第6話 「帰還と報告」
夕刻の海は、朝よりも深い色で呼吸していた。
結界船の舳先が波の皮膚を切り、さざなみが白い縁を立てる。甲板に立つノエルは、足の裏に熱と疲労の残り火を感じながら、遠ざかっていく結界林の稜線を黙って目でなぞっていた。虹色の薄膜が森を包み、島の外と内を静かに分けている。
「ふあ〜〜……しごおわ!」
陽翔が大の字で甲板に倒れ、空を抱きしめるみたいに両腕を広げた。
「板が抜ける」
ローザの即答はいつも通り刃の背の冷たさだ。
「抜けないよ……たぶん! でも俺は抜け殻だよ! エリナ〜、ご褒美にカレー二杯……」
「ご褒美の前に報告書。二杯分」
「倍!? うそでしょ!」
馬鹿話に笑いながらも、ノエルは胸の底で別の音を聴いていた。――祠の前、黒い花弁がひらりと落ちてきた瞬間の、言葉にならない静寂の音。触れかけた指を止めたのはローザの手首の熱だ。今も皮膚の下にその温度が残っている。
「ノエル」
隣に立ったローザが、風に髪を撫でられながら低く言った。
「二拍で戻った。事実だけ覚えておきなさい」
「……うん。ありがと」
「礼は要らない。役目を果たしただけ」
船は緩やかに旋回し、学院の桟橋へ滑り込む。錨の鎖が短く鳴り、張られたロープが海の匂いを引き寄せた。港の石畳はまだ昼の熱を抱いていて、靴底に柔らかい温度が移る。
◆
港の広場で整列。護衛の上級生が淡々と点呼を取る。
「負傷者の申告」
「擦り傷と軽い打撲のみです」
「了解。――上位三組、中央棟の報告室へ」
四人で石畳を歩く。街灯が順番に灯り、光の輪が地面に点々を置く。空は橙と群青の境目で、結界膜の端が虹色に縁どられていた。ノエルは無意識にペンダントを親指で撫でる。銀の輪はひやりと冷たく、思考の形を整えてくれる。
「なあ、ノエル」
陽翔が歩きながら顔を近づけてきた。
「今日の俺の“二重光輪”、タイミング悪くなかった?」
「よかったよ。撤退判断が早いのは強さだと思う」
「よっしゃ! エリナにも褒められた!」
「褒めてはいない。評価した」
「同じでしょ?」
「違う」
談笑の温度が、不安の輪郭を丸くしてくれる。だが報告室の扉が近づくと、空気は自然に冷たくなった。
◆
報告室は窓が閉ざされ、湿度の低い空気が整然と漂っていた。壁のランプは控えめな明るさで、机上の書板だけが魔術式の光をかすかに揺らす。灰色のローブを纏った初老の教官――司馬教官が、眼鏡越しの視線で四人を計る。
「紅城、藤咲、日向、百合園。――座れ」
椅子に腰をおろすと、背もたれの木が骨に正しい角度を思い出させる。
「順に報告。紅城」
「はい」
ローザは無駄を削った短文で経過を語った。蔦狼の根の節を焼き、白羽虫を錯視で抜け、祠前で“外の揺らぎ”に遭遇。撤退合図の徹底、連携の呼吸、そして――黒い花弁。
「以上」
視線がノエルに移る。
「藤咲」
「はい」
「主観を述べろ。感じたもの、躊躇、違和感。全部だ」
ノエルは喉の奥に小さな針を飲み込み、言葉の順番を選んだ。
「祠の前で、季節外れのライラックの香りを感じました。――能力を二拍だけ展開しましたが、対象に“懐かしさ”の水面はありませんでした。香りだけ、がありました。冷たくて、でも整った……“穴”のような」
「そのとき、手が伸びた」
「はい。――ローザに止められました」
「自分では止められなかったのか」
「……一瞬、止められなかった。けど、二拍で戻りました」
司馬教官は眼鏡を押し上げ、書板に短い印を刻んだ。
「黒百合は“記憶を持たない”。ゆえに“懐かしさ”には触れられない。だが香りで境界を曖昧にする。香りは危険だ。追うな。寄るな。――“懐かしさがないときは触れない”。胸骨の内側に刻め」
「はい」
「日向」
「はいっ!」
「お前の判断は速い。だが速さには“根拠”が必要だ。光輪を二重にしたのはなぜか」
「ノエルの合図“今”に合わせて、相手の速度の“前倒し”に備える意図です! 俺の足がもつれないように“自分を守る”意味もあります!」
「いい。自分を守る盾でい続けろ。盾は穴の空いた瞬間、武器に変わる」
「はい!」
「百合園」
「集団錯視の誘導に成功しました。橋上での撤退合図テストも良です。ただ、祠の場では撤退判断を私から先に出すべきだった。二秒遅れました」
「自己評価が正確だ。次は一秒、縮めろ」
「承知」
質疑は一人ずつ細部にわたり、言い訳の逃げ場がないほど具体だった。だがそれは責めではない。“明日のために掘る”ための針だ。
最後に司馬教官が言う。
「よくやった。祠は研究局と上位班が封鎖・調査する。君たちは通常授業へ戻れ。――黒百合については口外するな。言葉は香りを連れてくる。以上」
解散。扉を閉めた瞬間、四人分の息が同時に解放され、廊下の空気が少し温かくなった。
「うおお……肝が縮んだ」
陽翔が胸を押さえる。
「でも、必要な言葉ばかりだった」
エリナが小さい声で言い、ノエルは頷いた。
「“香りを追うな”。忘れない」
ローザは黙って歩き出し、振り返らずに言った。
「食べろ。体温を上げる。――夜に備える」
◆
温室の食堂は香りの演劇だった。焙煎したスパイスが空気を彩り、バターの縁が皿の上で鈍く光る。長机に置かれた大鍋の前で行列がうねり、笑い声が湯気に混ざる。
「カレー二杯! 三杯! いや二・五杯!」
「整数で頼む」
「じゃ二杯! と、桜ゼリー!」
「甘辛の両極端……」
ノエルはほどほどの量をよそい、窓際の席へ。外の空は群青に沈み、藤棚の影がガラスに薄く映っている。向かいにローザが座ると、香りの線が一本、ピンと張り直された気がした。
「手首、まだ赤い」
「うん。……朝まで残しておきたい」
「理由」
「“触れるな”って、体が覚えるように」
「なら、冷やし過ぎるな。痕が残ると実技に支障が出る」
「気をつける」
スプーンが皿に触れる音が、話の合間を埋める。陽翔は隣のテーブルで誰かとじゃんけんをし、負けて残りの福神漬けを譲っている。エリナは斜向かいで小さくメモを取り、香りと脈拍の相関を書き留めているようだった。
「“怖がり方”は覚えたか」
ローザが淡々と問う。
「少し。――怖いって認めると、視界が広くなる」
「そう。怖さは視野を狭めることもあれば、過剰な自信を削ってバランスを戻すこともある。自分の怖さを“道具”にすること」
「道具……うん」
カレーの皿が空になり、温いハーブティーで香りの層を落とす。ノエルの体は、やっと今日が「終わりに向かっている」と理解した。
◆
寮の裏庭。夜の芝生は水を含んだ絨毯のようで、踏むたびに音が吸い込まれていく。頭上では小さな雲が早足で流れ、星はその合間に瞬いた。
「二拍で薄く、一拍半で戻す練習」
ローザが剣を抜き、短く合図する。
「“今”」
ノエルは息を整え、花弁を散らす。二拍。戻る。――一拍半。戻る。
視界が白むギリギリの縁で、指先を引き戻す。香りに寄りたがる心を、胸骨のところで軽く押し戻す。
「戻れ」
ローザの声が刃のように線を引き、ノエルはそこを踏み越えないで止まる。
「安定率、七割二分」
エリナの声。懐中時計の秒針とノートの走りが、夜の静けさに細い音を刻む。
「七割二分は及第。だが、黒百合は合格点の外側から来る」
「分かってる」
「なら、もう一回」
繰り返す。
香りの輪郭に触れず、友情の線を太らせる。ローザの肩へ、陽翔の胸へ、エリナの指先へ。花弁はふわりと触れて、すぐ離れる。触れて、離す。
十数回目で、ノエルの呼吸は汗の粒と一緒に軽くなってきた。疲れてからの一拍半は、練習の価値が高い。
「今日はここまで」
ローザが剣を納め、背の汗を拭った。
「ありがとう」
「礼は――」
「勝つため」
「そう」
短い笑いが重なり、三人は寮へ戻る。廊下の木は昼より柔らかいきしみ方で、灯りは人の影に合わせて明滅した。階段の途中、ノエルの耳がぴくりと動く。――一拍、遅いきしみ。
足を止め、息を潜める。
……すぐ消えた。
「どうした」
「今、床の音が……いや、気のせいかも」
「“気のせいかも”を捨てずに覚えておけ。明日の自分が使うかもしれない」
「うん」
◆
温室の裏は、夜になると別の生き物の横顔になる。昼は人の手で調えられた庭仕事の気配が濃く、夜は植物の呼吸だけが支配する。
そのガラスの縁で、見えないほど細い黒い糸がわずかに震えた。昼間、船の甲板の木目に潜んでいた“黒い花弁の欠片”は、港の風と一緒にここまで運ばれてきたのだ。
糸はガラスのパッキンに沿ってゆっくりと移動し、隙間から内側へ滑り込む。湿度の高い空気が肌を撫で、夜の温室の匂い――土、湿り、花粉、微量の蜜。
白百合の茎が、眠りながらわずかに震える。
黒い糸は花粉の粒へ絡み、舌のない舌で香りだけを味わった。香りは記憶を持たない。だからこそ侵入に向いている。
糸はそのまま動かず、ただ“待つ”。花の時間は、人の時間よりも遅い。黒百合は、その遅さに寄生するのがうまい。
◆
部屋でシャワーを浴び、髪を半分だけ乾かして、ノエルはベッドに腰を下ろした。ペンダントを外し、胸に当ててから枕元に置く。銀の冷たさは思考を澄ます。
陽翔の笑い声が廊下の向こうから遠くに聞こえ、エリナの「静かに」の声がすぐにその上に乗る。ローザの足音は無駄がない。扉の開閉音さえ簡潔で、生活が剣の呼吸に似ている。
ノエルは横になり、天井の木目を数えた。
目を閉じると、花弁が降りてくる。二拍で薄く。一拍半で戻る。――繰り返し。
母の庭。夕立のにおい。幼い自分の笑い。手をつないだ温度。
(私は、私の花で守る)
言葉を心の真ん中に置くと、眠りは思ったより早く訪れた。
◆
夢の中で、ノエルは温室の前に立っていた。
ガラス越しにぼんやりと白い輪郭が見える。百合の群れ。藤の鉢。薔薇の列。
扉に触れようとして、彼女は二拍で手を引いた。――“香りに寄るな”。司馬教官の声が、夢の中でも骨の内側に残っていた。
ガラスの向こう側で、白百合の一輪がわずかに首を傾げる。
風はない。なのに揺れる。
ノエルは“今”と胸の中で唱え、花弁を薄くした。香りの糸はすっと遠ざかり、ガラスの表面だけが冷たく残る。
目が覚めた。
まだ夜明け前。潮の匂い。静かな寮。
枕元のペンダントが、銀の音を一度だけ鳴らしたような気がした。
◆
朝。
鐘の音の一つ前に、ノエルは起きた。筋肉にはほどよい疲れ。鏡の前で襟を整え、昨日の赤い手首の跡を確かめる。色は薄くなり、触れても痛くない。――“忘れない”には十分だった。
ロフトの上から陽翔が逆さに顔を出す。
「おはよっ! 俺、今日は“報告書→朝ごはん”の順番で頑張る」
「順番が逆」
「えっ、どっち?」
「“朝ごはん→報告書”」
「エリナ先生……」
「先生ではない」
笑いながら階段を降り、廊下を抜ける。藤棚の房に朝露がきらめき、風が通るたび珠が落ちて小さな音を立てた。
温室の前を通る。扉は鍵がかかり、内側の空気はわずかに温かい影をガラスに映している。ノエルは立ち止まり、深呼吸を一つ。香りは……濃くない。昨夜の夢のほうが濃かったくらいだ。
「ノエル?」
振り向くと、ローザが立っていた。朝の紅はいつもより柔らかく、彼女の頬の線を薄く温めている。
「どうした」
「温室が、気になって」
「研究局が朝一で見る。君は授業に遅れるな」
「うん。行こう」
◆
午前の授業は座学だった。
「花言葉史Ⅲ」。ミスティ教官が古い文献の引用を黒板に写し、花と記憶の関係を多面的に語る。
“花は香りで過去に触れ、色で現在を染め、形で未来へ項(うなじ)を預ける”――古文。
“香りは境界の言語。目に見えないが、最も遠くへ届く”――薬学者の備忘。
ノエルはペンを走らせながら、香りの文句だけを二重線で囲んだ。
休み時間。陽翔が机に身を乗り出し、小声で言う。
「ノエル、今日の放課後、軽く実技あわせる?」
「いいよ。――ローザは?」
振り向くと、ローザはすでにノートを閉じ、立ち上がっていた。
「昼は研究局へ顔を出す。祠の件のヒアリングがあるらしい。夕方に合流する」
「分かった」
やがてチャイム。次の授業へ移る行列の中、窓の外の温室に視線がすべった。ガラス越しに、白いものがかすかに揺れた気がする。光の加減だろうか。――ノエルは胸の真ん中で、二拍だけ息を止めた。香りは、追わない。
◆
昼。
食堂の今日のメインは鶏の香草焼き。ローズマリーとレモンの香りが爽やかで、陽翔はご飯をおかわりした。
「この香り、好きだなぁ。森の入口の匂いとちょっと似てる」
「似ているが、こちらは“人の手”。入口のは“森の手”。似て非なるもの」
「エリナ、詩人?」
「現実主義者」
ノエルは口に運ぶごとに、香りが安全であることを確かめるみたいに鼻から息を抜いた。香りは境界をゆるめる。けれど、料理の香りは境界の内側で人が調整したものだ。――その違いを、身体で覚えたかった。
食後。ローザは研究局の棟へ、三人は実技の準備のために校庭へ向かった。芝は光を返し、午前の風は午後の匂いに変わりつつある。
「ノエル、今日は“視線の共有”をやろう」
エリナの提案で、三人は位置取りの練習を始めた。
花弁は肩口に薄く触れるだけ。陽翔の光輪は一重の最薄。エリナの幻影は敵ではなく味方の視線に薄い線を引く。
「ここ」
「そこ」
「今」
単語だけが飛び、体が先に理解して動く。言葉は合図で、意味は受け渡しだ。
「ノエル、よくなってる」
陽翔が額の汗を拭いながら笑う。
「俺、君の“触れて離す”のタイミング、もう身体が覚え始めてる気がする」
「ありがとう。――エリナの線も、見えるようになってきた」
「線は見えない。でも、見えると思う人は見える。そういう線」
笑って、また繰り返す。
そのとき、校庭の端で鐘が一つ鳴った。研究局の棟の方角。――合図か、時刻か。ノエルはほんの瞬間、温室のガラスが思考の端に透けたのを感じた。香りの気配は、ない。
◆
夕方。
研究局棟の前でローザと合流する。彼女は少し汗をかき、額の髪が肌に張り付いていた。表情は相変わらず静かだが、瞳だけがわずかに熱い。
「どうだった?」
「祠は封鎖。内部から“外の糸”が伸びていた形跡。だが、いまは切れている。――温室にも仮点検が入る」
「温室……」
「問題は見つからず。――今のところは」
今のところ。言葉の端に、薄い刃の感触がある。
「私たちは通常通り。焦るな」
四人で夕練に移る。今日は“撤退からの再構築”。
一度完全撤退の合図を出し、二十歩離れて呼吸を整え、再度の連携へ入る。その間、ノエルは花弁を完全に回収し続ける――香りの糸を残さないために。
「薔薇、空!」
合図。紅い花が空に一輪。
走る。止まる。呼吸。二拍で薄く。――戻る。
「再構築」
ローザの声で位置取り直し。陽翔の光輪が最薄で広がり、エリナの線が足場に刻まれる。ノエルは胸骨の裏で花弁の密度を調整し、二拍で肩に触れ、一拍半で離す。
繰り返す。繰り返す。
暮色が濃くなり、芝の緑が青へと沈む。
「今日はここまで」
ローザが剣を下ろし、いつもの短い締めの言葉。
ノエルはふっと笑って、ペンダントを指で押さえた。銀の輪は汗で湿り、いつもより少し温かい。
◆
夜、温室のガラスの縁。
黒い糸は、まだ“待っていた”。
人の目では見えない細さで、花粉の粒と粒の隙間に身体を伸ばし、白百合の甘さを“香りだけで”なぞり続ける。
温室の鍵は固く、窓は閉じ、夜の管理は行き届いている。――だからこそ、香りの侵入は見えにくい。
黒い糸は、焦らない。焦りは香りを飛ばす。
ただ、待つ。
十分に“人の香り”が薄くなる時間を。
十分に“花の香り”だけになる時間を。
◆
消灯前。
藤寮の廊下で、ノエルはローザと短く会釈を交わした。
「おやすみ」
「おやすみ。――明日も二拍」
「うん」
部屋に戻り、ベッドに潜り込む。天井の木目、窓の夜、潮の音。陽翔が小声で「今日は俺、勝った」と言い、エリナが「何に」と返す。
「眠気に」
「明日も勝て」
「任せて」
笑いが布団の中で転がり、やがて静かになる。
ノエルは瞼の裏に薄紫の光を見た。花弁。二拍。戻る。
――香りは追わない。
呪文みたいに心の中でくり返し、眠りへ落ちた。
◆
夜半。
温室の白百合の一輪が、誰もいない闇の中で微かに脈打った。
黒い糸が茎の表皮に“香りで”触れ、細胞の間の水の温度をほんの一度だけ下げた。
花は夢を見る。
百合の夢は白い。
そこに、黒の点が一つ、落ちた。
その変化は、誰にも気づかれない。
だが、香りは境界の言語だ。
言語は、いつか必ず誰かに届く。
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