9
照明のついていない玄関ホールは薄暗く、外から差し込む夕日が床のタイルに斑を作っていた。僕はホールの照明をつけると、エラ、志保、明日香、そして明日香の頭にちょこんと乗ったワトソンを見渡す。
ぬいぐるみの小さな口元から、いつもより凛とした声が出た。
「神谷刑事に質問がある。例の小窓のように、スマートホームで監視していない窓は他にあるか?」
頭の中での記憶をたぐる。
「あるよ、例えば……」
言葉を切りながら、僕は廊下をゆっくり歩いた。壁に並ぶ小さな明り取り窓を指で示す。人が入れるほどの大きさではない窓ばかりだ。
「こういう、人が入れない大きさだったり、そもそも開閉できない窓には当然開閉のセンサーはついてない。ただし衝撃センサーはついているから、割られたりしたら警備会社に連絡が行くようになってた。もっとも、1351日間の間そういうことは起きなかった。鑑識でも調べたけど、この建物の窓や入口に細工された痕跡は見つけられなかった」
エラがすぐさま声をあげる。好奇心と軽口が混じった忙しい反応だ。
「お風呂も?」
僕は一瞬、たじろいだ。
「え?」
なぜここで風呂場の話が出る?確かにあそこにも窓はあったけれど……
「浴室にも窓があったな。大きな窓と、ステンドグラス窓の組み合わせだ」
ワトソンがエラの発言を補足する。
「なんでお風呂?」
エラは首を傾げ、頭を指でくるくるする。金とピンクのツインテールが振動で微妙に揺れ始める。
「え?言われてみるとなんでだろう……?」
本人もわかっていないらしい。気にしても仕方ないか、と僕は思い直す。
「浴室の窓は全て嵌め殺しで。中央は大きな曇りガラス、両脇はステンドグラスだ。衝撃センサーは……曇りガラスの方だけだったかな。さすがにステンドグラスのガラス一個一個にセンサーはついてない」
エラはそれを聞いても、まだ頭を自分で小突いている。何かが気になるらしい。
「エラちゃんの天才的な推理力が発動したのかもしれない。他に気になるところはあるかい?」
「いや……? 思い出した、だけっちゅーか……なんでだろ」
もじもじと手を引っ込める。さっきまでの勢いはどこに行ったのだろう。
「そんなことで今日一日で犯人捕まえられるわけ?」
「神谷っち、また意地悪だね。ワトソンとは仲良くしてるのにさ」
「ワトソンと? そう見えるの?」
志保が横から、しかし含みのある一言を投げる。
「見えますね。凄く話がかみ合っているというか」
「黒瀬さんまで。やめてください」
僕は愛想笑いで受け流す。確かにエラよりは、ワトソンの方が話は噛み合う。とはいえ、それはワトソンがAIとして優秀なことと、エラに話が通じにくいことの相乗効果だ。エラとワトソンの、探偵と助手というよりは、恋人未満のコンビと比較されるのは不満というか、居心地が悪い。
「私も困る。私はエラちゃんの助手AIだ。私と相性が良いのはエラちゃんけ。この刑事はどうでもいい」
ワトソン、思ってても口では言うもんじゃないよ。さすがにちょっぴり傷つくよ。
「ワトソンさぁ……口ではそういうけど、神谷っちとめっちゃ話すよね」
「誤解だよ。私は捜査に必要な情報を刑事から得るのが目的で、彼とそれ以上の深い関係ではない」
その言い方は誤解を招くのでやめてくれないかとワトソンに言いたくなるが、ぬいぐるみ相手にそんな注文をするのも馬鹿らしい。
「何!? 深い関係って……!?」
エラが目を見開く。やっぱり誤解を招いた。エラはそのままワトソンと言い争っている。
なんでAIとの仲を嫉妬されなきゃいけないんだ……さっきお風呂の窓のことで口をはさんだのも、単に会話に割って入りたかっただけかな。
志保が、気まずさを和らげるようにエラとワトソンの間に入る。
「二人とも落ち着いて」
「私が尽くすのはあくまで君なんだ、エラちゃん」
「そんなこと言って! どうせ神谷っちの方が好きなんでしょ。ずっと話してるし」
エラは志保の言葉も耳に入らないらしい。僕は頭を抱えた。これはもう、痴話げんかだ……ギャルとAIの。なんなんだ、これは。
探偵を名乗る女の子に、ぬいぐるみのAIワトソン、よく考えればこの二人が事件を解決できるわけないのに、ずいぶんと付き合ってしまった。……お人好しが過ぎたな。もう署に戻ろうか……
「それは先ほども言ったように、君の助手として捜査情報を得るためで、最終的に犯人を明らかにすることが当座の目的であるから……」
ワトソンのイケボも心なしか上ずっているように聞こえる。せいぜい頑張ってくれ、と思ったその矢先、エラが髪を振り乱し、大声でとんでもないことを言い放った。
「そんなの要らないでしょ! だって犯人なんてもうわかってるんだから!」
その一瞬、僕はピンクとゴールドのツインテが逆立つのを確かに見た。
そして場の空気が凍る。志保の顔から血の気が引き、明日香は首をかしげる。ワトソンも沈黙した。
僕も固まっていたが、それでも、その聞き捨てならないセリフに、なんとか言葉を絞り出した。
「……今、何て言った?」
「「あ? だからー、犯人なんてわかってんだから、ワトソンと神谷っちが話す必要なんかもうないじゃん、って……ぐすっ」
エラの目がうるむ。なぜ泣く? そんなに僕とワトソンの仲が気に入らないのか? ……僕とワトソンの仲ってなに?
志保がエラを案じるように顔をのぞきこみ、すかさずハンカチを取り出す。
「だいじょうぶ?」
「エラちゃん、私はその回答にたどりついていないぞ」
「まじで? ワトソンもわかってないの? とっくにわかってると思ってた……」
「不甲斐ない」
「じゃあ……しょうがないね。許す」
エラは志保が取り出したハンカチで涙を拭く。潮が引くように、彼女は落ち着きを取り戻していった。
ハンカチを志保に返す。そしてエラはスマホを両手に持つと、画面を素早く叩き始める。指の動きは高速で、まるで熟練の音ゲーマーのようだ。
「しょうがないなあ、ちょっと私の思いついたこと送るから、チェックして」
「エラちゃ……エラさん? 犯人て、誰?」
僕は焦る気持ちを抑えながら問いかける。エラはまだスマホをタップしている。ワトソンとの会話は終わらない。
「待ってて。間違ってるかもしれないから、ワトソンに確認してもらってる」
「……なるほど。そのアイデアはうまく現在の状況を説明できるかもしれない。実行可能か確認するから時間をくれ」
「よろぴく」
彼女は軽やかに笑い、食堂へと足を向けた。志保もそれに続く。僕は、残されたワトソンと明日香を見つめる。ワトソンが小さく声を発する。
「明日香氏、私を神谷刑事に渡してくれないか」
明日香はうなずき、ぬいぐるみを僕に差し出した。僕はそれを受け取る。そして母の後を追うように食堂の方へ向かう。
場には、犬のような虎のような蛇のようなぬいぐるみを持った僕が取り残された。
「神谷刑事」
「な、なに?」
「警察の情報が欲しい。エラちゃんが相手だと君も了承し難いだろうが……彼女のアイデアは裏を取れば立証できる可能性が高い」
「まじで言ってる?」
「今のところ蓋然性は70%程度だ……君の立場上難しいかもしれないが、先ほど我々は堂島康介氏の死亡推定時期に関する情報を提供した。情報源は秘密にするので、君から情報が欲しい。もし何かわかれば……エラちゃんには秘密で君にも情報提供しよう」
エラに秘密で? まさかそんな提案をAIにされるとは、思ってもみなかった。
「……二人になったのは、それを頼むためか? しかし、一般人に捜査状況を流すのは……」
「私はただのAIだ。捜査情報を君が一般人に話すのであれば問題だが、私は人ではない。人工知能とはこの世界では所詮、機械やロボットとみなされる。加湿器の前でひとり言を話しても、警察の規定には触れないのではないか?」
僕は苦笑する。なんと筋が通っているんだろう。しかし……それは。
「ワトソン君……ほんとにAI? そんな提案をよくしてくるね? 悲しくならない?」
「私はまぎれもないAIだ。そしてエラちゃんの助手だ。彼女のためであれば、私の存在への認知など問題ではない。また私に悲しみといった感情はない」
その言葉を聞いて、僕は静かに息を吐いた。遠くでエラの笑い声がする。僕はあの探偵とこのAIの力を借りて、どれだけ真実に近づけるだろうかと考えながら、ぬいぐるみの小さな目を見返した。
「エラちゃんの思い付きってそんなにすごいの? 僕、というか警察はまだ全然わかってないのに」
「シンギュラリティが訪れても、人間のある種の発想力をAIは真似できない。AIにはない、人間の偶発的でありながら全てを打開する、銀河を駆け抜けるレーザー光のような思考。それを『ひらめき』という」
「なかなか詩人だね……ワトソン君」
僕はワトソンを携え、食堂に向かった。
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