だけがたっぷり準備されている。


 「旅に出る。まだ“出迎えたまま”の花が世界にはあるから」

 「送り屋だね」

 「そんなに肩肘張ったものじゃない。ただの園芸師だよ」

 陽翔が笑って手を挙げる。

「じゃあ俺、移動屋。土とか水とか、道具を運ぶ係。ついでに冗談も運ぶ」

 「冗談は軽い。落としても割れない」

 エリナがメモして、ローザが短く言う。

 「私も行く。剣は使わないで済むほうがいいが、使うときは“礼”で収める」

 ノエルは三人の顔を順に見て、胸の内で“今”を鳴らした。

 (大丈夫。――この手の温度なら、どこにいても戻れる)



◆学院という街:余白の修復


 午後は学院の外縁の街へ降りた。港に面した石畳は潮で少し白く、店々の看板は海風に削られて角が丸い。

 パン屋の前で、焼きたての匂いが歩く人の呼吸をふっと軽くする。

 花屋の軒先では、子供が水やりを手伝っている。ジョウロの口から太い線で水が出て、鉢の縁で跳ねる。

 ノエルは立ち止まり、花屋の店主に声をかけた。

 「すみません、ライラックの挿し穂、ありますか」

 「あるよ。今年のは少し細いが、根付きはいい」

 店主は腰を伸ばし、奥から包みを持ってきた。新聞紙に包まれた挿し穂の束は、湿り気を保ち、かすかに青い匂いがした。

 「ありがとう。――送り先が、いくつかあって」

 「送り?」

 ノエルは笑って、首を振る。

 「ただの、庭仕事です」


 港の方から子供の声がした。糸のついた小さな木の輪を投げ、友人と取り合いをしている。陽翔はそれに気づいて立ち止まり、腰を折って視線を合わせた。

 「それ、回すなら、風の向き見ろ」

 「おじさんだれ!」

 「お兄さんだ」

 「おにいさん!」

 笑い声が弾み、木の輪は空気を切って遠くまで飛んだ。



◆小さな依頼:閉じぬ門を閉じる


 街の外れにある古い礼拝堂に、薄く開きっぱなしの扉があった。

 金具の蝶番が錆びかけ、扉枠との間にほこりが少し積もっている。中は明るいが、人の気配は薄い。

 「ここ、夜に風が鳴くって苦情が出てる」

 エリナが通りの掲示板で見つけた小さな紙を差し出した。

 “夜、扉が勝手に開く音がする。眠りが浅くなる。どなたか”――震えた字。


 ノエルは扉に掌を当てた。木目は乾き、呼吸が浅い。金具の高さが微妙に合っていない。

 「扉、ですね」

 「門ではない?」ローザが訊く。

 「門だったもの、かな。――“出迎え”のほうに傾いてる」

 ノエルは胸で“今”を鳴らす。二拍。戻す。

 蝶番のすべりが一瞬だけ良くなり、扉は自重で数ミリ閉じた。

 陽翔が真鍮のビスを少し緩め、座金の位置を叩いて微調整する。

 エリナが隙間の埃を払って、薄い布を折りたたみ、噛ませた。

 ローザは扉全体を支える姿勢で、体重をゆっくりかける。

 音は鳴らない。

 “鳴らない”という情報が、周囲の空気にゆっくり広がった。

 「これで夜、眠れる」

 通りすがりの老人が、小さく会釈をして通り過ぎた。誰の功績でもない仕事。だけど、それがいい。



◆黄昏:藤棚のもう一度


 学院へ戻ると、黄昏が藤棚の房を朱に染めていた。花期はとうに終わっているのに、わずかに残る萼が金色の埃を抱き、風でほろりと落ちる。

 四人は自然に立ち止まり、何も言わずに手を重ねた。今日は声を出さなくてもいい気がした。

 けれど、ノエルはあえて言葉にする。

 「“今”」

 言葉が空気を通って、全員の胸で同じ響きになる。

 言葉はときに余計だが、ときに橋になる。いつでも渡れる橋を作るのは、怖がりなやり方かもしれない。

 でも、怖がりが世界を長持ちさせる日もある。



◆夜:旅支度


 寮の部屋に戻ると、机の上に小さな布袋が四つ並んでいた。

 ローザが用意したものだ。袋の口にはそれぞれの名の頭文字が縫い取られ、重さはほぼ同じ。

 中には、乾いたハーブ、短い蝋燭、薄いナイフ、麻紐、そして折りたたんだ白い布――封緘符の代わりに使える。

 「重さを揃えるのは、戻るときに役立つ」

 ローザが言うと、陽翔が袋を振って耳元で鳴らした。

 「音も同じだ。――バラバラに逃げても、この音がすれば合流できる」

 「逃げる前提は縁起が悪い」

 エリナが言ったが、口元は笑っていた。


 ノエルは引き出しから母への手紙を取り出し、もう一度読み直した。言葉は昨夜と同じ場所に同じ温度で並んでいる。

 「行ってきます、はまだ書かない」

 引き出しへ戻し、そっと閉じる。

 届く途中の言葉が、背中を軽くする。



◆旅立ちの朝


 港へ下る道は、いつもより白かった。朝の斜光で石畳が乾き、砂の粒がきらりと光る。

 船着き場の舫い綱には塩が白くこびりつき、海鳥が柵の上を順に歩く。船頭は短く会釈をし、片手で荷を示した。

 「西の半島まで。途中、二度寄港します」

 「お願いします」

 ノエルは帽子のつばを押さえ、仲間を見渡した。

 陽翔は荷の位置を整え、ロープを手早く結ぶ。

 エリナは航路図に目を落とし、筆で風向きの予測を記す。

 ローザは船縁に片手を置き、薄い塗装の剥げ方を指でなぞった。

 四人とも、同じ方向を見ているのに、違うものを見ている。その違いが、隊を丈夫にする。


 船が離岸する。水は意外と重たい音で船腹を叩いた。

 港の鈴が二度、短く鳴る。

 ノエルは胸に“今”を置いた。二拍。戻す。

 風が頬を撫で、藤棚の香りは遠ざかり、かわりに海の塩が近づく。

 島は小さくなる。けれど、それは「離れる」ではなく、「戻れる地点が増える」という感覚だった。



◆船上:送りの稽古


 甲板の上で、四人は軽く稽古をした。

 陽翔の輪は、船の揺れに合わせて足裏の中心を調整する。

 エリナは「出さない錯視」を、海と空の境目に対して試す。水平線は錯覚の王だ。出すのは容易い。出さないのが難しい。

ローザは剣を抜かない。抜かずに十歩を歩く。撤退→再構築。足だけで礼を完結させる。

 ノエルは胸骨の裏に幅を作り、“送り”の導線を短く、軽く、確かに結ぶ。

 甲板の影が伸びたり縮んだりするたび、四人の呼吸が揃う。

 「“今”」

 声にしない声が、海へ落ちた。



◆寄港地:小さな庭の出迎え


 最初の寄港地は、白い壁の小さな街だった。

 港のそばの古い庭園に、門があった。門扉は開いている。蝶番はよく磨かれ、音は良い。だが、門柱の片側だけが少し傾き、土台の石がずれている。

 「夜に“来い来い”の風が入る」

 案内の老人が苦笑いした。

 ノエルは門柱の根元に膝をつき、土を掘る。石の下には、細い根が絡まっていた。

 「この根が、門の向きを覚えさせてる」

 エリナが頷く。

 「記録され続ける“出迎え”。――上書きしましょう」


 陽翔が根を傷つけないように掘り、ローザが石を少し持ち上げ、ノエルが土を新しく詰め直す。

 「“今”」

 四人の声が重なり、門はほんのわずか、街の中ではなく街の外に向けて礼をした。

 送りの礼。

 風の向きが変わった。

 老人が目を細め、深々と頭を下げる。

 「ようやくだ。おかえり、って言わずに済む」

 言葉は短いけれど、重かった。受け止める側の腕が少し痺れるほどに。



◆二つ目の寄港:祈りの書庫


 二つ目の寄港地は、丘の上の修道院だった。石の書庫は冷たく、棚の間に風が流れない。

 司書は低い声で事情を説明した。

 「夜、書架の間でページが一斉に鳴る。誰も読んでいないのに」

 エリナが首を傾げる。

 「湿度と温度の差が同時に変化している。外気の呼吸が、書物の“前の読者”を呼ぶ」

 陽翔は窓の鎧戸を開閉して、すき間の角度を記録した。

 ローザは床の石を指で押し、音の抜ける場所を探す。

 ノエルは書架の端に立ち、掌を本の背に添えた。紙の束は生き物だ。束ねられた呼吸を、もう一度束ね直す。


 「“今”」

 囁きのような声が響き、ページは鳴らなくなった。

 司書は驚いたように瞬き、首を垂れる。

 「読みたいときに、また“こちら側”で開けるようになった」

 「はい。読むのは出迎えじゃない。招くことでもない。――戻ることです」

 ノエルの言葉に、書庫の空気が少しだけ暖かくなった。



◆帰港:島の輪郭


 船は島へ戻る。

 夕暮れの海に、学院の島の輪郭が浮かぶ。灯台の灯りが点り、藤棚の影が斜面に長く伸びる。

 甲板に立つ四人の影も、海面で縦に延びて、波で砕けた。


 「ただいま、って言っていいのかな」

 陽翔がぽつりとこぼす。

 「言っていい。言わなくても、いい」エリナが答える。

 ローザは短く、しかし珍しく言葉を足した。

 「言葉は送りにも出迎えにもなる。――“今”なら、どっちでもいい」


 ノエルは胸の銀を押さえ、島に向かって“今”を置いた。

 二拍で薄く、一拍半で戻す。

 島の空気が、それにうなずいた気がした。



◆学院の夜:ライラックの香る日


 夜。

 学院の空に光が一筋走った。流れ星かもしれないし、港の向こうの船灯りが揺れたのかもしれない。

 けれどノエルには、それが黒百合が眠る森の呼吸のように思えた。

 “悲しみ”が“記憶”に変わる音。

 風が温室を抜け、ライラックの香りが夜空へ溶けていく。香りは高く、軽く、遠くへ行ってから、ほんの少し戻ってくる。


 ノエルは寮の窓辺で目を閉じた。

 「おやすみ。……“今”」

 二拍。戻す。

 ライラックの花がゆらりと揺れ、

 学院の屋根の上で光がひとつ、静かに消えて、

 ――そして、戻った。

 戻る場所がある限り、春は終わらない。



◆エピローグ:ライラックの香る日(数か月後)


 その後の季節は、驚くほど正確に巡った。

 秋は透明、冬は静か、春は甘い。

 学院の温室のライラックは、年ごとに枝を増やし、花の房を深くした。

 ノエルは旅先から時折、挿し穂を送り、学院の裏庭には小さな苗床ができた。そこから街へ、街から港へ、港から別の島へ――香りは伝わる。


 エリナは研究局で“起きないことを起きないまま通過させる手法”の論文を書き、脚注に「実践者ノエル・藤咲らの記録」と記した。

 陽翔は「移動屋」として、土と道具と、ときどき冗談を運んだ。彼の冗談ノートは二冊目に入り、最初の一冊は表紙の角が丸くなっている。

 ローザは見回りの道で、剣を抜かずに済ませる確率を上げ続けた。抜かないために磨かれた所作は、美しかった。

 四人は季節ごとに島で再会し、藤棚の下で手を重ね、“今”を短く確かめ合う。言葉はそれで足りた。


 春のある日、温室の前を通りかかった新入生が、花の前で立ち止まった。

 「いい匂い……」

 彼女は誰にともなく言い、しばらく目を閉じていた。

 そこには、悲しみではなく、記憶の香りがあった。

 誰かが戻るために置いていった道しるべ。

 誰かが進むために受け取っていく、やさしい旗。


 ノエルは温室の陰からその背中を見て、胸の中で“今”を置いた。

 二拍。戻す。

 香りは、今日もたしかにこの島の空気に混ざっている。


春は終わらない。

誰かの手の中で、風の中で、いまも香っている。


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ライラック 桃神かぐら @Kaguramomokami

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