書斎の扉を押し開けると、重厚な空気が迎えた。

黒光りする机に、革張りの椅子。棚には経営書や図鑑がびっしりと並び、几帳面な性格を主張している。机の上には、整然と並んだ万年筆、使い込まれたメモパッド。そして中央に鎮座するのは、少し古めかしいデスクトップパソコンだ。

僕とエラ、志保、明日香が足を踏み入れる。志保はふと棚に近づき、写真立てに指を添えた。山岳を背景にした康介の写真だ。不愛想だが、表情は心なしか誇らしげだ。

「あらこの写真……この別荘に持ってきたのね」

エラが覗き込み、首を傾げる。金とピンクのツインテールの片方が垂直にしなだれる。

「山登りする人だったの?」

「ええ。単独で北アルプスとか、かなり高い山に登っていたわ」

「やっぱソロぼっちなんだ。それでお金持ちって最強よね。そりゃ引きこもるわ」

「そうね。気難しい人だったとは思うけど、そのぶん分かりやすい人でもあった」

「それって……恋バナ?」

「ふふ……秘密」

エラの興味深々な瞳に、志保が微笑みを返す。警察は黒瀬志保と堂島康介の間に何があったか事実は追及するが、二人の間にどのような心の動きがあったかまでは、知りようがない。

僕は腕を組んだまま、口を挟んだ。

「あの……始めないんですか?」

「なにが?」

「パソコン見るんじゃ」

「不介入じゃなかったっけ?」

エラがニヤッと笑う。

「違法行為がなければね」

僕は目を背けた。彼女と見つめ合っていると心がむず痒くなる。

志保がパソコンの電源を押す。ファンが唸り、画面が光を放つ。パスワード入力画面が表示された。

「パスワードって出てるけど」

「つないでくれれば解析して解除できるが」

エラの抱いたぬいぐるみ――ワトソンが話す。

「あ、それやったら逮捕ね」

「なんでー?」

「違法だからだよ!」

油断も隙も無い。ワトソンのやつ、ハッキングの真似事もできるのか。エラがやれといえばやるに違いない。こういうところはAIだ。

エラが口を不満そうに尖らせる横で、志保がおそるおそるキーボードを叩く。

『ログインしています……』の表示が現れた。

「やったー!」

エラが万歳をして小躍りをする。

「な、なんでわかったんですか?」

「康介さんの東京の自宅のPC、パスワードを忘れないように付箋に貼ってあったんです。それでログインしたことはなかったんですけど……同じパスワードでした」

複数のパソコンを使う人にはありがちだ。パスワードっていちいち変えると覚えられないからなあ。付箋に貼ってあるのも……職場の上司を思い出す。

「これは違法?」

「グレーだけど……まあいい」

あまり深く突っ込まないでおく。厳密に言うと志保のやったこともアウトな気はするが、パスワードを志保が見られる状態で放置して、自宅も別荘も同じにしていたということは、堂島康介にとってパソコンの中身は大して重要ではなかったという証でもあるだろう。そこまで捜査一課が関知していられない。

モニターには、自動でスマートホームの画面が立ち上がった。電力や水道の使用量、家電の稼働状況、窓の施錠、家の外の人感センサー――数字とグラフが画面いっぱいに流れ込んでくる。スマホの管理アプリよりも詳細だ。

「ワトソン!どう?」

エラがスマホをかざす。

「いけそうだ。エラちゃん、つないでくれ」

「おっきー」

エラが机脇のUSBケーブルを手に取り、スマホを差し込もうとする。

「あれ? これ挿さんないんだけど?」

「type-Cだな。いつもの充電用のケーブルでいい」

「わかった!」

エラはストラップの間からカラフルな充電ケーブルを取り出し、ポートに差し込もうとする。上下を何度も間違えてはやり直す。

大丈夫か……て、なんで僕が心配してんだよ。

結局、志保が手伝って差し込んだ。

「できたよー」

「OK。モニタリングソフトのログは……Cドライブ直下のフォルダに保管している……日付ごとのデータ……拡張子は.logだが中身はUTF-8のテキスト……コピー中……」

「何言ってるのかわかんないけど、うまくいってるみたい!」

「私もわからないけど、頑張って、ワトソン」

志保が小さなガッツポーズを見せ、明日香も声を合わせる。

「がんばれー」

僕もよくわからんけど……応援する義理はないので黙っておく。

「コピーは完了した。解析に入る。しばらく君を一人にするが、寂しがらないでくれ、エラちゃん」

「すぐ帰って来てね」

エラはスマホを抱きしめ、不安げに見つめた。

さきほどまでパカパカ開いていた口が閉じ、ただのぬいぐるみのように沈黙する。いや、ただのぬいぐるみではあるか。馴染み過ぎて忘れていた……。

「スマホ、めっちゃアツくなってる」

志保がそっとエラの手を握る。

「大丈夫よ……ワトソンならきっとやってくれる」

「志保っち……」

二人が見つめ合い、明日香が母親の腰に抱きつく。

ワトソンを心配する三人を見る。この状況に慣れ過ぎてはいないか?僕たちは……


ワトソンはそれから1時間以上沈黙していた。その間、僕たちは書斎の床に直に座りながら、ワトソンの帰還を待っていた。

時計の針が五時を指したころ、静寂を破るようにスマホが「ピコン」と鳴った。ぬいぐるみが再び起動し、口が開く。

ふと、これはどういう仕組みで動かしているのか考えた。たぶんエラの兄、江野良探偵事務所の所長が改造し、Bluetoothか何かでスマホとつないでいるのだろう。

「やあ、ただいま」

「ワトソン!」

「寂しい思いをさせてすまない」

「ううん。全然」

涙ぐむエラに、ワトソンは告げる。

「だが君を喜ばせる結果は得られたぞ」

「やったー、すごーい!」

金とピンクのツインテールと共に飛び跳ねるエラの横で、僕は固まった。

「まじで!?嘘だろ?」

「嘘ではない」

「神谷っち、ワトソンのこと疑うの?」

「だって警察が二か月かかってわからなかったログだよ?エアコンのON/OFFも、給湯器のお湯張りも、時間が毎日不規則に変化してるんだ。法則性は見つからないらしい。それなのに、被害者がいつまで生きていたかわかるっての?」

「断言はできない。ただし信頼できる結果が得られた。蓋然性でいえば99.9%は超えている」

「いやいやいや。ありえない、ありえない」

僕は手を振って否定する。思考がうまくまとまらないまま、何度も手を振ってしまう。

「現実を受け入れなって~~」

「君とワトソンのことは受け入れてるよ。現実のキャパはそれでオーバーしてるの」

混乱している僕をよそに、ワトソンのイケボが淡々と話を始めた。

「説明する。さきほど神谷刑事が家電の動作が毎日不規則であり、法則性が見つからないと言っていたが、まさしくそれが鍵だ」

「鍵?」

「そもそも、この事件の超長期密室は、通常の密室とは全く異なる問題を提示する。通常、密室とは不可能犯罪により犯人を容疑者から外すために行うものだ。しかしこの超長期密室は、セキュリティをかいくぐる方法さえ見つかれば、誰にでも犯行が可能であり、容疑者になりうる」

それは、その通りだ。ワトソンは続ける。

「3年以上のアリバイを証明することなど誰にもできない。一方で死亡推定時期は広く、警察が捜査しなければならない時間の範囲は一般的な殺人事件に比べ桁違いに広い。人間の記憶の不確かさや監視カメラ等の保存期間も考慮に入れれば、この時間の長さこそが、ある種の密室の鍵として機能している」

……そういう意味か。反論の余地はない。それは僕がずっとこの事件に感じていたことだ。

「この密室は、誰も侵入しえない物理的な壁があるのではなく、誰もが犯人たりえる可能性が天文学的に膨張し容疑者を絞ることができない、広大な時間が謎を解く上での壁になっている。ならば密室の鍵にあたるのは、犯人の可能性をしぼるための情報だ。死亡時期はその一つにあたる」

「なるほどね……鍵は物理的なものとは限らない、君はそう言いたいのだね?」

いつの間にか腕を組んで頷いていた僕に、横から甲高い声が割って入る。

「ちょいちょいちょい、ワトソン。神谷っち。オタク出てるって。なに。"通常の密室"って?現実には密室とかないから。ていうか話長いよ」

「すまないエラちゃん」

またオタクって言われた……。一応、どうやって犯人がこの別荘に入ったのかもまだわかっていないから、"通常の密室"でもあるんだけど。エラに現実がどうとか言われると、めまいがしてくる。

「いいから、スパっと言って。康介っちはいつ死んだの?」

「この別荘に入って32日目と判断する」

「はあ!?」

思わず声が出た。確定で、ピンポイントに?

かたわらで、志保が安堵の吐息をもらす。

「32日……そんなすぐ……でもこれで、明日香が私とあの人の子どもだってことは、否定されないのね」

「その通りだ」

「いやいやいや。ずいぶんハッキリと言ったよね。どうして32日目だってわかったの? 説明してよ」

ワトソンと志保の会話に割って入る。今の僕はずいぶん慌てているだろう。

「いいよめんどいし」

エラがけだるそうに頭の後ろで腕を組む。

「よくないよくない。本当ならめちゃくちゃ重要だよ。さっきも言ったろ、堂島翔の失踪よりはるか前だ。この時点で彼は資金繰りに苦しんでたはずだから、彼が犯人だとして堂島康介の死を隠す必要がない。むしろ明かさないといけない」

「神谷刑事、よく記憶しているな。その通りだ。つまり逃走中の堂島翔氏が犯人である確度は下がった」

「本当に……本当に32日目なの?」

「100%ではない。ただ、さきほど言った鍵、死亡時期を絞るための方法は開示しよう。当初の計画と異なり、堂島翔氏が犯人である可能性は低くなった以上、犯人がわかったとしても義久氏との交渉材料には使えないからな」

「そっか~。じゃあ別の手考えなきゃ」

エラが編み込みツインテールの根本をぐいっと引っ張る。志保の表情も沈んでいく。

僕にとっては朗報かもしれない。もしワトソンの解析に信憑性があるなら、の話だけど。

「わかった。教えてくれワトソン。鍵はなんだったんだ?」

「JISだ」

重厚な書斎の中に、その言葉は、ひと際重苦しく響いた。

「は?」

辞す?持す?いや、たぶんJISだ。聞いたことがある言葉だが、あまりにこの状況で出るには突飛すぎて、脳が一瞬理解を拒否した。

「日本工業規格の略称だ」

やはりそうか。いや、だとしても。

「なんそれ?」

エラがのほほんとした表情で聞く。彼女ほど僕は落ち着いていない。工業規格と、この話に何の関連が?

「日本工業規格とは、日本のモノづくりを共通ルール化し、様々なメーカーが自社製品を独自規格で作るための不都合を防ぐのが目的で制定されたものだ。例えばA4の紙のサイズから、コンセントの形、色のRGB値など様々な規格が制定されている」

「ほえー」

「それが、スマートホームのログとどう関係するの?」

「関係するのはJIS Z9031の2012年度版、乱数生成及びランダム化の手順。それに掲載されている参考資料の乱数表だ」

「乱数表……」

乱数。JISにはそんなものまで決まっているのか。そこまで聞いて、ようやく僕はワトソンの話そうとすることの輪郭が見えてきた。

「JISにおける乱数は、工業製品の抜き取り検査などに利用するために決まっている。インターネット上に公開されているので誰でも使用できる。問題のスマートログを解析した結果、堂島康介氏が別荘に入って32日目以降の家電や給湯時刻の起動時刻のパターンがこの乱数表と99%以上一致した。開始点はずらしてあるが、24時間を100として乱数を当てはめた時刻に起動している」

「それで……どういうことがわかるんですか?」

志保も気になるらしい。みなの視線はワトソンに注がれていた。

「家電の起動時間は不規則になり、法則性は見いだせなくなる。物理乱数なので当然だ。しかし開始点をずらしているため、異なる家電同士を、時期をずらしその相関を計算すると、全く同じ時刻に起動していくパターンが現れた。これを起点に不規則なパターンを作る方法を探した結果、乱数、そして最終的にJISの乱数表に行きついた」

「めっちゃ時間かけてたもんねえ」

エラがワトソンの頭を優しくなでる。確かに計算も検索も時間は相当かかるだろう。だとしても……だとしても……たった1時間で?

「31日目までの各起動時刻は乱数表と15%程度しか一致しなかった。そもそも、人間の生活リズムが特定の乱数表と一致すること自体が相当に不自然、非合理的といえる。したがって、32日目以降のデータはフェイクだと判断する」

「その話……信じていいのか? 証拠になるのか?」

「疑念があるならば解析のレポートを作成して提出しよう。警察でも乱数表という手がかりさえあれば、一致率を見るのは容易だろう。解析結果は一致すると考える。証拠として採用するかはそちらで判断すればよいが、統計の専門家に判断を仰ぐことを推奨する」

「すごーい! ワトソン素敵! やったー、すごーい」

エラはぬいぐるみを持ち上げて跳ねる。ツインテールがふわんふわんと揺れる。志保も拍手で応じる。

僕は壁に寄りかかり、うなだれた。不規則なデータだからこそ、不規則なデータを作る方法を探すまではわかる……でもインターネット上の膨大なデータから……?それを一つ一つ、相関?を計算して……どれだけの手間だ?それを、ワトソンはやってしまった。

「それほどでもない。犯人が既存の乱数表を使用していて助かった。これが表計算ソフトなどで作成した乱数であったなら照合はできなかった。運が良かった、というやつだ」

AIが謙遜している……。言っていることはわかるが、人間がそれをやるとしたら、何人がかりで何カ月かかるのだろう。少なくとも捜査本部のせいぜい2~3人が、2か月でやれる量ではない。

「まったまたー! ワトソンてこういうとき本当に賢い! 最高の相棒だよ!」

「ありがとうエラちゃん。役割が果たせて嬉しいよ」

「ほんとにすごいわ!」

志保までワトソンをなでている。エラはまるで自分がほめられたかのように、ふんぞり返っている。

「……信じられない」

僕の呟きは、エラたちの歓声にかき消されて誰にも聞こえなかった。僕はそのときはじめて、ワトソンを恐ろしいと思った。

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