第5話 聞こえぬふりしたサヨナラ


 ​文化祭の準備が本格的に始まってから、俺は放課後のほとんどの時間を大道具係の作業に費やしていた。

 ベニヤ板に寸法を書き込み、ノコギリで切り出し、釘を打つ。

 体育館の隅に陣取った作業スペースは、木の粉とペンキの匂いで満ちていた。

 無心で体を動かしている間だけは、ぎくしゃくした恵とのことや胸の内に巣食う正体不明の苛立ちを忘れられた。


 ​一方、恵はといえば、舞台の中央で発声練習をしたり、ロミオ役の佐伯と台詞の読み合わせをしたりと、俺とはまるで違う世界にいた。

 時折、佐伯と楽しそうに笑い合う声が聞こえてくるたびに、俺はノコギリを握る手にぐっと力を込めた。


 見るな ! 気にするな ! 自分にそう言い聞かせながら……


「達也、ちょっといいかな?」


 ​不意に声をかけられ、顔を上げた。

 そこに立っていたのは、同じクラスの真由美だった。

 その手には、俺が今まさに作っている城壁のセットのデザイン画が握られている。


​「ああ、なんだ? 設計図、どこかおかしかったか?」


「ううん、そういうのじゃなくて……。少しだけ、話があるんだ。今、平気?」


 ​真由美はいつもの快活な笑顔ではなく、どこか緊張を滲ませた、硬い表情をしていた。

 何かただならぬ雰囲気を感じ取り、俺は頷いて作業の手を止めた。


 ​連れてこられたのは、体育館の裏手、古びた部室棟へと続く通路だった。

 西日が校舎の壁を赤く染め上げ、俺たちの影を長く引き伸ばしている。

 人気はなく、聞こえるのはどこかの部活の掛け声と、秋の風が雑草を揺らす音だけだ。


​「……で、話ってなんだよ」


 ​ペンキで汚れたジャージの手の甲を擦りながら尋ねると、真由美は一度ぎゅっと唇を結び、意を決したように口を開いた。


「あのね……私、好きな人がいるんだ」


 ​その言葉に、俺は少しだけ驚いた。

 てっきり、クラスの仕事の相談か何かだと思っていたからだ。


「へえ、そうなのか。誰だよ?」


「……それは、言えない。けど、その人、県外の大学を目指してる人で……」


 ​真由美は俯き、自分のスカートの裾を強く握りしめている。


​「私も、同じ大学に行きたいと思ってる。

 だから……卒業したら、この町を出ていこうって」


 ​その言葉は、俺の頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を与えた。


 真由美が、いなくなる?


 この町から?


 俺と、恵と、真由美……物心ついた時から、三人でいるのが当たり前だった。

 みのり屋だんご店も、夕暮れの通学路も、くだらないことで笑い合った教室も、そこにいるのはいつも三人だった。


 その一角が、欠ける。

 その事実に、まず胸が締め付けられるような寂しさを覚えた。


 ​だが、その感傷は次の瞬間に訪れた、より強烈で根源的な恐怖によってすべて塗り替えられてしまった。


 ​もし、恵が同じことを言ったら?


 ​もし、恵が俺の知らない誰かを好きになって……その誰かのために、俺の前からいなくなると言ったら ?


 この町を出て、遠くへ行ってしまったら ?


 ​その瞬間、俺の頭の中で幼い頃から何度も口ずさんできた、あの歌の一節が鳴り響いた。


 ​ ……♪……♬……♩……♫※ 歌詞を入れると怒られるのでスミマセン


 ​それは真由美の声じゃない、恵の声だ。


 いつか、未来のどこかで、恵が俺にそう告げる光景が、あまりにも鮮明なビジョンとなって脳裏に焼き付いた。


 そうなったら、俺はどうなる?


 恵のいない町で、恵のいない教室で、恵のいない人生を、俺はどうやって生きていけばいい?


 ​ぞわり、と背筋を冷たいものが駆け上る。


 真由美の言葉が、もう耳に入ってこない。


 彼女がどんな表情で俺を見ているのかも、もう分からなかった。

 視界が白くぼやけ、心臓が氷の塊になったように冷えていく。


 ​……聞こえぬふりして だまっていた俺


 ​そうだ、歌の通りだ。聞こえないふりをするしかない。そんな恐ろしい未来、考えたくもない。

 俺は恐怖のあまり、思考を停止させた。


 今、目の前にいる真由美にかけるべき言葉も、気の利いた慰めも、何もかもが頭から消え失せていた。


「……達也?」


 ​不安そうな真由美の声が、まるで水の中から聞こえるように遠い。

 俺は、凍り付いた唇から、なんとか言葉を一つだけ絞り出した。


「……そうか」


 ​それが、俺に言えるすべてだった。

 うつむいていた顔を上げた真由美が、俺の顔を見て、わずかに目を見開いた。

 そして、次の瞬間には、すべてを悟ったように、悲しげに、諦めたように、ふっと微笑んだ。

 その笑顔は、今まで俺が見たどんな真由美の顔よりも、ずっと大人びて見えた。


 ​彼女の瞳には、自分のことなど少しも見ていない、虚ろな目をした俺が映っているのだろう。


 彼女の切実な告白も、勇気を振り絞った賭けも、俺には届いていなかった。

 俺の心の中に、自分ではない誰か……河野恵という存在が、どれほど大きく根を張っているのかを、真由美は痛いほど理解してしまったに違いなかった。


 ​西日が俺たちの間にできた決定的な溝を、濃い影でくっきりと描き出していた。


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