第7話 ネイディア その後

「……っ、はぁ…」


 シエラが狭い座席に身を預けると深いため息をついた。


「マジで脱獄できるンだな」

窓もなく硬い座席がいくつかしかない狭い潜水艇で、シエラが目を閉じた。


「とりあえず寝かせてくれ。…明日死刑だった俺に睡眠時間なんて無かったンだからよ」


 シエラはカインの返事を待たずにコクリと下を向いていた。

 狭い艇内にシエラの息遣いが落ち着いて響き始める。カインは端末のモニターに視線を固定したまま、短く息を吐いた。


「……寝られる神経があるなら大したもんだ」


 青灰の瞳は相変わらず鋭く前方を見据えている。

 だがその隣で、鎖の残滓を鳴らしていた囚人が静かに目を閉じている事実に、ほんのわずかに緊張が緩む。


「……起きたときに地上にいる保証なんざないが……今は休んでおけ」


 囁きは自分に言い聞かせるようでもあった。

 カインは銃を手の届くところに置き、カインが端末を起動して依頼主に連絡すると、ほどなくして通信が入った。


『…よくやってくれた。カイン・マクラウド』

「はい」


 短く答える声は冷静だったが、背後で微かに聞こえるシエラの呼吸が頭から離れなかった。

 依頼主、エドワード・ランカスターはカインを労わるように続けた。


『今から指定する地点に護送車を手配している。荷台に死刑囚を拘束してくれ。その後に依頼金を支払おう』


 モニターに映し出されたのは、護送車の地図と写真。

 荷台の狭い空間には簡素なベッドと拘束用のベルト。脇にはチューブの伸びた機械があり、先端の針が無機質な光を反射していた。

 カインの眉間がわずかに寄る。


「……随分と手際がいいな。俺の任務は“生かして連れ出す”ことだったが……これは、俺の知る護送には見えませんが」


 言葉の端に、鋭い疑念と抑えきれない苛立ちが混じる。

 シエラと共に血を流し、死線を潜った時間がほんの数時間でも、彼の中に確かなものを残していた。


『これは、仕方のないことだよ、カイン・マクラウド』


 エドワードの声は事務的で、冷たくも優しげに響いた。

 カインは黙り込み、青灰の瞳でシエラの方を振り返る。

 座席に身を沈め、無防備に眠るその姿は、殺人鬼であるはずなのに奇妙なほど人間的だった。


「……“責任を持つ”、ね」


 吐き捨てるように呟き、再びモニターを見据える。


「了解した。地点に向かう」

『ありがとう、カイン・マクラウド』


 エドワードの穏やかな声が狭い艇内に響く。


『これで娘を救える。部下が遺した子に送金し続けている君だからこそ、依頼したんだ』


 その言葉に、カインの時が止まった。

 ――部下の子、娘。

 救うために汚した手。

 そして、救うためにまた囚人を縛る。


『娘は自己免疫疾患という難病を抱えていて、もう長くないと言われていたんだ』


 エドワードの声は、一度諦めた希望を再び宿したような声音だった。

 カインの青灰の瞳が、自然とシエラへと向く。

 首輪をつけられ、眠りながらもどこか不敵さを残した表情。

 死刑囚であり、殺人鬼。だが、その血で今は自分が生かされている。


『シエラ・グレンの血液で完治するわけではないが…生涯輸血を続ければ、娘は自由に外に出ることも、走り回ることもできる…そのためなら君への依頼金くらい端金だ』

「……生涯、輸血を続ける?」


 抑えきれない声が低く漏れる。

 画面に映る護送車の内部。

 狭いベッド、拘束ベルト、そして血を抜くための針と機械。

 カインは無意識に奥歯を噛みしめていた。


『死刑囚に娘を近づけるしかないんだ、これくらいの処置は許してくれ』


 苦笑するエドワードの声。

 だがカインには、その言葉がかつて自分が思っていた、殺人鬼なんてただの道具だという思いと重なって、心臓が痛くなる。


「……」


 返答ができず、ただ硬く唇を結ぶ。

 背後から、シエラがわずかに寝返りを打つ音。


『地上についたら連絡してくれ、では』


 通信が途切れ、艇内に再び静寂が訪れた。

 カインはしばし黙り込み、無意識に右手で額を押さえる。


「……クソ」


 低く吐き捨てたその言葉は、依頼主にか、それとも自分自身に向けたものなのか、誰にもわからなかった。

 端末の画面は暗転し、依頼主の声ももう聞こえない。


「……生涯輸血、か」


 カインは低く呟いた。


「死刑囚を檻に閉じ込め、血を抜き続けて娘を生かす……それで救い?」


 拳を握る。

 目の前に眠るシエラの首には、まだ爆薬付きの首輪が嵌められている。

 あの冷たい金属が、まるで自分の喉に巻きついているように感じた。


「俺は……何がしたいんだろうな」


 部下を救えず、遺された子に金を送り続けた。金があれば、また送り続けられる。


「任務だと? 依頼金だと? ……クソ」


 青灰の瞳を閉じると、瞼の裏にシエラの姿が浮かぶ。挑発的な笑み。血を惜しげもなく差し出した手。

 そして、眠るときにわずかに緩んだ表情。


「ただの殺人鬼、ただの金ヅル……そう割り切れたら、どれだけ楽か」


 声は掠れ、吐き出すように落ちた。

 カインは額を押さえ、深く息を吐いた。


「……本当に渡していいのか。俺はまた、誰かの檻になるだけじゃないのか」

「聞こえてる」


 シエラが目を閉じながら口を開いていた。


「聞こえる、全部」


 シエラの片目が僅かに持ち上がると、カインの指が膝の上で止まった。

「……聞こえてたか」

「ごちゃごちゃうるせえ。そのために脱獄したンだからよ。さっさと引き渡しとけ」


 シエラが吐き捨てるように言った。


「依頼主の娘とやらも、お前の部下の子供も救える。全ば丸く収まって偽善も満たされるだろうよ」


 シエラの言葉は何処までも煽り口調だったが、その奥にはカインを思う心があったような気がした。


「お前に言われるまでもなく、依頼を果たせば全部丸く収まる。部下の子も、あの娘も救える。俺も金を受け取って、また次の仕事に行ける」


 冷たい声のはずが、どこか掠れていた。


「はッ…、そりゃいい。ネイディアで実験されるよりはずっとマシなンじゃねえ?」


 腕を組んで静かに目を閉じるシエラにカインがぽつりと言った。


「……“お前を渡すだけ”が、こんなに重いとは思わなかった」


 眠るように目を閉じたシエラの口元が、僅かに皮肉げに歪んでいるのが見えた。


「偽善かもしれん。俺は戦場で、人を救うためだと言って人を殺し続けてきた。それが今度は、人を救うためにお前をまた檻に戻すってか……」


 カインは深く息を吐き、拳を握りしめた。


「……お前の血が万能じゃないように、俺の正義も万能じゃないんだよ」


 ほんの一瞬、声が途切れる。


「だが、俺はまだ――渡すと決めきれてない」

「じゃあ渡すと決めろ。」


 シエラはそう言うとふん、と鼻で笑った。


「なんなら俺が決めてやろうか?渡す、以上。分かったらお前も寝ろ。その潜水艇、自動操縦なンだろ 」


 潜水艇の画面は依頼主から示された護送車へのルートに沿って進んでいく様子が示されていた。


「……決めろ、か」


 低く呟き、手元の画面に映るルートを睨む。


「依頼を果たせば部下の子も救える。依頼主の娘も、生きられる。だがその代償に――お前は、また鎖に繋がれる」

「そうだな、そのために連れ出したんだろ」


 青灰の瞳が、隣でふてぶてしく眠ったふりをするシエラに向けられる。


「……ったく、そして本人は笑って渡せと言いやがる」


 カインは深く息を吐き、端末のキーを強く叩いた。

 護送車の位置情報、そのルートを上書きする。依頼主が示した目的地から少し逸れた、別の海上都市の浮上デッキに。


「依頼を裏切れば、金も、俺の贖罪も消える。……それでも――」


 彼は拳を握り、微かに苦笑した。


「俺は、お前を檻に戻す手は選べない」

「…は?お前ほんと…」


 シエラが眉毛を寄せて吐き捨てたが、小さくため息をついた。


「"カイン"と一生逃げ切る人生になっちまうじゃねえか…もういい、俺は、ほんとに、寝る」


 シエラはそう言って目を閉じ、やがて本当に寝息が聞こえた。

 カインは操縦席に背を預けながら、シエラの寝息を耳にした。

 深海の静寂に混じるその呼吸音は、皮肉にもどこか安心感を与えてくる。さっきまで死と隣り合わせで駆け抜けたのに、こいつはこうして眠れる。


「……お前、」


 カインは僅かに驚いたように独りごちるように呟いて、カインは視線を計器に戻す。


「俺はただ依頼を果たすはずだった。それなのにな。気づけばお前を檻に戻せなくなってた…こういうところだぞ、シエラ」


 画面のルートは依頼主に伝えたものと違う軌跡を描き、潜水艇は静かに進んでいた。

 エドワードに気づかれれば、追撃が来るかもしれない。それでも、カインは迷わなかった。


「お前と一生逃げ切る人生、ね。そう悪くはないかもしれないな」


 苦い笑いを浮かべながら、目だけを隣のシエラに向けた。わずかに口元を歪め、苦笑とも安堵ともつかぬ表情で視線を前に戻す。


「寝ろよ、シエラ。起きたときも、俺はここにいる」


 眠るその顔は、憎たらしいほど幼く見えてでだが今さら手放す気にはなれなくて、

 潜水艇は静かな唸りを上げながら、深海を切り裂いて進んでいった。


【END】

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Nadir @KuReKo151

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