第7話「揺らぐ温室」
朝の鐘が三度、海霧の上で透明に鳴った。
ノエルは、その少し前に目を覚ましていた。夢の末尾に、白百合が首を傾げる気配だけが残って、胸の内側で薄い音を立て続けている。窓の錠を外すと潮風が入ってきて、カーテンの裾が藤寮の木床をやさしく撫でた。薄紫の空は夜と朝の境い目で、鳥の群れが細い三角を描いて横切っていく。
ペンダントを指でなぞる。冷えた銀の輪に触れると、心の輪郭が戻ってくるのを感じる。
「……大丈夫」
鏡の前で襟を整え、髪をピンで留める。手首のうっすら赤い跡は、昨日より薄い。痛みはもうないけれど、触れないという感覚は鮮やかに残っていた。
「おはよー!」
ロフトから陽翔が勢いよく顔を出す。寝癖の髪が朝の光を跳ね返し、片足で靴下を探しながら、いつもより二割増しで元気だ。
「静かに。床が軋む」
エリナはすでに起きていて、ノートを胸に抱えたまま短く注意する。眼鏡の奥の瞳は眠そうに見えて、実際にはもう全開だ。
扉の前にローザが立っていた。紅のリボンは朝露を拒むように凛と乾き、瞳は低く燃えている。
「行くわよ」
「うん」
四人で廊下を抜ける。藤棚の房は朝露に重く、風が通ると水が粒になって落ち、石畳に小さな丸を作る。その丸が誰かの足に踏まれて伸び、また丸に戻る。――そこに日常の音がある。
庭の角を曲がると、温室のガラスが視界の端で白く光った。いつもと同じ朝。けれど、胸の真ん中で、夢の残りが一拍だけ音を遅らせる。
◆
午前一限は「花術応用Ⅱ」。実習は温室で行われる。
研究局の助手が鍵を回し、扉を押し開けると、湿った空気が一気に流れてきた。土と水と緑、そして甘いはずの香り――だが今日のそれには、針の先ほどの鋭さが混じっていた。
「……匂いがいつもと違う」
陽翔が鼻をひくつかせる。
「百合の香りが局所的に強い」
エリナが即座に言って、手帳の端に“局所偏在/右手奥”と書き込む。
ノエルは指先に花弁の感覚を意識させないように、両手を組んだ。ローザは剣帯に軽く触れる。剣を抜く場ではないけれど、触れることで心が正しい姿勢を思い出す。
「今日の課題は観察と簡易調整だ。過剰な施術は行うな」
助手の声に、いくつもの返事が重なる。
温室の通路を進むと、白百合の鉢が並ぶ一角に出た。――一輪だけ、背が高い。花弁は純白で、光を受けて縁にかすかな影を帯びている。その影は黒というより“濃い空気”のように見えた。
胸の奥の一拍遅れが、もう一度遅れる。
「ノエル」
ローザが横に立ち、声を低く落とした。
「触れないこと。――見るだけ」
「わかってる」
ノエルは白百合の前で立ち止まり、呼吸を二拍に揃えた。香りは冷たい。だが、花の形は完璧だ。完璧すぎる形に、ひとはときに引かれる。――引かれた先にあるのが崖でも。
花弁の縁が微かに揺れた。黒い粉のようなものが光の粒に混じって落ちた……ように見えたのに、足元は清潔なままだ。
(見えるのに、残らない)
記録するには足りない違和感。けれど、見なかったことにはできない違和感。
「次の区画に移動」
助手の声で流れが動く。四人は視線を交わし、何も言わずに従った。
◆
午前の最後、ミスティ教官の短い講話があった。温室の中央で、彼女は百合と薔薇の棚のあいだに立ち、手にした薄い冊子を掲げる。
「“香りは境界の言語”。――これは古い薬学者の言葉。香りは目に見えないし、掴めない。だが最も遠くへ届く。届いてしまう。ゆえに、香りを扱うときは“距離”を持ちなさい」
視線が、ノエルの肩を通り抜けていった気がした。意図か偶然か、分からない。
「今日の温室は少し香りが強い。体調のすぐれない者は早めに申し出るように」
講話は短く、散会の合図は簡潔だった。だが言葉は、胸骨の奥に針で留められたみたいに残る。
◆
昼。
食堂では、焼きたてのパンとスープ、それにレモンとローズマリーの鶏。香草が熱でほどけ、空気の層を穏やかに整えてくれる。
「この香り、森の入口と似てる」
陽翔がもぐもぐ言う。
「人の手が入った香り。――安全」
エリナはナイフで鶏を切り分け、皿の端のハーブを少し避けてから口に運ぶ。
ノエルは小さく頷いた。料理の香りは、境界の内側で調律された旋律だ。追いかけても崖に出ない。――それでも、今日は鼻の奥に薄い氷片が貼りついたみたいに敏感だった。
「さっきの白百合、やっぱりおかしかったよな?」
陽翔が身を乗り出す。
「おかしい」
ローザが短く答える。
「研究局に報告する?」
「司馬教官は“通常授業に戻れ”と言ったけど……」
ノエルの言葉は自分でも弱いと思った。
「見過ごすのは危険。放課後、私たちで“見る”。触れずに、確認する」
ローザの声は静かで、決定の重さだけが乗っている。
「俺、光輪は最小出力でいつでも出せるようにしとく」
「私は記録と、香りの分布測定」
四人の視線が交差し、昼の喧噪の中で小さな約束が結ばれた。
◆
午後は座学。「花言葉史Ⅲ」。黒板には古い文言が並ぶ。
“花は香りで過去に触れ、色で現在を染め、形で未来に項(うなじ)を預ける”
ノエルは“香り”の字だけを二重線で囲みながら、窓の外の温室を一瞬だけ見た。ガラスの向こうに白いものが揺れ……た気がした。風はない。視線を戻す。
先生の声が遠くなる瞬間がある。そういうとき、ノエルは胸の中で合図を唱える。――“今”。二拍で世界を薄く。戻る。香りは追わない。
何度か繰り返すうち、鐘が鳴って、放課後が来た。
◆
夕方。研究局の助手が施錠の巡回を終えるのを待って、四人は温室裏に回った。
空はまだ藍になる前の群青で、ガラスは海の色を映している。裏口の気配を確かめ、鍵を開ける。侵入ではない。学生用の補助鍵を貸与されている。――ただ、時間外だ。
扉を開けた途端、香りの層が変わった。
昼よりも、濃い。白百合が他の香りを覆い、藤や薔薇の輪郭を平らに均してしまっている。
ノエルは思わず息を止め、二拍で薄くしてから、胸へ戻した。
「……強い」
「エリナ、記録」
「開始」
白百合の列の奥。――昼に見た背の高い鉢が、さらに背を伸ばしている。花弁の枚数は数えたはずなのに、さっきより多いように見える。
その茎の表面で、糸のような影が光を殺した。
黒い糸。
動くというより、“在る場所を変える”みたいに位置をずらしている。
「来る」
ローザの声は低く、短い。
「陽翔、最小光輪」
「了解!」
金の輪が足元に沿って薄く広がり、床の影の濃度が一段下がる。
「ノエル、二拍。――触れるのは“友情”だけ。香りは切る」
「うん」
ノエルは花弁を散らした。ライラックは最初、空気と見分けがつかない。二拍目で密度を上げ、仲間の肩にだけ触れて、三拍目を待たずに引き上げる。
黒い糸が、ぴくりと遅れた。
「今」
ローザの剣が音を立てずに走る。炎は灯。熱量は必要十分。糸を焦がす温度だけを置いていく。
エリナの幻影は白百合の列の奥に“もう一本の通路”を描き、糸の行先の選択肢を一つ捨てさせる。
糸は――増えた。
鉢の縁、支柱、葉脈。そこから細い線が四方に伸び、天井の梁へ、ガラスの縁へ、通路の影へ。
「多い!」
陽翔の輪が二重になりかけ、エリナが短く首を振って一重に戻す。
「二重は“集結”。今はまだ離れている」
「了解!」
黒い糸は、香りだけで進む。触れると染みる。染みた先は“穴”になる。
ノエルは花弁を散らし続けながら、香りの層を“鈍らせる”。懐かしさへ寄るルートにだけクッションを置き、外の香りが滑り落ちるように傾斜を変える。
糸が床の縁で足踏みした。
ローザの剣がそこに落ちる。焼ける匂いは花の焼ける匂いではない。“外の糸”は煙を出さず、熱の痕だけを残して消える。
それでも、白百合の鉢は花弁を落とした。
ひらり――床に触れた瞬間、黒い染みが周囲へ広がりかけ、ノエルの花弁が触れるより早く、陽翔の光輪がそこをすべった。
光が染みを“薄く”した。
「ナイス!」
「まだ!」
黒い糸は、天井の梁へ逃げた。上は苦手だ。剣が届きにくい。
「エリナ、通路の幻影を上へ」
「了解」
梁の上に一瞬だけ“足場”の錯覚が生まれ、ローザの足がそこへ乗る。錯覚でも、一拍だけは“在る”。剣が梁の影をすくい、糸を焼く。
ノエルのこめかみがぴり、と痛んだ。二拍の反復は、油断すると香りの縁に触れる。――戻る。戻る。
「ノエル!」
「大丈夫。戻ってる」
「なら続行」
黒い糸の最後の束が、白百合の茎の節に集まっているのが見えた。そこは“香りの結び目”。
「結び目、ここ!」
ノエルが指差す。
ローザが頷き、陽翔が輪を前へ滑らせる。エリナの線が結び目の一寸手前で“落差”を作る。
剣先が節に触れた。灯が一段階だけ強く、短くなる。
黒い糸が弾けた。
白百合の花弁がばさりと一枚、音を持って落ちる。――音、を持った。さっきまでと違う。
温室全体の空気が、一度だけ深く息をしたみたいに揺れた。
静かになった。
四人は、そこで初めて大きく息を吐いた。
ノエルは膝が少し笑っているのを、恥ずかしいと思う前に自覚した。
「……終わった?」
「終わらせた。――暫定的に」
ローザは剣を納めながら言った。
「香りの結び目を焼いた。けれど根は取り切れていない可能性がある」
「記録、完了。香り強度、入室時比で四割低下。百合周辺の局所は五割低下」
エリナの声は安定している。手の震えはない。筆圧がいつもよりわずかに高い。
ノエルは床の白い花弁を拾い上げた。指先に黒は移らない。触れればただの花。ただし、さっきまで“外”だった。
そっと、鉢の縁に戻す。
「……ごめんね」
誰に言うともなく呟く。
「謝る相手を間違えるな」
ローザが短く言い、ノエルは頷いた。
「うん。――ありがとう、みんな」
「礼は要らない。……この後、研究局に報告する。自分たちで対処した範囲と、見たもの全部」
◆
報告は簡単ではなかった。
時間外の温室入り、独自判断の対処。授業規律という面から見れば褒められない。だが、司馬教官は最初の十秒だけ眉を寄せ、次の十秒でため息をひとつ、以降は質問だけを投げた。
「香りの結び目の位置は」「糸の増殖速度は」「光輪の遮断効果の体感は」「幻影による足場錯覚の有効時間は」「藤咲、二拍の負荷は」
一問一答。答えられるだけ答え、ノエルは正直に「一度、縁に寄りそうになった」と告げた。
「戻ったのか」
「戻りました」
「誰の力で」
「……自分の、合図で。――ただ、仲間がいたから戻れたとも思う」
「よろしい」
最後に、司馬教官は書板に印を押し、低く言った。
「正式な対処班が今夜から温室を張る。君たちは通常行動を維持。――ただし、藤咲。香りの層に敏感になりすぎると、逆に“呼ばれる”。今日はよく踏みとどまった。明日も踏みとどまれ」
「はい」
部屋を出た途端、陽翔が壁に背を預けて、ずるずると座り込んだ。
「緊張で寿命が縮む音、した」
「音はしない」
「たぶん心の中でしてる!」
エリナが小さく笑った。笑うと、彼女の横顔は驚くほど柔らかくなる。
ローザは腕を組み、温室の方向を一度だけ振り返った。
「今夜は温室に近寄らない。休め」
「了解」
◆
寮の食堂は夜も賑やかだった。揚げたての白身魚にハーブのソース、野菜のグリル。香りは温かく、調律され、野外の匂いを家の匂いに変えてくれる。
「うまっ!」
陽翔は幸せそのものの顔で、あっという間に皿を空にした。
「報告書は」
エリナの一言に、陽翔が固まる。
「……デザートのあと」
「では、私が先にまとめる。あなたは“感想”を後から注記」
「助かる女神……!」
「神ではない」
窓際の席で、ノエルはペンダントの銀に頬を寄せた。冷たさは、今日も正しく冷たい。
「ノエル」
向かいのローザが声を落とす。
「さっき、謝っただろう。花に」
「うん……」
「謝るのは、守れなかったときだけでいい。今日は守った。胸を張れ」
その言葉が、温かい食堂の香りと重なって、胸骨の内側に静かに落ちた。
「うん。ありがとう」
◆
夜。
短い夕練は“撤退からの再構築”の復習だけに留め、早めに切り上げた。温室には正式班が張り、近づく必要はない。
部屋へ戻る廊下で、ノエルはふと足を止めた。
――きしみ。
昨日と同じ、“一拍遅い”音。
耳を澄ます。
遠くで、潮の音。誰かの笑い声。――それだけ。
「どうした」
ローザが振り返る。
「ううん。なんでもない」
「“なんでもない”を覚えておけ。明日の自分への手紙になる」
「うん」
シャワーの後、髪を半分だけ乾かして、ノエルはベッドに潜り込んだ。天井の木目は昼より濃い。窓の外の海は夜の色で、波の返事は落ち着いている。
目を閉じれば、花弁が降る。二拍で薄く。一拍半で戻る。――繰り返し。
あの白百合は、外の糸に触れられていた。けれど、まだこっちにいる。
(守る。私の花で、こっちを守る)
言葉は呪文。呪文は眠りを呼ぶ。眠りの前で、ペンダントが銀の音を一度だけ鳴らした。
◆
夢の中で、温室は広かった。昼より、夜より、広かった。
白百合が列を成し、藤が天井から垂れ、薔薇が小さな弧を描いている。
扉は閉まっていない。けれど、風は入らない。――夢だから。
ノエルはガラスに手を触れた。触れた瞬間に二拍で薄くし、三拍目を待つ前に戻す。
白百合の一輪が首を傾げ、黒い点が花粉の粒の奥に沈んでいくのが見えた。
追わない。
香りは追わない。
“今”と胸の中で唱える。
夢の中の自分にも、その合図は届く。
黒い点は遠ざかり、白が戻る。
そこで目が覚めた。
まだ夜明け前。
寮は静か。海は近い。
ノエルは天井を見上げ、ひとつ息を吐いた。息の白さは、もう夢の向こうに消えている。
◆
翌朝。
鐘の一つ前に起き、制服を整え、食堂で温かいスープをひと口。陽翔が「今日は“報告書→朝ごはん”で勝つ」と言って結局先にパンを食べ、エリナが「順番の勝利基準が曖昧」と書き、ローザが「食べろ」とだけ言った。
授業棟へ向かう途中、温室の前で足が止まる。扉には正式班の封緘があり、透明な膜がガラスの縁に薄く張られている。
香りは――落ち着いていた。
ノエルは胸の中で合図を一度だけ唱え、二拍で薄く、戻した。
大丈夫。
今日の朝は、こちらの匂いが勝っている。
歩き出すと、背中でローザの声がした。
「怖がり方、忘れるな」
「うん」
島の上で日常が始まる。
日常は、戦いの隙間にあるから強い。
ノエルはペンダントを指でなぞり、歩幅を少しだけ大きくした。
二拍で薄く。戻る。
香りは追わない。
――それでも、花は咲く。今日もちゃんと。
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