食堂の隅で、僕は壁に背を向けてスマートフォンに小声を落としていた。

「いやあれは……情報提供があって……提供元は言えません! すみません」

通話を切ると、肩から力が抜ける。課長にしつこく問い詰められて、胃のあたりがまだ重たい。

振り返れば、テーブルの端に志保と明日香、そしてエラが集まっている。中央には例のぬいぐるみ――ワトソンがちょこんと置かれ、場を支配しているようにも見えた。実際は僕の動揺がそう見せているだけだろう。僕はため息をひとつつき、彼女たちのもとへ歩いていった。

「ワトソンのレポートは捜査本部に送った。課長にしつこく聞かれたよ……骨が折れた。ただ、こっちの確認が済むには時間がかかると思う。何日かかるか……」

「で、神谷っちは信じるの? ワトソンのこと」

エラがこちらに目を向ける。信じる?何を?ワトソンの解析結果を?それともワトソンに人格があることを信じろとでもいうのかい?こっちは状況を理解するだけで精一杯だというのに。

「もともと君たちの調査は、僕とは関係ないはずだから、信じようと信じまいと君たちのやることは変わらないだろう……」

「そういうことじゃなくて! ワトソンのこと、ほめてあげてよ!」

エラがテーブルをトンと叩く。机の上に乗っていた金とピンクの髪の毛がわずかに揺れた。

「え? そういう要求?」

思わず聞き返すと、例のぬいぐるみが口を開いた。

「いいんだエラちゃん。AIが警察の捜査力をわずかでも上回るなど、彼には即座に受け入れるのは難しい話だ。シンギュラリティは否定的感情を生む」

「そこまで言われるほど悩んでるわけじゃないけどね。ま、保留だよ」

僕は椅子を引いて腰を下ろした。

「なんか神谷っちさー、元気なくない? 一日で事件を解決するってうちらが言ったときは、あんなに怒ってたのに」

「ああ、そんなこともあったね……」

たかだか数時間前の話だったのに、もう何日も経った気がする。色々ありすぎた……もう疲れたよ……

そんなことを考えていたら、エラが顔を覗き込んでくる。距離が思った以上に近くて、心臓が跳ねた。

「おわ!」

「なに?」

「いや……ま、あれはちょっと腹が立っただけだよ」

「じゃあうちらの勝ちだね」

エラがギャルピースを僕の顔に向け、ニッカ―ッと笑う。金とピンクの編み込みツインテがシャランと音を立てるかのように舞う。その笑顔に、沈んでいた僕の心は勇気づけられる……ではなく、ふつふつと怒りがわいてくる。

「はあ? それは一日で事件を解決したときに言ってよ」

「あ、そこはそのままなん? おっけ、やってやんよ」

エラは勢いよく立ち上がり、僕に向かってシャドーボクシングを始めた。ツインテが左右にぶんぶんゆれる。

「シュッシュッ!」

思わずのけぞる。その様子に思わず苦笑し、怒りはどこかに過ぎ去ってしまう。ほんと、この子のエネルギーはどこから出てくるんだろう。

「あの、神谷さん」

志乃の声が控えめに割って入った。

「はい?」

「康介さんの死亡時期が32日目だとして……犯人は絞り込めるんでしょうか?」

「仮定の話ですけど……難しいですね。結局3年以上前でしょう? 周辺の聞き込みで不審な車両とかも洗ってますけど、人の記憶ってだんだん曖昧になりますからね。監視カメラの映像とかもほとんど残ってないし。どれぐらいそのときのことを覚えている人がいるか……それこそ、ここ半年とかならまだなんとかなるんですが、その頃には康介氏はとっくに亡くなっている……」

「そうですか……」

志乃さんは目を伏せた。その様子を明日香が見つめる。3歳の子どもに僕たちの話していることはわからないだろうが、母親の気持ちだけなら感じ取れるだろう。

「それこそ犯人の狙いかもしれない。超長期密室は二段構えだった。死亡推定時期がわかっても、時間の経過自体が次の扉になる」

ワトソンの声は落ち着いているのに、妙に冷ややかに響いた。まったく冷静に、残酷なことを言ってくれる。血も涙もない。AIだし。

「それを開ける鍵はあるかい? ワトソン君」

「もー、君はつけないで!」

「はいはい」

エラがすかさず突っ込む。エラが唯一イラつくのはこのことだけだ。こうでもしてからかわないと、やってられない。

「その鍵を見つけるのは難しい。風化してほぼ失われたからだ。この密室はしたがって解けない。完全な密室だ」

「ワトソン、オタク出てるよ」

エラがしかめっ面をする。

僕は重いため息をついた。

「はあ……わかったのは堂島翔が犯人である可能性が低くなっただけ……捜査はむしろ迷宮に向かってるよ……ていうか犯人じゃないなら姿を表せばいいのに……遺産で借金返せるだろ」

食堂の広い窓の外を見やる。紅葉が綺麗だ。仕事でなければドライブでもしたいところだけど。

やさぐれていると、エラが僕の顔を、珍しく無言で見ていた。

「仕事がうまくいかないから元気ないんだ、なるほどね~大変だあ~」

「君はホントずばずば言うね。そう思うなら少し考えさせてくれ」

エラは僕に興味を失くしたようでワトソンを見る。

「こっちだって考えなきゃ。翔っちが犯人だって証拠を見つけて、それで取引して明日香っちと康介っちのDNA鑑定をしてもらうつもりだったでしょ?」

しかし"っち"が多いな、コイツは……。あと、正確にはDNA型鑑定な。ワトソンぐらいしか使ってないけど。

「今分かっている事実では、それは見込めない」

ワトソンが即答する。

「そうなのよねぇ……」

志乃さんが小さくうなずく。沈黙が訪れる。

ふと、明日香がワトソンの頭をなでる。エラは特に気にしていないようだ。

彼女はワトソンを持ち上げ、目を見つめたり、自分の頭に乗せたりしている。ひょっとして気に入ったのだろうか。

「ワトソン! なんか他に方法ある?」

エラは明日香の頭の上のワトソンを引き戻し、その目を見つめる。

「そうだな、案1、堂島義久氏の弱味を見つけ……」

「それさっきも言ってたよね? 刑事の前で脅迫の相談やめてね」

僕はすかさず釘を刺した。ワトソン君は論理には強いが、倫理はエラに追従してどこかに捨て去っている。初めからないのかもしれないが。

「だめだってさ!」

エラは口をとがらせ、ワトソンをテーブルに置く。

「理解した。では確度は下がるが、犯人を見つけるのはどうだろう? 兄を殺した犯人を義久氏は知りたいだろう。それを条件にすれば取引に応じるかもしれない」

「う~ん、あの方が応じてくれるかしら……」

志乃さんが頬に手を当てて考え込む。

重苦しい雰囲気を破ったのは、やはりエラだった。

「ま! 調べたら新しいことわかるかもしれないし! やってみよ!」

「未知の事象に期待をするのは確実とはいえないよ、エラちゃん」

「うちがやるって言ってるんだからいいの。ぜってー見つけるし」

「そうだね、エラちゃんは絶対手がかりを見つけるね」

この娘には平気で嘘つくなあ、ワトソン。嘘っていうかすり寄りっていうか……いや、AIだもんな。本音とか嘘とかないのか。ワトソンと話しているときは、エラよりよほどまともに会話ができてる気がするのに……。

「神谷刑事」

「は、はい!?」

予想外に呼ばれて、肩が跳ねる。

「超長期密室について再度検討した結果、まだ確認していないことがあった。質問したい」

「なにさ?」

「別荘の鍵は1351日間一度も空いていない。その間、堂島康介氏は食料品などをどうやって入手し、屋敷に運び込んでいたのか?」

「ああ、それね。それも説明するとややこしいんだけど……実際に見た方が早いか」

僕は立ち上がり、三人を促して玄関に向かった。


《8》

玄関を出ると、外気の冷えが漂っていて、僕は思わず肩をすくめた。周囲の林や芝生から発せられる草の香りがわずかに混じっている。

エラと明日香が僕の横に立っている。ワトソンはというと、明日香の頭にちょこんと乗っていて、王冠のような扱いを受けていた。

「明日香っち、ワトソン気に入ったの?」

「うん」

「君は見込みがあるね~」

エラがしゃがみこんで、明日香の頭をくしゃくしゃ撫でる。その光景はやけに微笑ましい。一応、殺人事件のあれやこれやを説明に来たんですよ?

「みなさん、既に一度入ったと思うけど、ここが正面玄関」

僕は努めて事務的に説明を始めた。

「そうそう、着いたとき変だなって思った」

「変?」

「だって」

エラが自動ドアの前に立つと、機械音とともに左右に開いた。その先には、横三メートル、奥行き一メートルほどの空間がぽっかり空いている。さらに奥に観音開きの重厚な扉が構えている。

「扉が二つある」

エラが言うと、僕は思わず笑ってしまった。

「?」と首を傾げる彼女の代わりに、ワトソンが落ち着いた声を響かせる。

「二重扉だ。寒冷地では冬場の暖房効率を下げないために建築物に一般に採用される。防犯も兼ねているのだろう」

「へー、ワトソンよく知ってるねー」

この場で知らなかったのは、正直エラと明日香だけだと思うんだけど……まあ言わないでおこう。

僕は一歩前に出て、二枚目の観音扉の脇にある小窓を指さした。床近くに小さな――三十センチもないぐらいだろうか、正方形の小窓がそこにあった。板は壁に負けず劣らず頑丈な造りだ。

「この小窓は、外からの配達物の受取に使うために設置されている」

明日香の頭の上のワトソンが声を発する。

「さきほど見たスマートホームのログでは、この小窓の開閉記録はなかった」

「これについている内鍵は普通の鍵だよ。センサーとかはついてない。人が通れる大きさじゃないからね」

僕は観音扉に向かって声を張った。

「黒瀬さん、開けてください」

内側から志保の「はい」という声。モーター音が低く響き、扉が解錠されて開いていく。志保が立っていて、僕たちは二枚目の扉をくぐった。

中へ入ると、僕は改めて家の内側から小窓を指し示す。鍵穴のついた板がはめ込まれており、横に蝶番がついている。

「これがさっきの小窓」

「一般的なシリンダー錠のようだな。内側からのみ鍵がかかる」

「その通り」

エラのスマホのカメラ越しなのだろうが、よく見ている。全く優秀な助手AIだ。それについてはさすがに認めざるを得ない。

するとワトソンが、唐突に妙なことを言い出した。

「エラちゃん、頼みがある」

「なに? うち、ワトソンの言うことなら何でも聞いちゃう」

「なんでもなんて言うものじゃない。君は立派なレディだから、嫌な時は嫌というべきだ。自分を大切にするんだ」

「わかった! うちは自分のこと大事だし、でもワトソンもだーいすき!」

……何を聞かされている?

隣の志保も小声で「あの二人ってどっちが主人なのか、ときどきわからなくなるんですが……」と僕につぶやいてきた。

「二人というカウントでいいのかすら僕は迷ってます」

思わず僕も正直に返してしまった。

「で、何すればいい?」

「あの小窓を君が通れるか試してくれないか」

「うちが? ま、いいけど……」

ワトソンに言われてエラが小窓に近づいていく。

「鍵を開ける必要があるね」

この屋敷の鍵のスペアは一応僕が預かっている。僕はポケットから小窓の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。蝶番を軸に固くて厚みのある板が90度開く。開く方向は観音扉の方だ。

「ちなみに小窓はここまでしか開かない」

「玄関扉側は遮蔽される格好だな。内側から何かしようとしても扉の板が邪魔になる」

「そう。よく考えられてるよこの別荘のセキュリティは。もちろん細工された痕跡もない」

エラがしゃがみ込んで小窓に頭を突っ込む。金髪の編み込みツインテは最初に両サイドこそひっかかったものの、頭はすぐに向こうに抜けた。だが肩でつっかえて、それ以上進めない。もがいているうちに髪がぐしゃぐしゃになり、結局頭を引っこ抜いて、床に座り込んだ。

「はあ! 無理じゃん!」

「やはりエラちゃんでも無理か。君の体格でも潜れないということは、大人がここから侵入するのは無理だな」

「同意するね」

そう言いかけたところで、横をすり抜けた小さな影――明日香が、ワトソンを頭に乗せたまま、小窓にするりと入り込んでしまった。

「明日香!?」

志保が叫ぶ。

「突破した! すげー、明日香っち」

エラが手を叩いて称賛する。褒めるところだろうか。

まあ、子どもなら通れる大きさである。

小窓の向こうからワトソンの声がした。

「とはいえ、大人の遺体をブルーシートにくるむなど、今回の犯行を子どもだけで行う、というのもまた困難だろう」

「ああ、警察もそう見てる」

「明日香、とりあえず戻っておいでー」

エラが小窓の向こうに話しかける。するとワトソンの声が返ってきた。

「いや、ここで確認したいことがある。エラちゃんたちが来てくれないか」

僕たちは二重扉の中間スペースに戻った。そこにはワトソンを頭に乗せた明日香が立っている。やはりここは、外ほどではないが冷える。

「神谷刑事。私たちがここに来たのは、堂島康介氏が食料調達をどのようにしていたか、私が尋ねたからだ」

「そうだね」

「この玄関の構造を見るに、堂島康介氏は食料調達に配達の業者を委託していた。そして一つ目の扉は配達業者がくぐり、小窓の近くに配達品を置いていた。康介氏はあとでその食料を小窓から回収していた。あなたはこのように説明するつもりだったのではないか」

「話が早いねワトソン君、助かるよ」

本当に助かる。これから僕が説明しようとしていたことをそのまま言ってくれた。

「君付けやめてね」

エラの声が飛んでくる。ムスっとした顔をしていることだろう。

「しかし一つ矛盾がある……神谷刑事はさきほど、玄関の開閉記録は1351日間一度もないと言っていた。しかし配達業者は少なくとも一つ目の扉はくぐらなければならないはずだ」

さすが鋭いワトソン君だ。

「ああ、そうだね……説明が簡単すぎたよ。開閉記録がないのは二つ目の、観音扉の方だけだ。1つ目の外扉、自動ドアの方は開閉記録がある。約2週間に一度、康介氏の手配した配達業者が来ていたそうで、記録も一致している」

「配達業者は何と証言している?」

「2週間おきに食料を受取用小窓の前に置いていたそうだ。言うまでもないことだけど、置いた食料は次に行ったときは無くなっていたそうだ。あとはそうだな、ゴミの回収もしていたそうだ。小窓の前にゴミがまとめられてて、それを回収分別して出すのも追加料金で請け負ってたらしい」

「生活している以上ゴミは出ますものね」

志保が納得したように呟いた。

「あ、でもさーでもさー、康介っちが死んだのって別荘に入って31日目じゃん? それから後も3年以上、ゴミが出てたってこと?」

エラは小首をかしげる。僕は記憶をたどりつつ答える。

「そう証言している。死体が発見される3日前、これが最後の配達になったんだけど、そのときも食料を置いてゴミを回収していったそうだ」

「その配達業者の証言の裏は取れているのか?」

ふっ、と思わず笑みがこぼれた。

「ワトソン君は僕の上司みたいなこというね……」

「君付けやめてね~」

今度はエラをからかってるわけじゃない。ワトソンと話していると、なんだか自然に君と付けたくなるのだ。

「その配達業者ってのはこの近くのスーパー兼雑貨店みたいな小さな店なんだけど、ここ数か月以上、その業者の車の目撃証言は複数取れてる。行った日付も一致してる。夏場だから別荘には人がけっこう来てたし、これはほぼ間違いないね」

「神谷っち、なんか刑事みたいなことしてんだね」

「刑事だからね! わざと言ってる?」

「ワトソンの君付けやめないからだよ」

どうやら根に持たれていたらしい。もしかして……嫉妬しているのか? 僕とワトソンに。

エラがまた僕にシャドーボクシングを見せてくる。猫パンチみたいなジャブだなと思っていたら、ワトソンがさらに質問してきた。

「結局その配達業者は、一度も堂島康介氏に会っていないのだな? 料金の支払いはどうしていた?」

「ネット注文のカード払い。もちろん堂島康介のクレジットカード」

「ネット注文はどのように?」

「業者のホームページに会員IDとパスワードでログインして、商品をカートに入れて注文するだけ。二段階認証とかもないから、IDとパスがわかれば誰でも注文できた。他に質問は?」

手を広げてみせる。

「神谷っちって彼女いんの?」

「いないんだよねこれが……って何聞いてんの!?」

「なんだ、つまんね」

エラが顎に手を当てて、なんだかつまらなそうにしている。彼女にしては珍しい表情だ。人の恋愛をエンタメにする化け物め……。

そのとき、明日香が志保のスカートを引っ張った。

「ママ、寒い」

「あら。確かにここは外みたいなもんだからね」

「中にもどろ、うちも寒いわ」

冷気は骨身に染みる。人間ならば。

「いいかいワトソン?」

「ああ、十分な情報は得た。ここはいいだろう」

助手というより探偵のようなセリフをぬいぐるみが吐いたところで、僕らは再び別荘の中に戻った。

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