7日目 逆流の夜 〜輪の外から来た足跡〜

朝、祠の器の縁に置いた印石が一つ、中央へ転がっていた。

風の仕業にしては重い。


器の水位は夜のうちに少し減り、代わりに砂の表面が帯のように湿っている。

器が漏れているのではない。地面が水を欲しがっているのだ。


在庫/七日目・朝


・水:水筒0.25L+器 7割

・食:海藻(乾)少量/新規なし

・塩:祠の縁 白結晶(薄)

・道具:流木4/帆布片2/印石17

・記録材:帆布片2/灰(印用)

・所感:器周辺の湿帯。地面への吸い込み強化


杭の影を測る。昨日からさらに半歩ずれた。

ずれは細かく、しかし止まらない。


私は交換台の布を張り直し、輪の入口に灰で濃い線を引いた。

境界をいつもより強くする。


午前、鳥の往復に乱れが出た。弧が崩れ二羽が入れ替わる。

数えるたびに周期が変わり、帳簿に数字が並ばない。


私は一度、数えるのをやめる。

…数えられない時は数えないことを記録する。

制度は“欠測”すら残せる。


観測/午前


・鳥:往復の弧が乱れる(32〜36秒/ばらつき大)

・潮:祠の周囲で逆流の兆し(渦は弱)

・影:杭の影、正午基準で六歩+半歩

・砂:湿帯が南へ延びる

・音:遠くで乾いた破裂音一回(方向不明)


破裂音の方角へ歩く。

砂の稜線に、見慣れない靴底の跡があった。

裸足や素足の踏み方ではない。深い踵、細い溝、繰り返しの癖。


さらにその近くに別の跡。

素足より広く、趾が深く沈み、砂の水分を絞り出すように跡が残っている。

乾き方が違い、重い存在を示していた。


輪から外れた場所で足跡は急いでいる。

私は追わず、円をひとつ砂に描いてから戻った。

…輪の外で走る足跡は、輪の中へは招かない。


交換台に帆布片と印石を一つ置く。

右に「灰水の手洗い」を示す貝刻印。

左に「提供:観測情報」の意志表示。


待つあいだ祠の器の縁に灰で短い目盛りを刻む。

器の水位は目盛りひとつ分下がった。


やがて影が差した。彼女だ。

手の甲に砂の薄汚れ。輪の入口で立ち止まり、灰の線の前で足を揃えた。


私はうなずき、器を指し示す。

彼女は縁の目盛りをなぞり、印石を中央に一つ置いた。

…共観の開始。


取引帳/第5葉(共観+衛生)


・相手:潮の人(女)

・与えた:灰水(手洗い)/帆布片

・受けた:印石1+祠の水位観測の協力

・所感:輪の境界に自発的に止まる。規則の内面化が進む


在庫/七日目・昼


・水:水筒0.2L+器 5割

・食:海藻(乾)わずか

・塩:縁の結晶 ごく薄

・道具:流木4/帆布片1/印石18

・記録材:帆布片1/灰

・所感:器の減水速度が上がる。地面の吸い込み継続


昼過ぎ、輪の外に二種類の足跡が重なっているのを見つけた。

ひとつは先ほどの靴。

もうひとつは趾の深い広足跡。


私は追わない。追うことは制度の外に出ることだ。

代わりに輪の側に小さな中輪を灰で描いた。

外の何かが来てもここで一旦止まるように。


交換台に「提供:帆布地図(2号)」を置く。

祠、杭、交換台、湿帯を記した簡易地図。

右に提供。左に「希望:足跡の情報」。中央は空。


午後、祠の器に小さな波が立った。

風ではない。地面の下から押し上げられるように、水面が一度だけ盛り上がり静まる。


彼女は指で短い円を三つ描いた。

私も三つ描く。三回。同じ現象を待つ合図。


観測/午後


・器:水面の膨らみ 1回(微)

・潮:沖の濁り 強/泡 粗

・影:杭、夕方基準で七歩のずれ

・足跡:靴跡(踵深)/趾深い広足跡(重)

・鳥:往復弧の乱れ続く


夕刻、二度目の膨らみ。

器の縁に刻んだ目盛りが湿り、ひと目盛り分だけ上がる。

湿帯はさらに南へ延び、輪の外で小さな水溜まりが生まれた。


私は水溜まりの縁に“=”を刻む。

これを臨時の器として登録する。

…制度に入れることで恐怖を小さくする。


その時、輪の灰線に踏み跡が付いた。靴の跡だ。

線は途切れ、砂が内側へ抉れている。


私は声を出さない。

交換台の中央に印石を一つ置き、違反の記録として帆布に黒い線を引く。

彼女は私の手の動きを見て、ゆっくりとうなずいた。


輪の内側へは誰も入ってこない。

入ってきたのは足跡だけだ。


監査記録/七日目 夕刻


・事象:輪の灰線に靴跡。侵入痕

・対応:中央に印石1(違反記録)。輪の内側の提供物→一時撤収

・備考:中輪(緩衝)の効果観察。夜間は提供を停止


日が落ち、三度目の膨らみが来た。

器の水面がはっきりと盛り上がり、今度は縁を越えた。

こぼれた水が灰線を濡らし、跡は一部消えた。

境界が水で溶ける。


私は帆布の端に今日の“=”を縫い足す。

針の先で手のひらを浅く刺し、血が滲む。布に赤い点が残った。


彼女はそれを見て器の縁に指を当て、自分の指にも小さな傷を作った。


水面に赤がひと粒落ちた。

…制度は初めて色を持った。


在庫/七日目・夜


・水:水筒0.15L+器 4割(変動)+臨時器 小

・食:海藻わずか

・塩:縁の結晶 微量

・道具:流木4/帆布片1/印石18

・記録材:帆布片1/灰

・所感:輪の境界に外足跡。水位の変動大。夜間提供停止を決定


夜、器と臨時器を交互に覗く。

空の星図は相変わらず裂けている。

水面に映る星は、臨時器の方が安定して見えた。


器は時折、底から息を吐くように泡を出し、映った星を揺らす。

彼女は臨時器の縁に小さな“=”を二つ並べた。

二人で作った器だという印。


遠くで砂を踏みしめる乾いた音がした。

私は声を出さない。帳簿に行を足す。

現認はしない。記録だけを続ける。


輪の外から来た足跡は、今夜は中輪の前で止まっていた。

灰の線の手前に印石が一つ置かれている。


…誰かが置いたのか、器の水が運んだのかはわからない。


私は中央に印石をもう一つ置き、未解決の取引として記す。

解決は明日に回す。


制度は急がない。

生き延びる速度に合わせて動く。

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