第6話 「帰還と報告」

 夕刻の海は、朝よりも深い色で呼吸していた。

 結界船の舳先が波の皮膚を切り、さざなみが白い縁を立てる。甲板に立つノエルは、足の裏に熱と疲労の残り火を感じながら、遠ざかっていく結界林の稜線を黙って目でなぞっていた。虹色の薄膜が森を包み、島の外と内を静かに分けている。


「ふあ〜〜……しごおわ!」

 陽翔が大の字で甲板に倒れ、空を抱きしめるみたいに両腕を広げた。

「板が抜ける」

 ローザの即答はいつも通り刃の背の冷たさだ。

「抜けないよ……たぶん! でも俺は抜け殻だよ! エリナ〜、ご褒美にカレー二杯……」

「ご褒美の前に報告書。二杯分」

「倍!? うそでしょ!」


 馬鹿話に笑いながらも、ノエルは胸の底で別の音を聴いていた。――祠の前、黒い花弁がひらりと落ちてきた瞬間の、言葉にならない静寂の音。触れかけた指を止めたのはローザの手首の熱だ。今も皮膚の下にその温度が残っている。


「ノエル」

 隣に立ったローザが、風に髪を撫でられながら低く言った。

「二拍で戻った。事実だけ覚えておきなさい」

「……うん。ありがと」

「礼は要らない。役目を果たしただけ」


 船は緩やかに旋回し、学院の桟橋へ滑り込む。錨の鎖が短く鳴り、張られたロープが海の匂いを引き寄せた。港の石畳はまだ昼の熱を抱いていて、靴底に柔らかい温度が移る。



 港の広場で整列。護衛の上級生が淡々と点呼を取る。

「負傷者の申告」

「擦り傷と軽い打撲のみです」

「了解。――上位三組、中央棟の報告室へ」


 四人で石畳を歩く。街灯が順番に灯り、光の輪が地面に点々を置く。空は橙と群青の境目で、結界膜の端が虹色に縁どられていた。ノエルは無意識にペンダントを親指で撫でる。銀の輪はひやりと冷たく、思考の形を整えてくれる。


「なあ、ノエル」

 陽翔が歩きながら顔を近づけてきた。

「今日の俺の“二重光輪”、タイミング悪くなかった?」

「よかったよ。撤退判断が早いのは強さだと思う」

「よっしゃ! エリナにも褒められた!」

「褒めてはいない。評価した」

「同じでしょ?」

「違う」


 談笑の温度が、不安の輪郭を丸くしてくれる。だが報告室の扉が近づくと、空気は自然に冷たくなった。



 報告室は窓が閉ざされ、湿度の低い空気が整然と漂っていた。壁のランプは控えめな明るさで、机上の書板だけが魔術式の光をかすかに揺らす。灰色のローブを纏った初老の教官――司馬教官が、眼鏡越しの視線で四人を計る。


「紅城、藤咲、日向、百合園。――座れ」


 椅子に腰をおろすと、背もたれの木が骨に正しい角度を思い出させる。

「順に報告。紅城」

「はい」


 ローザは無駄を削った短文で経過を語った。蔦狼の根の節を焼き、白羽虫を錯視で抜け、祠前で“外の揺らぎ”に遭遇。撤退合図の徹底、連携の呼吸、そして――黒い花弁。


「以上」

 視線がノエルに移る。

「藤咲」

「はい」

「主観を述べろ。感じたもの、躊躇、違和感。全部だ」


 ノエルは喉の奥に小さな針を飲み込み、言葉の順番を選んだ。

「祠の前で、季節外れのライラックの香りを感じました。――能力を二拍だけ展開しましたが、対象に“懐かしさ”の水面はありませんでした。香りだけ、がありました。冷たくて、でも整った……“穴”のような」

「そのとき、手が伸びた」

「はい。――ローザに止められました」

「自分では止められなかったのか」

「……一瞬、止められなかった。けど、二拍で戻りました」


 司馬教官は眼鏡を押し上げ、書板に短い印を刻んだ。

「黒百合は“記憶を持たない”。ゆえに“懐かしさ”には触れられない。だが香りで境界を曖昧にする。香りは危険だ。追うな。寄るな。――“懐かしさがないときは触れない”。胸骨の内側に刻め」


「はい」


「日向」

「はいっ!」

「お前の判断は速い。だが速さには“根拠”が必要だ。光輪を二重にしたのはなぜか」

「ノエルの合図“今”に合わせて、相手の速度の“前倒し”に備える意図です! 俺の足がもつれないように“自分を守る”意味もあります!」

「いい。自分を守る盾でい続けろ。盾は穴の空いた瞬間、武器に変わる」

「はい!」


「百合園」

「集団錯視の誘導に成功しました。橋上での撤退合図テストも良です。ただ、祠の場では撤退判断を私から先に出すべきだった。二秒遅れました」

「自己評価が正確だ。次は一秒、縮めろ」

「承知」


 質疑は一人ずつ細部にわたり、言い訳の逃げ場がないほど具体だった。だがそれは責めではない。“明日のために掘る”ための針だ。

 最後に司馬教官が言う。

「よくやった。祠は研究局と上位班が封鎖・調査する。君たちは通常授業へ戻れ。――黒百合については口外するな。言葉は香りを連れてくる。以上」


 解散。扉を閉めた瞬間、四人分の息が同時に解放され、廊下の空気が少し温かくなった。


「うおお……肝が縮んだ」

 陽翔が胸を押さえる。

「でも、必要な言葉ばかりだった」

 エリナが小さい声で言い、ノエルは頷いた。

「“香りを追うな”。忘れない」


 ローザは黙って歩き出し、振り返らずに言った。

「食べろ。体温を上げる。――夜に備える」



 温室の食堂は香りの演劇だった。焙煎したスパイスが空気を彩り、バターの縁が皿の上で鈍く光る。長机に置かれた大鍋の前で行列がうねり、笑い声が湯気に混ざる。


「カレー二杯! 三杯! いや二・五杯!」

「整数で頼む」

「じゃ二杯! と、桜ゼリー!」

「甘辛の両極端……」


 ノエルはほどほどの量をよそい、窓際の席へ。外の空は群青に沈み、藤棚の影がガラスに薄く映っている。向かいにローザが座ると、香りの線が一本、ピンと張り直された気がした。


「手首、まだ赤い」

「うん。……朝まで残しておきたい」

「理由」

「“触れるな”って、体が覚えるように」

「なら、冷やし過ぎるな。痕が残ると実技に支障が出る」

「気をつける」


 スプーンが皿に触れる音が、話の合間を埋める。陽翔は隣のテーブルで誰かとじゃんけんをし、負けて残りの福神漬けを譲っている。エリナは斜向かいで小さくメモを取り、香りと脈拍の相関を書き留めているようだった。


「“怖がり方”は覚えたか」

 ローザが淡々と問う。

「少し。――怖いって認めると、視界が広くなる」

「そう。怖さは視野を狭めることもあれば、過剰な自信を削ってバランスを戻すこともある。自分の怖さを“道具”にすること」

「道具……うん」


 カレーの皿が空になり、温いハーブティーで香りの層を落とす。ノエルの体は、やっと今日が「終わりに向かっている」と理解した。



 寮の裏庭。夜の芝生は水を含んだ絨毯のようで、踏むたびに音が吸い込まれていく。頭上では小さな雲が早足で流れ、星はその合間に瞬いた。


「二拍で薄く、一拍半で戻す練習」

 ローザが剣を抜き、短く合図する。

「“今”」


 ノエルは息を整え、花弁を散らす。二拍。戻る。――一拍半。戻る。

 視界が白むギリギリの縁で、指先を引き戻す。香りに寄りたがる心を、胸骨のところで軽く押し戻す。

「戻れ」

 ローザの声が刃のように線を引き、ノエルはそこを踏み越えないで止まる。

「安定率、七割二分」

 エリナの声。懐中時計の秒針とノートの走りが、夜の静けさに細い音を刻む。

「七割二分は及第。だが、黒百合は合格点の外側から来る」

「分かってる」

「なら、もう一回」


 繰り返す。

 香りの輪郭に触れず、友情の線を太らせる。ローザの肩へ、陽翔の胸へ、エリナの指先へ。花弁はふわりと触れて、すぐ離れる。触れて、離す。

 十数回目で、ノエルの呼吸は汗の粒と一緒に軽くなってきた。疲れてからの一拍半は、練習の価値が高い。


「今日はここまで」

 ローザが剣を納め、背の汗を拭った。

「ありがとう」

「礼は――」

「勝つため」

「そう」


 短い笑いが重なり、三人は寮へ戻る。廊下の木は昼より柔らかいきしみ方で、灯りは人の影に合わせて明滅した。階段の途中、ノエルの耳がぴくりと動く。――一拍、遅いきしみ。

 足を止め、息を潜める。

 ……すぐ消えた。

「どうした」

「今、床の音が……いや、気のせいかも」

「“気のせいかも”を捨てずに覚えておけ。明日の自分が使うかもしれない」

「うん」



 温室の裏は、夜になると別の生き物の横顔になる。昼は人の手で調えられた庭仕事の気配が濃く、夜は植物の呼吸だけが支配する。

 そのガラスの縁で、見えないほど細い黒い糸がわずかに震えた。昼間、船の甲板の木目に潜んでいた“黒い花弁の欠片”は、港の風と一緒にここまで運ばれてきたのだ。

 糸はガラスのパッキンに沿ってゆっくりと移動し、隙間から内側へ滑り込む。湿度の高い空気が肌を撫で、夜の温室の匂い――土、湿り、花粉、微量の蜜。

 白百合の茎が、眠りながらわずかに震える。

 黒い糸は花粉の粒へ絡み、舌のない舌で香りだけを味わった。香りは記憶を持たない。だからこそ侵入に向いている。

 糸はそのまま動かず、ただ“待つ”。花の時間は、人の時間よりも遅い。黒百合は、その遅さに寄生するのがうまい。



 部屋でシャワーを浴び、髪を半分だけ乾かして、ノエルはベッドに腰を下ろした。ペンダントを外し、胸に当ててから枕元に置く。銀の冷たさは思考を澄ます。

 陽翔の笑い声が廊下の向こうから遠くに聞こえ、エリナの「静かに」の声がすぐにその上に乗る。ローザの足音は無駄がない。扉の開閉音さえ簡潔で、生活が剣の呼吸に似ている。


 ノエルは横になり、天井の木目を数えた。

 目を閉じると、花弁が降りてくる。二拍で薄く。一拍半で戻る。――繰り返し。

 母の庭。夕立のにおい。幼い自分の笑い。手をつないだ温度。

(私は、私の花で守る)

 言葉を心の真ん中に置くと、眠りは思ったより早く訪れた。



 夢の中で、ノエルは温室の前に立っていた。

 ガラス越しにぼんやりと白い輪郭が見える。百合の群れ。藤の鉢。薔薇の列。

 扉に触れようとして、彼女は二拍で手を引いた。――“香りに寄るな”。司馬教官の声が、夢の中でも骨の内側に残っていた。

 ガラスの向こう側で、白百合の一輪がわずかに首を傾げる。

 風はない。なのに揺れる。

 ノエルは“今”と胸の中で唱え、花弁を薄くした。香りの糸はすっと遠ざかり、ガラスの表面だけが冷たく残る。


 目が覚めた。

 まだ夜明け前。潮の匂い。静かな寮。

 枕元のペンダントが、銀の音を一度だけ鳴らしたような気がした。



 朝。

 鐘の音の一つ前に、ノエルは起きた。筋肉にはほどよい疲れ。鏡の前で襟を整え、昨日の赤い手首の跡を確かめる。色は薄くなり、触れても痛くない。――“忘れない”には十分だった。

 ロフトの上から陽翔が逆さに顔を出す。

「おはよっ! 俺、今日は“報告書→朝ごはん”の順番で頑張る」

「順番が逆」

「えっ、どっち?」

「“朝ごはん→報告書”」

「エリナ先生……」

「先生ではない」


 笑いながら階段を降り、廊下を抜ける。藤棚の房に朝露がきらめき、風が通るたび珠が落ちて小さな音を立てた。

 温室の前を通る。扉は鍵がかかり、内側の空気はわずかに温かい影をガラスに映している。ノエルは立ち止まり、深呼吸を一つ。香りは……濃くない。昨夜の夢のほうが濃かったくらいだ。


「ノエル?」

 振り向くと、ローザが立っていた。朝の紅はいつもより柔らかく、彼女の頬の線を薄く温めている。

「どうした」

「温室が、気になって」

「研究局が朝一で見る。君は授業に遅れるな」

「うん。行こう」



 午前の授業は座学だった。

 「花言葉史Ⅲ」。ミスティ教官が古い文献の引用を黒板に写し、花と記憶の関係を多面的に語る。

 “花は香りで過去に触れ、色で現在を染め、形で未来へ項(うなじ)を預ける”――古文。

 “香りは境界の言語。目に見えないが、最も遠くへ届く”――薬学者の備忘。

 ノエルはペンを走らせながら、香りの文句だけを二重線で囲んだ。


 休み時間。陽翔が机に身を乗り出し、小声で言う。

「ノエル、今日の放課後、軽く実技あわせる?」

「いいよ。――ローザは?」

 振り向くと、ローザはすでにノートを閉じ、立ち上がっていた。

「昼は研究局へ顔を出す。祠の件のヒアリングがあるらしい。夕方に合流する」

「分かった」


 やがてチャイム。次の授業へ移る行列の中、窓の外の温室に視線がすべった。ガラス越しに、白いものがかすかに揺れた気がする。光の加減だろうか。――ノエルは胸の真ん中で、二拍だけ息を止めた。香りは、追わない。



 昼。

 食堂の今日のメインは鶏の香草焼き。ローズマリーとレモンの香りが爽やかで、陽翔はご飯をおかわりした。

「この香り、好きだなぁ。森の入口の匂いとちょっと似てる」

「似ているが、こちらは“人の手”。入口のは“森の手”。似て非なるもの」

「エリナ、詩人?」

「現実主義者」


 ノエルは口に運ぶごとに、香りが安全であることを確かめるみたいに鼻から息を抜いた。香りは境界をゆるめる。けれど、料理の香りは境界の内側で人が調整したものだ。――その違いを、身体で覚えたかった。


 食後。ローザは研究局の棟へ、三人は実技の準備のために校庭へ向かった。芝は光を返し、午前の風は午後の匂いに変わりつつある。


「ノエル、今日は“視線の共有”をやろう」

 エリナの提案で、三人は位置取りの練習を始めた。

 花弁は肩口に薄く触れるだけ。陽翔の光輪は一重の最薄。エリナの幻影は敵ではなく味方の視線に薄い線を引く。

「ここ」

「そこ」

「今」

 単語だけが飛び、体が先に理解して動く。言葉は合図で、意味は受け渡しだ。


「ノエル、よくなってる」

 陽翔が額の汗を拭いながら笑う。

「俺、君の“触れて離す”のタイミング、もう身体が覚え始めてる気がする」

「ありがとう。――エリナの線も、見えるようになってきた」

「線は見えない。でも、見えると思う人は見える。そういう線」


 笑って、また繰り返す。

 そのとき、校庭の端で鐘が一つ鳴った。研究局の棟の方角。――合図か、時刻か。ノエルはほんの瞬間、温室のガラスが思考の端に透けたのを感じた。香りの気配は、ない。



 夕方。

 研究局棟の前でローザと合流する。彼女は少し汗をかき、額の髪が肌に張り付いていた。表情は相変わらず静かだが、瞳だけがわずかに熱い。


「どうだった?」

「祠は封鎖。内部から“外の糸”が伸びていた形跡。だが、いまは切れている。――温室にも仮点検が入る」

「温室……」

「問題は見つからず。――今のところは」

 今のところ。言葉の端に、薄い刃の感触がある。

「私たちは通常通り。焦るな」


 四人で夕練に移る。今日は“撤退からの再構築”。

 一度完全撤退の合図を出し、二十歩離れて呼吸を整え、再度の連携へ入る。その間、ノエルは花弁を完全に回収し続ける――香りの糸を残さないために。


「薔薇、空!」

 合図。紅い花が空に一輪。

 走る。止まる。呼吸。二拍で薄く。――戻る。

「再構築」

 ローザの声で位置取り直し。陽翔の光輪が最薄で広がり、エリナの線が足場に刻まれる。ノエルは胸骨の裏で花弁の密度を調整し、二拍で肩に触れ、一拍半で離す。

 繰り返す。繰り返す。

 暮色が濃くなり、芝の緑が青へと沈む。


「今日はここまで」

 ローザが剣を下ろし、いつもの短い締めの言葉。

 ノエルはふっと笑って、ペンダントを指で押さえた。銀の輪は汗で湿り、いつもより少し温かい。



 夜、温室のガラスの縁。

 黒い糸は、まだ“待っていた”。

 人の目では見えない細さで、花粉の粒と粒の隙間に身体を伸ばし、白百合の甘さを“香りだけで”なぞり続ける。

 温室の鍵は固く、窓は閉じ、夜の管理は行き届いている。――だからこそ、香りの侵入は見えにくい。

 黒い糸は、焦らない。焦りは香りを飛ばす。

 ただ、待つ。

 十分に“人の香り”が薄くなる時間を。

 十分に“花の香り”だけになる時間を。



 消灯前。

 藤寮の廊下で、ノエルはローザと短く会釈を交わした。

「おやすみ」

「おやすみ。――明日も二拍」

「うん」


 部屋に戻り、ベッドに潜り込む。天井の木目、窓の夜、潮の音。陽翔が小声で「今日は俺、勝った」と言い、エリナが「何に」と返す。

「眠気に」

「明日も勝て」

「任せて」


 笑いが布団の中で転がり、やがて静かになる。

 ノエルは瞼の裏に薄紫の光を見た。花弁。二拍。戻る。

 ――香りは追わない。

 呪文みたいに心の中でくり返し、眠りへ落ちた。



 夜半。

 温室の白百合の一輪が、誰もいない闇の中で微かに脈打った。

 黒い糸が茎の表皮に“香りで”触れ、細胞の間の水の温度をほんの一度だけ下げた。

 花は夢を見る。

 百合の夢は白い。

 そこに、黒の点が一つ、落ちた。


 その変化は、誰にも気づかれない。

 だが、香りは境界の言語だ。

 言語は、いつか必ず誰かに届く。

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