第14話 黒百合の開花
◆暁の前、呼吸を合わせない練習
鐘が鳴る前、学院の空は水を張った器みたいに澄んでいた。
風は弱く、潮の匂いだけが遠くからまっすぐに届く。
ノエルは鏡の前で襟を整え、胸の銀を軽く叩いた。合図は指先より先に胸の内で鳴る。
――“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。香りは追わない。
ロフトから陽翔が飛び降りるみたいに顔を出し、「おはよ!」といつもの声で笑う。
その笑顔が、今日ばかりは少しだけ“着替えて”見えた。頬の筋肉に緊張の影がある。でも、それを誤魔化さない笑顔だ。
「空、澄みすぎだな」
エリナが窓の外を一度見て、ノートを閉じる。
「澄むほど、音は歪む。記録用の式、短い版にして持っていく」
ローザは剣帯を締め直し、言葉を選ばない。
「食べろ。歩け。戻れ」
四人で短く手を重ねた。
「“今”」
声が重なり、胸の内の拍が正しい場所へ戻る。
ここからは、学院全域の呼吸と“合わせない”ことが、今日いちばんの仕事になる。
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◆屋上観測台:輪の重なりと黒い薄膜
観測台から見下ろす学院は、まるで楽器だった。屋根の上に幾重もの魔導輪が浮かび、青、銀、白の層が微細なズレを保ちながらゆっくり回る。
その最下層、地脈のすぐ上を黒い薄膜が走る。森の“呼吸”の末端。昨日、内層で感じた“今より一拍遅い”拍動の影が、ここまで伸びてきている。
「呼吸、早い」
エリナが投影板に波形を呼ぶ。
銀の波が三拍早く上下して、学院の輪は森の黒へ同調しようとしている。
「このまま同調したら?」
「学院全体が“ひとつの花”として咲く。――咲いたら終わり」
終わり、という言葉を、誰も重ねない。重さは分かっているので、増やさない。
司馬教官の声が通信符に乗って届く。
『全班。第一段階“音の停止”に合わせ、各自の“今”を基準に逆位相で待機。合わせるな、外せ。――始める』
ノエルは胸の銀に触れた。合図が小さく、確かな温度で先に鳴った。
“今”。二拍。戻す。
輪の重なりが、一瞬だけわずかに外れる。それは人の耳では捉えづらい偏差なのに、皮膚は確かに“ズレた”と告げてくれた。
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◆温室へ:封緘の喉がひらく音
地上へ降りると、温室のほうからひどく小さな軋みが届いた。
封緘の“喉”がひらくとき、音はふつう大きくはならない。むしろ、周囲の音を吸う。
通路を曲がるたび、一枚、また一枚と、世界から音が抜けていく。靴の底のゴムが石を噛む音まで、薄紙に包まれたみたいに遠い。
「来るぞ」
ローザの声は刃の背。切れないが、起きる。
陽翔が指を鳴らし、足元へ歩行追従輪を薄く敷いた。二歩先行・一重固定。二重衝動――“遅刻”は、言語化によって弱っている。
エリナは計測の式を三つに短縮し、出さない錯視の準備を済ませる。
ノエルは花弁を胸の内でひらき、友情の側を肩へ渡す線を一本、意識の真ん中に置いた。
温室の扉は封緘符で閉ざされている。けれど、中の空気の重みは扉の上からも横からも感じられた。
母の庭の朝に似た、正しい湿度。
でも、これは“こっちではないほう”の湿度だ。
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◆第一段階:音の停止(沈黙の輪)
合図。
世界から音が消えた。
鳥も風も、鐘の残響も、金属の擦れも。
聞こえないのではなく、聞かない状態に世界が遷移したのだと思う。
無音は敵ではない。音が無いという情報だ。
「中心、保つ」
エリナの声だけは届く。これは、こちら側の輪で選んだ音。
陽翔の輪が足裏の中心を教え、踵と爪先の重量配分を均す。
ノエルは胸骨の裏に“ゼロ点”の幅を広げる。戻り道の幅は、仲間を迷わせないための広さだ。
沈黙の中、封緘符が一枚、また一枚と逆向きに点滅し始めた。白が黒へ、黒が白へ、極性の針が揺れては定まらずに戻る。
世界は、まだこちらの側だ。まだ、“呼び”には応じていない。
そして――温室の奥で、花がひらく音がした。
花がひらく音は、ほんとうは音ではない。面積が増える感覚だ。
光の受け皿が増えると、空気の濃度が変わり、皮膚の上に“ひらいた”という事実だけが落ちる。
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◆開花:黒百合の第一花弁
ガラス越しに、黒い気配がゆっくり膨らむ。
黒百合――その第一花弁が、内側からほどける。
色としての黒ではない。名前のない濃度だ。
花弁の裏側には、逆再生される記憶が流れている。
誰かの母の笑い、教室でのざわめき、港の白い光。
温室は映画館ではないのに、壁という壁がスクリーンになっている。
「視覚、来る」
エリナが短く告げた。
「見るな」は命令としては弱い。“見ない”という行為は、言葉にすると行為そのものを想起してしまう。
だから、ノエルは別の言葉を選ぶ。
「送りの側で立って」
視線を花に“向けない”のではない。こちら側へ向け直すのだ。
胸の銀が熱を持つ。
ノエルは合図を叩く。
――“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。
花弁の光がほんの一瞬、白に裏返る。
その間に、陽翔の輪が足場の“中心”をさらに厚くし、エリナが出しかけた錯視を切る。ローザは剣の角度を調整し、礼の角度で空気を押さえる。
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◆第二段階:記憶の逆流(各人の断片)
花弁の二枚目が開く。
“逆流”は個別にやって来た。
陽翔の前に、港の欄干が現れる。昨日、言いかけて忘れた冗談の“空白”。そこに“穴熊”という名前がついて、空白は空白でなくなる。
「俺は忘れる。――残すために」
彼の輪がわずかに震え、すぐ戻る。震えは倒れないための道具だと、身体がもう知っている。
エリナの視界には、小さな黒板と白いチョーク。
“正解を書けなかった”子どもの自分が、机の下に視線を落としている。
エリナはペン先で空中に式を書き、出さない錯視のマークを重ねて、昔の自分の肩をそっと押す。
「記録。――主観は外に置く」
彼女は自分を叱らない。叱りたい衝動に名前を与えて、外へ置く。
ローザの前に、雨の庭。
誰かの足音。自分ではない剣の持ち方。
彼女は剣を抜かない。抜かないことで、距離を決める。
「撤退は礼。礼は速度」
その速さで、雨はただの雨に戻っていく。
ノエルの視界には、白い指が現れた。
“出迎え”の形をした優しさ。
(こっちは、庭じゃない)
胸の合図が彼女の意思より早く鳴る。
――“今”。戻す。
花弁の中の庭は、水蒸気になって、温室の空気に溶けた。
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◆第三段階:学院全域の同調—逆位相の布陣
封緘隊から報告が入る。
学院の輪の一部が、森の呼吸と同調し始めた。
同調は悪ではない。合奏の前提だ。
けれど、今日は交渉だ。距離を守らない合奏は、飲み込まれる。
司馬教官の声。
『全域、“逆位相”へ移行。ノエル班、温室で送りを開始しろ。――中心はお前たちの“今”だ』
中心がこちらにある。
ノエルは短く息を吐き、仲間の目を見る。
陽翔は「遅刻!」と自分の衝動を先に笑い、輪を一段深くする。
エリナは**“今”のテンポを板に同期させ、切替の合図を担う。
ローザは最後尾で撤退→再構築**の十歩を“剣先のない動き”で先に形作る。
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◆送り—第一連:呼びを“戻す”
“送り”は、なんでもかんでも遠ざけることではない。
来てしまったものを、元いた場所へ戻す技だ。
ノエルは胸骨の裏に一本、見えない“導線”を置いた。
母の庭から学院へ来てしまった季節、誰かの胸に残った甘い方角、森の陰から伸びる一拍遅い呼吸。
それらをこちらの側には留めず、“向こう側に帰す”路を、花弁の手触りでなぞる。
合図。
――“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。
友情の側を仲間の肩へ、短く、確かに。
温室の空気が一度だけ重さを落とし、黒百合の内側の光が白に瞬く。
来てしまったものが、歩いて帰るための光だ。
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◆送り—第二連:甘い方角と苦い方角
黒百合は抵抗しない。抗わないことが、いちばん強いと知っているかのように、ただ在る。
“甘い方角”が、ノエルの足首に絡む。
甘さは悪ではない。だが、守りと両立しない甘さがある。
「甘いほうへ行きたくなったら、苦いほうの音を探して」
エリナが小声で合図をくれる。
苦い音――木が擦れる、正しい摩擦の音。
ノエルはそちらへ耳を傾け、合図を重ねる。
――“今”。戻す。
甘い方角は遠のき、苦い音はただの木の音になる。
陽翔の輪が揺れ、彼は自分の胸を指でトンと叩いた。
「俺、今、“穴熊”から脱出。――空白、名前の中にいる」
名づけは、穴の縁に手すりを打つ行為だ。
ローザは短く言う。
「良し。前へ出るな。戻る足で立て」
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◆送り—第三連:母の声(出迎えない者)
花弁のさらに奥で、柔らかな影が微笑んだ。
母だ。
ただし、懐かしさの形をした囁きではない。
今日、夢で見たのと同じ、出迎えない者の立ち方で、そこにいる。
『ノエル。出迎えない。――送りだけをする』
胸の内で、合図が自動で鳴った。
ノエルはうなずく。
「送りは、言葉を短くする」
『ええ。“今”。それだけ』
彼女は花弁へ掌を近づけ、触れない距離で止めた。
触れないから、触れられない。
距離は礼、礼は速度。
呼吸は、こちらの側で続く。
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◆反転:黒百合が自分で閉じる音
封緘符が一枚、正しい向きで灯った。
続けて二枚、三枚。
温室の床に走る白い線が、黒を侵食するのではなく、黒の居場所をこちらから返すみたいに広がっていく。
黒百合の花弁がひとひら、静かに内側へ折れた。
破裂音はない。
静かな“閉じる音”だけが、空気の圧で胸に届いた。
学院の空に浮かんでいた輪が、ひとつずつ透明に薄まる。
森の呼吸は、まだ一拍遅い。
でも、こちらは合わせない。重ねて、戻す。
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◆横槍:校舎の影が伸びる(局所的な開口)
そのとき、温室の外から連絡が入った。
『第一校舎西、影の逆位相。――局所的な開口!』
学院は一枚板ではない。温室を中心に整えれば、薄いところは他へ逃げる。
司馬教官の指示が飛ぶ。
『ノエル班、温室は援護隊に引き継ぐ。西側へ移動、“送り”の移植を実施せよ』
走る。
陽翔の輪は一重固定のまま歩幅を小さくして、転ぶための隙間を先に潰す。
エリナは「出さない錯視」を出す/出さないの即時切替で廊下の角を安全化する。
ローザは最後尾で“撤退→再構築”の十歩を移動しながら回す。
ノエルは胸の合図を間欠で鳴らし、温室に置いてきた“送り”の揺り戻しが学院全体に広がらないよう、テンポを守る。
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◆西棟:影が“光に向かって”登る
階段踊り場の窓から差す光の方向へ、影が登っていた。
本来はありえない向き。
影は光から逃げるのではなく、光を飲みに来る。
「錯視、出しすぎるな」
エリナが先に釘を刺す。
錯視は刃物。切りたいときに切る。切れないときは出さない。
陽翔の輪が影の“足場”を先に埋め、ローザが「礼」の角度で壁と床の境界を平らにする。
ノエルは送りの導線を短く一本だけ、影の根本に重ねた。
――“今”。戻す。
影は影に戻り、光はただの光になった。
「次」
ローザの一言。
四人は息を乱さない。合図は小さく、速く。
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◆中庭:鳴らない鈴、いま鳴る
中庭に出ると、鈴が鳴った。
これまで“鳴らない音”だったそれが、一瞬だけ実音になった。
音の正体は、花粉が空中で擦れ合う微細な摩擦。
微細だから、心のほうが先に反応する。
「中心!」
エリナの一声に、陽翔の輪が膝から下の筋肉を同じ長さに保つ。
ノエルは“鳴った”事実に名前を与えない。
名づけは居場所を作る。居場所は門になる。
――“今”。戻す。
鈴は空気の粒子に戻り、風の線に混ざった。
⸻
◆講堂前:記憶の花畑(再来)
講堂前の広場に、透明の花が一面に咲いた。
温室と違って、花は人影の動きに合わせて咲く場所を変える。
ノエルは一輪に視線を落とし、送りの導線を“花の内側”に引いた。
花が映すのは、誰かの**“来なかった未来”。
放課後に交わされるはずだった笑い声、書かれることのないノートの欄外。
泣くのは簡単だ。
けれど、今日は戻す**。
涙は塩。塩は戻り道を錆びさせる。
――“今”。
二拍で薄く、一拍半で戻す。
花はゆっくりとたためられ, 空気は乾いた紙の匂いを取り戻した。
陽翔が小声で言う。
「“綺麗だから残したい”って言いかけた。……言わないほうが、守れる」
エリナが頷く。
「楽と守るは違う。――昨日、学匠が言った」
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◆温室:最終閉花(遠隔)
援護隊の符が明滅し、知らせが届く。
温室の黒百合、最終閉花。封緘符は正向。
森の拍動は一拍分、遠のいた。
遠のいたからといって、勝ったわけではない。
勝ち逃げの準備を整え、戻る。
ローザが短く、しかし珍しく言葉を足した。
「ありがとう。――走った」
それだけで十分だった。
ノエルは胸の銀に触れ、二拍で薄く、一拍半で戻した。
⸻
◆学院全域:呼吸を返す
夕刻近く、空の輪は透明に薄まり、音はゆっくり戻ってきた。
鳥の翼が切る空気の音、芝を渡る風、遠い港の金属音。
世界は音を返した。
封緘隊の報告が順に上がる。
「北庭、異常なし」「図書棟東、異常なし」「中央棟、異常の兆候消失」
最後に司馬教官の声が入る。
『――戻れ。勝ったから帰る』
四人は速度を落とす。
帰り道は、走らない。
戻る足で歩く。
⸻
◆研究局:白い部屋の数字と、言葉の温度
医療班の待機する白い部屋で、脈拍、呼吸、匂い因子、錯視の誘発率――数字が順に並ぶ。
陽翔の“空白”は増えていない。むしろ“穴熊”の名づけ以降、回復時間の短縮が見られた。
エリナは“出さない錯視”の切り替えが平均0.6秒短縮。
ローザは“撤退→再構築”の十歩が移動時でも安定。
ノエルの“戻す”は言語化→運動の遅延がほぼゼロ。
司馬教官が帳面を閉じ、短く言う。
「眠れ。眠ることも訓練だ。――勝ちのまま終わる」
その言葉の温度は、数字よりも身体を緩める。
⸻
◆食堂:塩とパンとくだらない冗談
夜の食堂で、湯気が踊る。
陽翔がスプーンを持って、ちょっとだけ考え込んでから言う。
「俺、今日の冗談は“思い出さない”やつにする」
「冗談を?」
「冗談って、言った瞬間に古くなるじゃん。――残さないのも、たまには礼儀かも」
エリナは「新説」とメモし、ノエルは笑った。
笑いの塩は、今日の世界の隅々をこちら側に固定する。
ローザは最後にグラスの水を飲み干し、静かに置いた。
「明日、片づける」
黒百合は閉じた。けれど、島には薄皮が残っている。蝶番は“ほんの少し”滑らかだ。
“ほんの少し”は、明日、私たち自身で上書きする。
⸻
◆藤棚の下:手の温度と“今”
寮へ戻る前、藤棚の下で四人は手を重ねる。
掌の温度が混ざり、脈の場所が伝わる。
「“今”」
四つの声が重なったあと、ノエルは一拍だけ置いて、もう一度。
「“今”」
合図を二重にしない。だが、余韻を持たせる。
余韻は、明日の“始まり”に滑らかにつながる布。
⸻
◆温室の夜:白百合は眠り、黒は夢へ
封緘の線は安定し、巡回は二十刻で止まらない。
白百合は光を吸わない。吸わないということは、返しているということでもある。
黒百合は見えない。見えないが、いる。
いることと、来ることは違う。
“送り”の路はすでに敷かれた。
今夜、門は門であり続けるが、開かない。
⸻
◆消灯前:怖さの棚卸し
寮の廊下で、短いミーティング。
「今日の怖さは?」
ローザの問いに、順に置いていく。
陽翔――「鈴が鳴った瞬間の足の空洞」(対応:中心)
エリナ――「“出さない錯視”が出そうになった一回」(対応:切り)
ノエル――「“甘い方角”に片足分寄った」(対応:“苦い音”を探す)
置く。名前を付けて、外に置く。
置いたものは、道具になる。
道具にできるものは、怖さではない。
手を離し、扉が閉まる。
廊下のきしみは、今日も鳴らなかった。
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◆夢:出迎えず、送りだけをする者(対話)
眠りは深く、夢は浅い――その中間くらいの正しい場所に落ちた。
温室の通路。白百合は眠り、黒は“いる”。
母がいる。出迎えない立ち方のまま、現在形でいる。
「ノエル」
「……はい」
「今日、あなたは“送り”をした。よく戻した」
「お母さんが、送りの道を……」
「違う。あなたの“今”が作った」
母は微笑む。懐かしさの味は薄い。かわりに、現在の塩が舌に残る。
「黒百合は悲しみの根。でも、悲しみは悪ではない。整理されない悲しみだけが、門になる」
「整理は、言葉にすること?」
「ええ。言葉にして、外に置く。――そのために、“今”を置くの」
ノエルはうなずき、胸で合図を置いた。
――“今”。二拍。戻す。
母は出迎えない。出迎えないから、ここにいられる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
夢は音もなくたたまれ、白は白のまま残った。
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◆暁:戻れる朝(封緘のあとに)
鐘の前、潮の匂い。
ノエルは目を開け、ペンダントを胸に当てる。
“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。
ロフトから陽翔が顔を出し、エリナがノートを閉じ、ローザが短く言う。
「片づけに行く」
片づけ――それは、勝ったあとにしかできない仕事だ。
勝利は、宣言しない。片づけで示す。
四人は廊下へ出た。
窓の外、藤棚の房が朝の風に揺れ、石畳に小さな丸を作る。
丸は踏まれて伸び、また丸に戻る。
戻れるものは強い。
今日も、こちらの側で花は咲く。
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