ふくふくと輝く昼下がり

れん

ふくふくと輝く昼下がり

 吐出口に噛ませたフィルターを浄水側に切り替えて、ポットにふたり分の水を注ぐ。本当は水もきれいな方がおいしくなるんだろうけど、水質の『じょう』というのは見ればきりがないし、何より蛇口を捻れば無限に出てくるそつのないそれを、僕たちはわざわざお金を出して買ったりしない。

「何食べますか?おやつ」

 キッチンとソファの、もっと向こうに話しかけながら、僕はポットの電源をかちりと入れた。本当にスイッチを手前に倒すやつで、もちろんお湯は1秒で沸かない。このあたりについてまでは、僕にも不満はない。ポットの『』というのにもきりがないからだ。

「あれ?ポテチ、……」

 フィルターを折って、スプーンもりもり2杯分。ちゃんと用意しておいてから、お湯が沸くまでの間にちょっとだけ、先におやつを食べることにした。いつのまになくなったポテチの代わりは、さっくり焼き上げられた世界一おいしいスティックラスクだ。近所のスーパーが惣菜パンの余ったミミを再利用して作っただけのこの素朴なラスクに、僕たちは長いこと心を奪われている。

「……はぁ」

 ポットの口から湯気が吹き出し始めた。本当なら沸騰したら自動で跳ね上がるはずのボタンは倒れたままだ。でもこれはいつものことだ。もう何年も前から壊れているからだ。温かい水を生成できるならまだ故障じゃないからということで使い続けているけれど、本当は買い替えたい。物理ボタンが存在しない、1秒でお湯が沸く電気ケトルが欲しい。『下』にはきりがないとはいえ、元々備わっていた能力分くらいは働いてくれないと嫌だと思うのは、たぶん僕だけじゃないはずだ。

「聞いてますか?おやつ、どうします?」

 ゆっくり、小さな『の』の字を描くように。

 コーヒーは好きだけど、ここは面倒だと思う。時間がかかりすぎるし、その割に味に差がない。でも挽いた豆がふくふくと浮いてくる、この瞬間が僕は好きだ。スフレを作っているみたいな感じが楽しい。だから一応は静かに、本当のやり方よりだいぶ早いんだろうけど、少しずつ、遺物みたいなポットからお湯を注ぐ。

 フィルターと豆の境目ぎりぎりに。ふくふくをまんなかに集めるようにして。きれいに盛れた。いい眺めだ。

「……」

 いい香り。コーヒーの香り。鼻先を流れる、焦げたような豆の香り。幸せの香り。

 ラスクをもうひとつ齧る。口の中に満ちるさくさく音。いい感じの焼き色を晒すパン生地と、大粒の砂糖を噛み砕く、乾いた音。他には何も聞こえない。

 何も、聞こえない。

「やっぱり……」

 カップをふたつ持って行ったリビングで、彼は寝ていた。やっと秋らしくなってきて、ベランダに面した大きな窓から入ってくる空気は心地いい。昼寝には最高だろうと僕も思う。

「せっかく淹れたのに」

 こう薄情に見えて、彼は優しい。頭が良くて、体力もある。顔もいいし、声もいい。背はそんなに高くないけれど、きっと子どもの頃からものすごくモテたんだろうなという感じがする。

 実家はお金持ちで、本当ならやらなければならないことが山ほどあるらしいのに、そういうのはみんな放ってこんなところで寝ている。僕と付き合っているせいで勘当されたんじゃないかと僕は疑っているけど、問いただしたところで正直に答えるはずがないので、結局はわからないままだ。

 わからないことはたくさんある。けど、でもこれが彼だ。

 多分本当は色々抱えていて、話してくれていないこともきっとあるんだと思う。でも、それが彼だ。僕の知らない顔があるとしても、ちょっとふつうとは違う人なんだとしても、僕には飾らないでいてくれていることが嬉しいから、僕はそれでいい。


 カップを置いて、ラスクを並べた皿を取りにキッチンに戻る。白いセラミック製のそれを、僕は彼を起こさないように、音を立てずにそっと、ふくふくのコーヒーたちが並んで待つ隣に添えた。

「……ああ、…ラスクか、いいな」

 コーヒーの香りじゃなく、ラスクの気配で目を覚ますあたり、やっぱり彼は少し、変わっている。

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