31日目 救雨と応答 〜額の一滴、輪の祈り、狭すぎる雨〜
朝の名を持ちながら光のない時間が長く続いた。
起き上がる理由も帳を開く理由も昨日はなかった。
砂の温度も…空気の重さも…喉の痛みを増幅するだけで、私は輪の内側に横倒しになる。目を閉じたまま「水」の二文字だけを頭の裏側で反芻していた。
(在庫は後でいい。いや後という語がまだ在るのか?)
その程度の思考が乾いた歯の隙間で粉になる。
波の音は生き物の呼吸に似ていた。
だが今日はもうひとつ、規則的な水音が混じる。
パシャ……パシャ……。
一定の間合いで遠くの浅瀬を叩く音。
潮の人だ、と思うにはあまりに子どもの遊びに似ていて、目を開ける気にもならなかった。
祈りだと解釈するには私の心は荒みすぎている。
そのとき…額に冷たい点が落ちた。
一滴。
ただの一滴。
皮膚の上で丸く震え、意地悪く私の眉間を撫でて、鼻梁を滑って、乾いた唇へ落ちる。
舌が勝手に動いた。
塩気ではない。
鉄でもない。
ただの水。
ただの、水。
二滴、三滴。
頬を伝い、喉を濡らし、砂を黒く染める。
私は跳ね起きるつもりで、実際には半身を起こしただけだった。
世界が、降っていた。
…雨?
海では雨の匂いは希薄だ。
それでも、砂が打たれて立ちのぼる微かな冷気が肺の奥に落ちてくる。
私は掌をひらき杯のまねごとのように顔の前へ差し出した。
透明な粒が、指の間でつながり、細い糸になって落ちる。
喉の壁に触れた瞬間。体のどこかに絡みついていた固い輪が、ひび割れた気がした。
胸が勝手に震え笑いなのか嗚咽なのか分からない音が漏れる。
「……ありがとう、ありがとう、ありがとう」
誰に向けた声か分からない。
制度にも、記号にも、相手にも、請求先にも、科目がない。
ただ、水がある。
それだけで世界が一行ぶん延びる。
雨は…狭かった。
輪の中央から半径三歩ほど薄く、まるで私だけを狙って降っている。
外縁に置いた印石の列は乾いたまま色を変えない。
私はふらつく足で境界に近づき、腕だけを輪の外へ伸ばした。
指先は濡れない。
戻すと濡れる。
…狭い。
雨が輪を選んでいる。
沖では潮の人が胸までの水に立ち、両の掌を低く浅瀬へ向けて押し出していた。
パシャ……パシャ……。
一定の拍で波の皮膚を叩く。
彼女が手を止めると、私の額の滴がゆるむ。
彼女が再開すると、粒が強くなる。
風ではない。
雲行きでもない。
私と彼女のあいだに、見えない管が通っているかのように。
私は輪の砂を両掌で掬い、掬ったまま空へ掲げ、指の谷に溜まった水を舌へ落とす。
冷たい。
やさしい。
情けないほどに、甘い。
「届いた……」
声が勝手に出る。
誰に、何が、と問われたら答えられない。
しかし、祈りは届いたのだ。
帳を超え、制度を超え、神に。
あるいは神と呼ぶしかない何かに。
私は立ち上がり輪の内側をゆっくり回り始めた。
足跡が濡れて深く外縁で急に浅くなる。
狭い雨は私に付き従うように移動した。
私の影だけ縁どられて濃い。
私はその影に口を寄せ、残りの理性と引き換えに、恥も科目も放棄した言葉を零す。
「神さま、制度を破ってごめんなさい。
でも、今は記録より、水です。
今は取引より、息です。
今は、=より、〇の内側で、私を生かしてください」
雨は返事のように、数呼吸ぶんだけ強くなった。
私は帆布片を広げ、雫を受け、絞って器に落とす。
二度、三度。
器の底に待ち焦がれた音がほんの少し溜まる。
私は息を整え輪の南に置いた受け台へ一歩。
鳥が見ているかもしれない。
制度は死んでいないことをここに示すために。
藻の極細の糸を一筋、∴の印の上に置いた。
供出する余裕はない。
それでも「交換を諦めてはいない」という痕跡だけが、今は必要だった。
沖。
潮の人が手の高さを変えた。
胸前で=を一回。掌で短く描いてから、また浅瀬を叩く。
私が胸の前に同じ=を描き返すと彼女はわずかに首を傾げ、もう一度だけ、波に=の影を映した。
濡れた水面に短い並行線がほどけて消える。
それは記号ではなく行為だった。
「渡す」でも「均す」でもなく、ただ、いま在るものをいま在る先へ押す動き。
彼女はそのまま、ふらつく足を踏み直した。
遠目にも疲弊が分かる。
私は胸の奥で黙って頭を下げ、掌の杯を再び空へ差し出した。
やがて、雨は弱まった。
狭い天が細い糸を惜しむように手放していく。
最後の一滴が器の底に落ちた音は、私の中で鐘に似ていた。
私は帆布片を絞り切り、器の縁を撫で深く息を吐く。
喉の焼けは薄れ、頭痛はまだ残る。
指先はやっと震えから震えへ移行した。
「書ける」震えに。
私は帳を開いた。
朝ではないが、これを朝と呼ぶ。
在庫/三十一日目・朝(雨後)
・水:0.22L(局所降雨・帆布絞り)
・食:海藻 微量(束×0.1→0.08)
・塩:微量(雨で一部流亡)
・火:なし(再起不能)
・記録具:ペン 使用可/炭 予備
・体調:意識明瞭化/頭痛残/筋痙攣軽減/涙腺過敏
・所感:*神に届いた*ただし降雨域は輪中心の半径三歩。局所・偏在。理由不明
⸻
観測/午前
・祠:空。裂け目乾燥。雨水浸透の形跡なし(砂吸収)
・輪:内側のみ濡れ跡明瞭。外縁より外、乾。境界は印石列にほぼ一致
・鳥:高度高めに一巡。受け台の∴を一瞥→離脱(交換なし)
・潮の人:浅瀬で両掌を反復動作(叩打)。時折、胸前で= → 再開
・影:杭の影、雨中にも関わらず長い(天候と齟齬)
・星図:夜間観測予定。雨由来の方位誤差に留意
条項補注(三十一日目・午前)
・制度外の現象「局所降雨」を
※「贈与」「賄賂」「奇跡」の語は保留
・《応答》発生時、在庫への組み入れは許容。ただし未払いの扱いは残置
・=はこの場面に限り「押出(渡す行為そのもの)」として暫定定義
・輪の中心性が強化された可能性…印石列の再点検
私は器の水に影を落とし、口を湿す。
ほんの少量でも、舌が「生きていい」と言い出す。
紙の上では言葉は慎重だが、体はすでに厚かましく現金だ。
この乖離を恥じる余力は今日は持たない。
ふと気づく。
雨の痕跡が、輪の内側にだけ残っている。
外へ一歩踏み出すと、砂は乾き足の裏がすぐに熱を拾う。
戻ると冷たい。
私は境界線の上に踵とつま先を半分ずつ乗せ、左右で温度差を測る。
違う。
世界が二枚に裂け、その継ぎ目に私は立っている。
沖の彼女が一度だけ、深く膝を折った。
崩れた、というほどではない。
けれど、胸の高さの水が肩口まで上がり、彼女は息を整える間。両の掌を重ねて胸に当てた。
…=。
それから、また浅瀬を叩く。
私は彼女の小さな動きに礼を返す術を持たない。
輪の内側で、ただ手を胸に当て、同じ高さに短い線を二本、指で描いて、空に放つ。
彼女が、こちらを見た気がした。
見た、と断言するには私の心はまだ制度に未練がある。
昼の手前。雨は完全に止んだ。
空は、洗われたようにはならない。
雲はなかった。
もとから、なかったのだ。
降ったのは、空の都合ではない。
在庫/三十一日目・昼
・水:0.18L(朝分消費後)
・食:海藻 微量(束×0.08→0.07)
・塩:微量
・記録具:ペン 使用可
・所感:応答の痕、輪内に限定。未払いの科目は残存。罪悪感は小さく、感謝は大きい
午後、体が思い出したように眠気を訴えた。
寝る、という語は今は贅沢に属する。
だが私は輪の縁にもたれ、半分だけ目を閉じ、半分は開けて、受け台の∴をぼんやりと見ていた。
鳥は近寄らない。
取引は止まっている。
それでも私は、∴を消さない。
制度は呼吸のようなものだ。
たとえ浅く途切れ途切れでも、完全に止めてはいけない。
夕刻、潮の人は沖へ戻った。
背は波から離れ、光の帯の方角へ一度だけ顔を向け、短く=を描いた。
私は帳に今日の真ん中に一行だけ太く書いた。
「祈りは届いた。…神に届いた。」
それが、真相に対してどれほど滑稽でも、今日だけは書いていい。
今日だけは制度の余白に許される。
在庫/三十一日目・夜
・水:0.12L(節約継続)
・食:海藻 微量(束×0.07)
・塩:微量
・記録具:ペン 使用可
・所感:応答を記録。輪の中心性、強化。未払いは残るが、私は生きた
星が出た。
昨夜よりも、整列の気配が戻っている。
だが、彼女の指した方向の先にだけ、他より少し強いひとつが滲む。
私はその星に二重線で印を付け、ゆっくりと=を重ねた。
制度は裂けた。
しかし、裂け目は通路にもなる。
今日はそれでいい。
今日は、それでいい。
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