第3話 最初の誘惑


 あの夜から、私の世界には一枚の薄い膜が張られてしまったようだった。教室の喧騒も、友達の笑い声も、先生の退屈な授業も、すべてがその膜の向こう側で起こっている出来事のようで、どこか現実味がない。私は完璧な仮面を被り、いつもと変わらない「高瀬彩香」を演じ続けた。特に、和真の前では。彼の隣で笑い、彼の話に頷き、彼の肩を軽く叩く。その一つ一つの動作が、まるで稽古を重ねた舞台役者のように、意識的で、そしてひどく空虚だった。


 和真は和真で、どこかぎこちなかった。私の顔をまともに見ようとせず、時折何かを言いかけては口ごもる。きっと、涼子との関係を私に告げたことへの罪悪感、あるいは新しい恋人と長年の幼馴染との間で、どう振る舞うべきか測りかねているのだろう。その不器用な優しさが、今の私には不快でしかなかった。彼の態度は、涼子の存在を常に私に突きつける。彼の心の中に、涼子という異物が入り込んだせいで、私たちの間には澱んだ空気が流れるようになってしまったのだ。


 学校という舞台の上で完璧な演技を終えた私は、毎晩自室という楽屋で、次の舞台の準備に没頭した。スマートフォンの画面に映し出される無数の恋愛指南。私はそれを貪るように読み込み、使えそうな台詞や仕草をノートに書き留めていく。鏡に向かい、最も効果的に男の心を揺さぶる表情を研究した。少し潤んだ瞳。僅かに開かれた唇。無防備さを装う、計算され尽くした笑み。鏡の中の女は、私が知っている私ではなかった。それは、目的のためなら手段を選ばない、冷徹な復讐者(アベンジャー)の顔をしていた。


 計画を実行に移す機会は、思ったよりも早く訪れた。あの日から一週間が経った放課後、和真が教室で私を呼び止めたのだ。「彩香、この後、少しだけ時間あるか。相談したいことがあるんだ」彼の表情は真剣そのもので、私は計画の第一段階を開始する時が来たと直感した。


 私たちは学校近くの、レトロな雰囲気の喫茶店に向かった。店内に足を踏み入れると、焙煎された珈琲豆の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。壁際の本棚には古い小説が並び、スピーカーからは気だるいジャズのメロディが流れていた。窓際の席に座ると、午後の柔らかな光がテーブルの上にレースのような影を落とす。こんなにも穏やかで、平和な空間。それとは裏腹に、私の心の中では、これから始まる戦いへの静かな興奮が渦巻いていた。


 和真はメニューを何度も開いたり閉じたりして、なかなか落ち着かない様子だった。アイスコーヒーのグラスに溜まった水滴を、意味もなく指でなぞっている。私はそんな彼を、努めて優しい表情で見守った。やがて彼が意を決したように顔を上げた。


「あのさ、今度の日曜、涼子と初めてちゃんとデートすることになったんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は氷の針で刺されたように痛んだ。しかし、顔には出さない。練習した通りの、完璧な微笑みを浮かべてみせる。

「それで、どこに行くとか、何するとか、全然決まってなくて。女の子がどういうのを喜ぶのか、彩香に教えてほしくてさ」


 彼は早口でそう言うと、助けを求めるような目で私を見つめた。ああ、なんて愚かで、なんて純粋なのだろう。私の親友。私の幼馴染。彼は今、恋敵であるはずの私に、恋人を喜ばせるための助言を請うているのだ。その無邪気さが、その絶対的な信頼が、私の復讐心をさらに燃え上がらせた。彼の純粋さこそが、彼の罪。ならば、その罪は私が裁かなければならない。


「涼子ちゃんを、絶対に喜ばせてあげたいんだ」


 彼の口から紡がれたその言葉が、最後の引き金になった。私はカップに注がれた紅茶の、赤い水面(みなも)を見つめる。そこに映る私の口元は、緩やかな弧を描いていた。計画通り。全ては、私の描いた筋書きの上で進んでいる。


.私はゆっくりと顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。そして、鏡の前で幾度となく練習した、最も無垢で、最も蠱惑的な微笑みを彼に向ける。


「じゃあ、私で練習してみる?」


 その言葉は、天使の囁きのように甘く、それでいて悪魔の契約のように抗いがたい響きを持っていた。和真の目が、驚きに見開かれる。彼の思考が停止しているのが、手に取るように分かった。私は間髪入れずに、畳み掛ける。

「デートの練習。お店の選び方とか、プレゼントの渡し方とか、女の子がドキッとするようなこと、私が全部教えてあげる。涼子ちゃんのために」


 最後の「涼子ちゃんのために」という一言が、彼の罪悪感を取り払う魔法の呪文だった。彼の表情が、驚きから戸惑いへ、そしてやがて、心からの感謝へと変わっていく。

「ほんとか、彩香。いいのか、そんなことしてもらって」

「いいの。和真は、私の大事な『親友』だもん」

 私は『親友』という言葉に、ありったけの皮肉と悪意を込めた。もちろん、彼に伝わるはずもない。

「ありがとう、彩香。お前、本当に最高の奴だよ」


.彼の曇りのない感謝の言葉を聞きながら、私の心は二つに引き裂かれそうだった。計画が第一段階を突破したことへの、血が沸き立つような高揚感。そして、十七年間、唯一無二の親友だった男を騙し、地の底へ引きずり込もうとしていることへの、針で刺すような罪悪感。しかし、もう後戻りはできない。私は、この甘美な地獄の道を、最後まで歩き通すのだ。夕日が差し込む店内で、彼の隣に座る私の影は、床の上で深く、そして濃く、まるで悪魔の翼のように広がっていた。

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