楡の葉は大海を渡る(青木家サーガ第1作)

光闇居士

プロローグ 潮騒のペンダント 1990年代・日本

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この物語はフィックションである。

登場する人物・団体・名称などは架空のものであり、

実在のものとは一切関係ありません。


この物語を通して実際の人物・団体・名称の印象に影響を与える意図はありません。

また特定の個人・組織・概念を否定・肯定する意図もありません。

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プロローグ 潮騒のペンダント

 1995年、11月。福島県の沿岸に広がる空は、厚い雲に覆われ、鉛色をしていた。海もまた空の色を映し、重く、冷たい。時折、白く砕ける波頭だけが、このモノクロームの世界に唯一の動きを与えていた。

 青木楡生(あおき・ゆうせい)――いいや、まだその名には慣れない。この国に来て幾年、自分はまだ、人生のほとんどを過ごしてきた「張楡生(ジャン・ユーシェン)」のままだった。彼は、コンクリートの防波堤の上に独り立ち、沖合をぼんやりと見つめていた。海鳥が、鋭い声を上げながら低く飛んでいく。その鳴き声は、故郷のそれとはどこか違う、寂寥感を帯びた響きを持っていた。

 背広の襟を立てても、首筋を撫でる潮風は容赦なく体温を奪っていく。この寒さは、育った故郷である上海のぬるい気候とはまるで違った。ポケットに突っ込んだ右手は、冷たい金属の感触を確かめていた。五十年間、持ち続けたロケットペンダント。今はこうしてポケットにしまい込んでいるが、その存在感は、まるで心臓がもう一つそこにあるかのように重かった。

 『お母さんの故郷は、日本の東北にある、海の綺麗な町だって聞いたわ』

 そう語ってくれたのは、育ての母、陳珍蓮だった。養父の張洪正が亡くなった後、彼女はぽつりぽつりと、自分の知らない母の話をしてくれた。どんなに美しく、気高い女性であったか。そして、どんなに辛い決断の末に、自分を置いて日本へ帰ったか。その話を聞くたび、楡生の胸は喜びと、そして得体の知れない怒りに似た感情でかき乱された。

 日本に来てから、残留孤児の支援団体を頼りに母を探し始めて、これが何度目の「可能性」だろうか。最初は期待に胸を膨らませた。だが、同姓同名の別人、曖昧な記憶違い、そして歳月という分厚い壁。そのたびに希望は打ち砕かれ、心はすり減っていった。妻の京海は「焦らないで」と静かに励ましてくれるが、12歳になる息子の義成は、日本の学校に馴染めず、日に日に口数が少なくなっている。彼らのためにも、早くこの宙吊りのような状態から抜け出したかった。自分は何者なのか。その答えを見つけない限り、この国に根を下ろすことなどできはしない。

 「横井(旧姓青木)美佐子さん。福島県相馬郡のご出身。間違いないようです。戦後、中国から引き揚げてこられた記録もあります」

 一週間前、支援団体の職員から電話越しに聞いた言葉が、耳の奥で何度も反響する。職員の声は、いつもより僅かに上ずっていた。しかし、彼はこうも付け加えた。「ですが、楡生さん、過度な期待はしないでください。ご本人にお会いして、お話をしてみるまでは、何も確定できませんから」

 わかっている。期待が裏切られた時の痛みがどれほどのものか、この身は嫌というほど知っている。だが、それでも心のどこかで、今度こそ、と願ってしまう自分がいた。

 この海を、あの人も見たのだろうか。

 ロケットの中にいる、セピア色の若い女性。その顔立ちは、自分とはあまり似ていないように思える。彼女がこの灰色の海を見ながら、遠い南の島に残してきた赤子のことを思った日は、一度でもあったのだろうか。

 もし、今日会う女性が本当に母だったとして、自分は一体どんな顔で会えばよいか。

 五十年の空白。その間に自分は、中国人として育ち、中国の女性を娶り、中国人の息子をもうけた。大躍進の飢餓を耐え、文化大革命の狂気に翻弄され、技術者として身を立てた。あの国で、必死に生きてきたのだ。養父・張洪正は、血の繋がらない自分を命懸けで守ってくれた。その父を、自分は裏切ることになるのではないか。

 ふと、脳裏に養父の最期の顔が浮かぶ。痩せこけた手で自分の手を握り、絞り出すような声で言った。

 『お前の本当のお母さんを探すのだ、楡生。それが……お父さんの、最後の願いだ』

 父の目から零れた一筋の涙。それは、愛する女性に託された息子を無事に守り通した安堵か、それとも、その息子を本当の母の元へ返さねばならないという、最後の愛の形だったのか。

 そうだ。自分は、父の遺言を果たすためにここにいる。

 そして、自分自身のために。この、生まれた時から続く根源的な渇きを癒すために。

 潮騒が、寄せては返し、また寄せる。その単調なリズムは、まるで時の刻みのようだ。止まることなく、しかし着実に、全てを過去へと押し流していく。自分と母とを隔てた五十年の歳月も、この波の音に比べれば、ほんの一瞬のことなのかもしれない。

 遠くの道路に、一台のセダンがゆっくりと近づいてくるのが見えた。支援団体の車だ。

 心臓が、大きく一度、跳ねた。

 逃げ出したい。このまま踵を返し、何も聞かなかったことにして、妻と子の待つ小さなアパートへ帰ってしまいたい。そうすれば、これ以上傷つくこともない。

 だが、足は鉛のように動かなかった。

 楡生は、ポケットの中で冷え切ったロケットを強く、強く握りしめた。それは呪いか、導きか。もはや、どちらでもよかった。この鎖を断ち切るにせよ、手繰り寄せるにせよ、まずはその先にいる人物と向き合わねばならない。

 深呼吸を一つ。吐き出した息は、白く濁って風に消えた。

 楡生は、硬い表情のまま、ゆっくりと防波堤を降りた。車が、彼の数メートル先で静かに停まる。後部座席のドアが、軋むような音を立てて開き始めた。

 五十年の時を経て、運命の扉が、今、開かれる。

 彼の背中を、福島の冷たい潮風が、ためらうように、それでいて力強く押していた。

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