第2話:臨時の講義


 学校の時計が午後八時を指す。補習授業の時間だ。

 昨夜、掲示板のあの話を最後まで読んでしまったせいで、神谷徹は翌日、一日中あくびを噛み殺していた。気怠さが抜けず、授業中に眠ろうとするたびに、不意にあの老人の写真が脳裏をよぎる。そして、うつらうつらする意識の狭間で、あの虚ろで、死んだような瞳がどこかから自分をじっと見つめているような気がした。

 はっとして、身体が震える。それでまた眠気が吹き飛んでしまう。

「……また眠れない。あの写真、マジで呪われてるんじゃないか」

「おい、おい徹。ちょっと『ブツ』の話をしようぜ」隣からひょいと顔が覗き込んできた。ひょろりと背の高い生徒だ。

 彼の名は佐藤健太。徹のクラスメイトで、席も隣だ。

 徹は訝しげに言った。「なんだよ、『ブツ』の話って」

「へへっ、とぼけんなよ。お前が一日中あくびしてるのは見てたぜ。昨日の夜、えっちなことしすぎたんだろ」

 健太は徹の肩を叩き、声を潜めた。「最近、何かいいの仕入れたか?兄弟だろ、俺にもお裾分けしてくれよ」

「お前の頭の中はそればっかなのか。違うよ。昨日はスマホで怪談を読んでて、寝るのが遅くなっただけだ」

「怪談?怪談と言えばさ、神谷、お前ら知ってるか?ちょっと前にこの市内の団地であったっていう心霊事件」別のクラスメイトが話に割り込んできた。

「心霊事件?なんだそれ、聞いてないぞ」徹は訊ねた。

 健太が言う。「ああ、それ俺も知ってる。なんでも、ある団地の一室で、一家全員が一夜にして首を吊って死んだって話だろ?死体はベランダの柵に、まるで洗濯物みたいにぶら下がってたって。マジで怖すぎ。俺、そこの写真持ってるぜ。本物かどうかは知らんけどな」

 そう言うと、彼はスマホを取り出し、アルバムから一枚の写真を見せた。

 写真は夕暮れ時に撮影されたらしく、団地の日当たりの悪さも相まって少し不鮮明だった。だが、ベランダの柵に人型の輪郭がいくつもぶら下がっているのははっきりと見て取れた。ずらりと一列に並んでいる。ぼんやりとだが、一体一体の顔は苦悶に歪み、目は恐怖に見開かれていた。死ぬ直前に、一体何を経験したのだろうか。

 数体の死体が遠目に見ると、確かに干された洗濯物のようだった。さらに奇妙なことに、死体の頭は柵の内側(ベランダ側)にあるのに、身体は外側に垂れ下がっていた。あの柵の隙間を、大人の身体が通り抜けられるとは到底思えない。

 しかも、首はありえない角度で後ろに反り返り、折れているように見えた。

 細部を見れば見るほど、言いようのない不安と恐怖がこみ上げてくる。この写真は、徹がスマホで見たあの和服の老人の写真と相通じるものがあった。見る者の感情を直接揺さぶってくるのだ。

「うわ、お前その写真どこで手に入れたんだよ。俺、探しても見つからなかったのに」と、隣の生徒が言った。

 健太は得意げに鼻を鳴らす。「友達が通りかかった時に撮ったんだよ。今はもうあの辺一帯、立ち入り禁止になってるから撮れないぜ。欲しかったら『健太様』って呼んでみろ。そしたらやるよ」

「……お前ら、同じ義務教育を受けたはずなのに、なんでそんなに面白いんだよ」徹は呆れて言った。

「俺たちは塾で英才教育を受けてるからな。お前には真似できない芸当だ」健太は胸を張った。

「心霊事件といえば、最近ネットでもそういう話よく見るよね。すごくリアルで、怖くて最後まで読めないのもあるし。ああいうのって、本当にただの作り話なのかな?もしかして、本当に幽霊が出る場所ってあるのかな……」

 近くの席の鈴木美紀という女子生徒が、不安そうに話に入ってきた。

 徹は答えた。「ネットの話なんて、ほとんどが嘘っぱちだよ。この目で見るまでは、俺もこの世に幽霊がいるなんて信じない。……ただまあ、『信じる信じないはともかく、敬意は払え』って言うしな。もし本当にそういうのに出くわしたら、関わらずに逃げるのが一番だろうな」

「だよね……」美紀は頷いた。

「静かにしろ!おしゃべりはそこまでだ」

 その時、担任の田中先生が声を張り上げ、大股で教室に入ってきた。「学校からの臨時通達だ。今日の補習は急遽、安全対策に関する広報講義に変更する。これから講師の先生がお話しされる間、私語や授業の妨害は一切許さん。では、桐島さん、お願いします。皆さん、拍手で迎えてください」

 徹は拍手をしながらも、内心で首を傾げた。こんな時間に、安全講義?

 しかし、講師であるその桐島という男が教室に入ってきた瞬間、彼のまぶたがぴくりと痙攣した。

 桐島と名乗る男は、まだ蒸し暑い季節だというのに、灰色のトレンチコートを羽織って全身をきつく覆い、マスクまでつけていた。胸からは何かの身分証がぶら下がっている。だが、何より異様なのはその容貌だった。彼の顔は極度に痩せこけており、ほとんど皮と骨だけだった。頬骨の輪郭がくっきりと浮き出ている。そのせいで両目がやけに大きく見え、中は酷く充血していた。何日も眠っていないかのようだ。

 そして、その削げ落ちた顔の下で、腹だけが不自然に、高く突き出ていた。

 まるで肥えたビール腹のようだが、ビール腹の持ち主がここまで痩せているはずがない。

 異常。気味の悪い異常さが、見る者の心に不安を植え付ける。

 今、桐島は教壇に立ち、全身から陰鬱で、憔悴しきった、生気のない空気を発していた。身体は硬直したまま動かず、充血した瞳だけが、光のないガラス玉のようにゆっくりと動く。

 その視線が向けられた生徒は皆、理由のわからない恐怖に身を竦ませた。

 徹は無意識のうちに拳を握りしめ、全身を硬直させた。とても直視できない。

(この感じ……あの写真を見た時よりも、ずっと強烈だ……)

「皆さん、こんにちは。私は桐島と申します。大京市の担当責任者です。本日、こうして生きて皆さんの前に立ち、お話できることを嬉しく思います」

 桐島はようやく口を開いた。彼の声は乾いていて、嗄れていて、耳障りだった。まるでガラスで地面を引っ掻くような音だ。その痩せこけた顔と相まって、聞く者をぞっとさせた。

 生きて、皆さんの前に立ち、お話できる?

 徹は心中でぎょっとした。その言い方、どうにもおかしい。

 桐島はチョークを手に取ると、黒板に振り返り、走り書きのようでいて、しかしはっきりとした、巨大な一文字を書いた。

 怪

「怪異の伝説は、古来より存在します。我が国の歴史だけでなく、世界各国の歴史の中にも登場する。私は歴史に明るくないので、古代のことは詳しく語れませんが、言いたいことはお分かりでしょう」

 桐島は嗄れた耳障りな声で、ゆっくりと続けた。「しかし、今や、皆さんもいくつかのことを信じざるを得なくなりました。近年、心霊事件は爆発的に増加しており、もはや単発の事件というレベルではない。徐々に、全世界的な大災害へと変貌しつつあります。この状況が効果的に抑制されなければ、未来は……おそらく、この世界に未来はなくなるでしょう」

 その言葉を聞いて、誰もが戸惑った。

 安全講'義が、いつの間にか怪談大会になっている。

 しかも、世界が滅ぶとは、あまりにも大袈裟ではないか。

 生徒だけでなく、担任の田中先生も呆気にとられていた。

「これ以上詳しいことは話せませんし、皆さんも質問しないでください。ですが、これから私が話すことだけは、どうか、肝に銘じてください。今回のこの講義が、いつか皆さんの命を救うことになるかもしれません」

 桐島は話を続けず、再び黒板に向き直り、一文を書き記した。

『怪異は殺すことができない』

「そう遠くない未来、皆さんは、永遠に出会いたくない状況に遭遇するかもしれません。例えば……怪異との遭遇です。出鼻を挫くようで申し訳ないが、この言葉を覚えておいてください。怪異は殺せない。ですから、極度の恐怖の中にあっても、そいつと命懸けで戦おうなどとは決して考えないでください。皆さんの命など、奴らの前では何の価値もない。奴らが皆さんを殺すのは、蟻を踏み潰すようなもの。いえ、もっと簡単です。瞬き一つ、指を鳴らしただけで、皆さんは終わりです」

 彼は充血した憔悴の目で全員を真っ直ぐに見つめ、この上なく真剣にそう言った。そして、また黒板に向き直り、二つ目の文を書いた。

『怪異に対抗できるのは、怪異だけだ』

 桐島は再び口を開く。「もし怪異が殺せないのであれば、各国が保有する科学技術は何の役にも立たないということです。爆弾も、核兵器でさえも、全くの無意味。将来、科学者が“怪異”の謎を解き明かせない限り、現状では、怪異を以て怪異を制す、この方法しかありません。皆さんが疑問に思っていること、あるいは私が精神を病んでいると思っている人がいることもわかっています。ですが、そんなことは重要ではない。重要なのは、私の話を聞き、その言葉を脳に焼き付けることです。いずれ、役に立つ時が来ます」

「もちろん、皆さんが永遠にこれを使うことがないよう、願っていますがね」

「おい徹、この人、何言ってんだ?俺、全然わかんないんだけど」隣で健太が小声で囁いた。

 徹は答えた。「俺にもよくわからない。でも、この話を聞いてると、なんだか胸騒ぎがする」

「まさか地球が変異したとか?ラノベみたいに?」

「さすがにそれはないだろ……」徹の言葉には、確信がなかった。

 神や超能力の存在を夢想したことはある。だが、もしそれらが本当に現れたとしたら、一般人である自分たちにとっては、計り知れない脅威でしかないのだから。

 教壇で、桐島は続けていた。

「怪異が殺せず、なおかつ常識を超えた能力を持つ以上、これら二つの状況を組み合わせると、一つの問いが浮かび上がります。もし、一般人が怪異に狙われたら、どうすれば生き残れるのか?ここが要点です。覚えてください。永遠に。できれば、一生」

 そう言って、彼は振り返り、三つ目の文を書き記した。

『怪異のルールを見つけ出すこと』

「あらゆる事象にはルールがあります。怪異も例外ではありません。我々の研究データによれば、全ての怪異は、ほぼ固定化された殺害方法と行動パターンを持っています。まるでコンピュータープログラムのように。電源ボタンを押して初めてPCは起動し、マウスをクリックして初めてソフトウェアが開く。恐怖を克服し、怪異のルールを見抜き、その隙を突く。それが、一般人が怪異に狙われた時、生き残るための唯一のチャンスです」

「覚えておきなさい。もし怪異に遭遇したら、この方法以外に助かる術はない。僥倖を期待してはいけません。奴らの恐怖は、皆さんの想像を遥かに超えている」

 彼は、重々しい口調で、もう一度繰り返した。

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ルールに殺される:この呪われた目で怪異を封じ込める 灰二 @17772347509

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