薄明に問う / Sanctuary: Sacrifice
早蕨足穂
GENESIS
In the beginning
力が、欲しいと思った。
すべてを守れるだけの力が欲しいと思った。
もう二度と、何も失いたくなかった。大事なもの、大切な人、己の信念、それらすべて、守れるだけの力を欲した。対価として何を差し出したってよかった。二度とこんな思いをしないで済むのなら、私の命以外で得られるのなら、安い買い物だ。
そう、思ったから。
悪魔は、私の願いに応じた。
「——やあ、子羊ちゃん。力が欲しいって願った? だったらオレはアタリだよ」
くるりと宙で一回転する、チョコレート色の髪の男。片方だけ見える瞳は紫で、人間が持ちうる色ではないから、ああきっと彼が悪魔なのだと、思った。
部屋の薄暗がりのなかで、蝋燭の火がちろちろと揺れている。それに照らされて浮かび上がる顔は美しく整っていて、礼拝堂に飾られている絵画のようだった。
彼は私の頭から爪先まで、値踏みするような視線で無遠慮に眺め回した。
「オレもアタリ引いたみたい! キミ、
「……
彼はきょとんとして、それからくすくすと笑い出した。相変わらず、宙に浮かびながら。
「いいね、オレ面白い子は好きだよ。契約しよう、子羊ちゃん? キミがほかの、取るに足らない悪魔どもに掻っ攫われちゃう前にさ」
にんまりと笑って、悪魔は私のそばに顔を近づけてきた。喰われる、と思わず身構える。すると彼はまた、大きな声をあげて笑う。「静かにして」私は小さな声で懇願した。修道院長が起きてきて見つかったら、謹慎や反省文では済まされない。異端審問官に引きずり出されて、火刑に処されてしまう。まだ、死ぬわけにはいかなかった。
「おっと、仰せのままに。お姫さま」
男は薄く形のいい唇に人差し指をあてがい、口の端を引く。
睨みつけてやると、肩をすくめる。私は悪魔の御し方を、一つしか知らなかった。
「名前は?」
ほんとうの名前を知れば、相手を縛ることができる。私が読んだ魔導書にはそう書いてあったし、実際に魔女が悪魔らしいものを呼んで制しているところを、見たこともあった。
悪魔は面食らったように瞬きをし、小首を傾げる。「それが、ちょっと面倒でね」
「オレ自身に名前はないんだ。『私』にはあるんだけど」
「『私』? ……おまえは、一人ではないの?」
「私は地獄の王でね」彼の纏う雰囲気が変わる。「君の望みを叶えるために、力の一部に姿を与えて『オレ』を作ったのだよ。故に『オレ』は私ではない。だから、名前がない」
「……じゃあ、どうやっておまえを縛ればいいの」
「そりゃまた、直球だね」彼は愉快そうに笑う。「簡単だ。キミがつけてくれればいい」
「できないわ」
悪魔に名をつけるということは、現世への存在を許すということになる。
万物は、名前があるから存在することができる。名前がないものは存在を許されない。
「じゃあ、なんのためにオレを喚んだの?」
「私は……」悪魔の足元の、魔術陣に目を落とす。
「大丈夫だよ」
彼の指が、私の頬に伸びる。するりと撫でられて、体が硬直する。恐ろしい。このまま殺されて、たべられてしまう。私は死ねない。まだ。なのに、この悪魔は——
「きみの願いを叶えてあげる。だから、オレに名前をつけて」
「あ、」
背中を流れ落ちる汗のつめたさに、私は一歩も動くことができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます