浴室の扉を開けると、ひんやりとした石の匂いが押し寄せてきた。

ここは別荘の中でもリラクゼーションを追求した、ひときわ華やかな空間だ。六畳はある大理石の浴室。浴槽の横には曇りガラスの壁が天井まで伸び、両脇には色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれている。光が差し込むと、赤や青がタイルの床に揺れて落ちる。

僕を先頭に、エラ、エラに抱かれたワトソン、志保と明日香が続く。

「これお風呂ってまじ~~!? ウチの部屋より広いんだけど!」

エラが目を丸くし、乾ききった浴槽に駆け出したかと思うと、そのまま勢いよく横になる。小柄な身体とツインテールがすっぽり収まってしまった。改めて広い浴槽だ。そうしてみたい気持ちはわからくはない。ただ……

「遺体はそこにあった」

僕が告げると、エラは飛び跳ねるように浴槽を飛び出した。

「ぎゃーー!」

白いタイルに悲鳴が響き、少し遅れてワトソンが落ち着いた声をかける。

「平気かい?エラちゃん」

「うん、びっくりしただけ」

やれやれ……。僕はため息をついた。

「遺体はビニールシートにくるまれて横倒しになって置かれていた。さっきのエラちゃんみたいに」

浴槽を指差すと、エラがむすっと僕を見た。これぐらいの皮肉は許されるだろう。

僕はさらに、自分の首元に両手をあてて見せる。

「腐敗していたけど、絞殺の痕跡がしっかり残っていた。いわゆる首吊りとは、死体に残る痕が違うんだ。凶器は物置にあった延長ケーブルと見られている。つまり遺体と凶器は別の場所にあった。そもそもビニールシートにくるまれていたし、死んだ後に誰かが手を加えたことは確実といっていい」

「ふむ、それだけでも自殺の可能性はなさそうだが、警察がそう判断するもう一つの理由は?」

ワトソンが尋ねる。正確に言えばワトソンと呼んでいるぬいぐるみから声がする。

「スマートホームのログ。1351日間のログが管理会社に送られてたって言ったろ? その間、家電のON/OFFは毎日不規則に繰り返されていた。浴室や、浴室につながる部屋のエアコンとか、風呂の給湯器とか、ありとあらゆるものがね。もっともバスの栓は開いてたから、お湯が出てもそのまま流れたはずだけど。遺体の周りは暑くなったり寒くなったり、乾燥したり湿ったり、3年間以上どうなっていたかわからない。だから死亡推定時期も判断が難しいんだけど……問題は、このログが死体発見の前日まで続いていたことだね。少なくとも半年以上前に被害者は死んでいたのに、だ」

「なんか怖い話してない?」

エラが身をすくめ、思わず志保の腕に掴まった。

「してない!」

即答するが、エラは子どものように怯えている。ギャルにも意外な弱点があるものだ。

「エラちゃんに声を上げないでもらいたい。彼女はホラーが苦手でね」

ワトソンがさらりとフォローする。イケメンか!

「ワトソン、守ってくれてありがと」

エラがぬいぐるみを抱きしめ、頭をなでる。この子は捜査に興味があるのかないのか、なんか調子が狂うな。

僕は仕切り直すように息を吐いた。

「実はね、管理会社が死体を発見した経緯は、エアコンが一基壊れてずっとOFFになったからなんだ。堂島康介氏に連絡を何度とってもつながらない。それで仕方なく社員がこの別荘を訪れて、でも呼び鈴を押しても出ない。高齢の堂島氏だから中で倒れているかもしれないと騒ぎになって、結局その社員がマスターキーで入ったらしい」

「それで死体を発見したのだな。マスターキーがあるのか?」

大理石の冷たい空間にイケボがしみる。いい質問だよ、ワトソン君。どうにも彼――彼でいいのか? ワトソンに君付けしたくなる衝動を抑えられない。これもミステリー好きの性か。断じてオタクではない。

「物理的な鍵じゃなくて、管理会社がリモートで解錠できる電子マスターキーがあるらしい。これを使うには上役始め、複数の社員の承認が必要。当然、この別荘で使われたのは初めてのことだった」

「そもそもドアが解錠された記録もなかったのだから、マスターキーが使われた可能性はゼロパーセントだな」

僕はぬいぐるみに真面目に頷き返す。頭が犬で体が虎、尻尾が蛇というめちゃくちゃなデザイン。ワトソンはこれが仮の身体で不満はないのだろうか。ないんだろうな。AIだし。

「そう。一方で、家電だけならさっきも言ったようにリモートで操作できる。管理会社の発行したIDとパスワードさえあれば誰でも、スマホ一本で可能だ。管理会社側も操作端末が何かまでは把握していない。つまり――被害者が死んで以降、少なくとも半年以上は、誰かが家電を動かしていた。これはあたかも生きているかのように見せかけるためのフェイクだ」

「結論というには全ての可能性を排除しきれていないが、蓋然性の高い仮説だな」

「……ありがとう、ワトソン」

少し自信満々に言ったのに、ワトソンは完全には納得していないらしい。横からエラがにやっと笑う。

「よかったねえ、ワトソンにほめられて」

子ども扱いされている気がして、僕はむず痒い気分になる。ワトソンとせっかく話しているのに茶々を入れるな……何を考えてるんだ僕は。AIとの議論に夢中になっていたのか。

「今の事実から二つのことが言えるな」

「なになに?」

ワトソンとエラが向き合う。エラは目を輝かせている。

「資金繰りに困っていた堂島翔氏が1年ほど前に行方不明になっているということだが、もし彼が康介氏殺害の犯人だとしたら、倒産する前に殺して、遺産をもらう方がメリットがあったはずだ。倒産後に殺してもメリットがない。死亡時期が1年より前か否かで、彼が犯人であるという確度が変わる」

「ああ、確かに」

僕は頷く。そこまでは頭が回っていなかった。人間より状況をきちんと把握しているぞ、このAI。

エラはふんふんとワトソンの言うことに頭を動かしている。ゴールドとピンクの編み込みのツインテールが揺れ、やたらキラキラ輝くローズピンクの残像が見える。

「また黒瀬明日香氏が堂島康介氏の子どもであるか否かという問題も、死亡時期によっては黒瀬志保氏に不利益な結論が出てしまう。もし堂島康介氏が死亡したのが、彼が別荘にこもってから10カ月以上経過した時点であったなら、妊娠時期と整合性が取れず、明日香氏は堂島康介氏の子どもではないことになる」

「それは……弁護士の三田村先生に言われました。揺さぶりのつもりだったんでしょうが、明日香が彼との間にできた子どもなのは間違いありません」

志保の声は震えていたが、その目は揺るぎない。

「なるほどねぇ……康介っちが死んだのがいつなのかわかる?」

「現時点では情報がないな。すまない、エラちゃん」

エラはワトソンの頭をを高速で撫でた。

「謝んなくていいって。ワトソンはいてくれるだけでいいんだから」

「そうだな、ありがとう」

……いや、それでいいのか? AI助手のはずだろ? ヒモ彼氏にかけるセリフだぞ。ワトソンも納得してんじゃないよ。

「警察でもスマートホームのログを専門家に解析依頼したり、法医学の先生に問い合わせているんだ。死亡時期がもうすこし狭められないか……まだ結果は出てないけど」

「ログがあるのか?」

珍しく高いワトソンの声がステンドグラス張りの窓に反響した。

「管理会社に残っていたデータを提供してもらった。1351日分の全家電と水道メーター、全部の電子錠の開閉、あとは人感センサーとか、まあとにかく全部だ」

「そのログを渡してもらえば私が解析し、死亡時期を割り出せるかもしれない」

「ほんとに!? まじ!? すごいじゃんワトソン。神谷っち、そのログとかいうのちょうだい」

エラの声が食堂中に反響する。僕は慌てて手を振った。この二人……一人と一体?はとんでもないことをいう。

「いやいや。無理だよ」

「なんで?」

「ログは管理会社に依頼して提供してもらったんだ。外部には出さないという約束でね。まあ、そうじゃなくても捜査資料を一般人に渡すわけにはいかない」

「一般人じゃなくて探偵なんだけど!」

「自称探偵は一般人です」

エラがワトソンを両手で掲げ、僕の顏の前に突き出す。顔にあたるかと思って思わず避けてしまった。

「ワトソンは超あたまいいんだから! 警察がわかってなくても、ワトソンに任せればパパっとわかるのに!」

その言葉に少しカチンとくる。この子の言動はたいていそうだけど。

「相変わらず警察を甘く見てるなあ。まあとにかく無理なもんは無理だよ」

エラがぷくっと頬を膨らませ、腕を組んだ。

「こっそり見せてくれたっていいじゃ~ん」

「仕方ないよエラちゃん。若い神谷刑事にそのような判断をする権限も決断力もない」

「そうそう」

……なんか引っかかる言い方だな、おい。

「……あ、でも」

志保が考え込むように口を開いた。

「この別荘にもそのログですか……残ってるんじゃないかと」

「志保っち!? どういうこと?」

「管理会社の方が言っていたんですが、滞在中にモニタリングログをパソコンから見られるようにしてあると。書斎に置いてあるとか……」

「そのパソコン見るのはいいの?」

エラが僕を見る。

「どうなんでしょう?神谷さん」

志保も僕を見る。急に振られても困る。

「え? いや僕に言われても……この別荘のパソコンにあるデータを、志保が見て、エラちゃんに渡すんですよね……義久さんたちが何て言うか知らないけど……違法な手段でなければ、民事不介入、ですかね……はは」

こうでも言うしかない。できれば警察には確認しないでほしかったな。

「オッケー出た!」

ほら!僕が許可したみたいになっちゃうじゃん。

エラはそんな僕の悩みも知らず、あわただしく志保の腕をつかんで、風呂場を出ようとする。

「志保っち、書斎ってどこ?」

僕には止めようもない。さっきまでワトソンと落ち着いて話していたのが嘘みたいに、エラに振り回されて突き進んでいく。

勢いのついたギャルは止まらない、転がる石よりも――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る