SCENE#113 ベルリン、定期演奏会の夜
魚住 陸
ベルリン、定期演奏会の夜
第一章:開演前の不協和音
午後6時、ベルリン・フィルハーモニーの楽屋は、開演前の独特な熱気に包まれていた。指揮者であるヨハネス・シュミットは、指揮台の上で静かに楽譜を広げていた。彼の傍らには、古びた家族写真が立てかけられている。
若き日の彼と、今は亡き妻、そして幼い娘が笑顔で写っていた。この演奏会を成功させれば、長年の夢だったドイツ国内での大規模な慈善コンサートツアーが実現する。しかし、彼の胸には、得体の知れない不安が渦巻いていた。それは、単なるプレッシャーではなかった。
舞台袖では、首席フルート奏者のアンナ・ミュラーが、楽器を丁寧に拭いていた。彼女は今夜、重要なソロパートを任されている。しかし、その表情には、緊張とは違う、何か別の感情が読み取れた。数日前から、彼女の元には不穏なメッセージが届いていた。
「シュミットを止めろ。さもなくば、お前も同じ運命を辿るだろう…」
差出人は不明。しかし、そのメッセージは、彼女の心を深く蝕んでいた。アンナはシュミットの厳しさの中に、常に音楽への深い愛情と誠実さを見てきた。彼が誰かに狙われているなど、信じたくはなかったが、この不気味な警告を無視できなかった。
客席では、開場を待つ人々がざわめいていた。その中に、一人の男がいる。地元の有力者であり、表向きは慈善家として知られるクラウス・リヒター。彼の顔には、常に冷たい笑みが張り付いていた。彼は、シュミットの支援者の一人として振る舞っていたが、その実、シュミットの持つ秘密を探っていた。
シュミットは、かつてリヒターが関わっていた大規模な不動産詐欺と資金洗浄の決定的な証拠を握っていたのだ。その証拠は、数年前に偶然手に入れたものだったが、リヒターにとっては何としても消し去りたい過去だった。
「今夜で全てが終わる…お前の正義は、ここで朽ちるのだ、シュミット…」
貧しい育ち、嘗め尽くされた屈辱…あの頃の自分には二度と戻らない。そのためなら、どんな手段も厭わない。彼の脳裏には、今夜の計画が明確に描かれていた。完璧な計画に、そして完璧な隠蔽…
第二章:疑惑の旋律
演奏会が始まった。マーラーの交響曲第5番、冒頭の葬送行進曲がホールに響き渡る。その重厚で悲壮な旋律は、聴衆の心に深く染み渡る。シュミットの指揮は冴えわたり、オーケストラは一体となって音楽を紡ぎ出していく。しかし、アンナは、自分のパートに集中しきれていなかった。視線は、時折、シュミットの背中に向けられる。
「彼に何かあったら、私が助けなければ…」
休憩時間、シュミットは楽屋に戻り、一息ついていた。疲労からくる軽いめまいを感じていたが、普段とは違う緊張のせいだろうと自分に言い聞かせた。そこへ、見慣れない青年が訪ねてきた。
「シュミット先生、サインをいただけますか? 私はあなたの音楽に心から感動している者です…」
青年はそう言いながら、一冊のプログラムを差し出した。彼の瞳は純粋に輝いているように見えた。シュミットは快くそれに応じ、ペンを走らせた。その瞬間、青年の手がシュミットの飲み物に触れた。シュミットは一瞬、違和感を覚えたが、すぐに気にも留めなかった。青年は満面の笑みで「ありがとうございます、先生!」と礼を言い、足早に去っていった。
その様子を、楽屋の陰から見ていたアンナは、心臓が大きく跳ねるのを感じた。あの青年は、以前、自分に不穏なメッセージを送ってきた配達員に酷似していた。彼の差し出したプログラムの表紙には、シュミットが描かれた古いイラストが印刷されている。強烈な違和感を覚えたアンナは、急いでシュミットに駆け寄った。
第三章:闇に響く不協和音
「先生、本当に大丈夫なんですか? とても顔色が悪いようですが…」
アンナは声を潜めて尋ねた。
「いや、少しばかり疲れただけだよ。心配いらない…」
シュミットは笑顔で答えたが、その声には力がない。アンナは、意を決して耳打ちした。
「先生、誰かがあなたを狙っています。今さっき、あの青年があなたの飲み物に何かを混入するのを、この目で確かに見ました!」
その瞬間、シュミットの表情が凍りついた。彼は、アンナの言葉に耳を傾けながら、ふと、青年が差し出したプログラムの裏に書かれた文字に気づいた。
「お前は不正取引の証拠を持っている。お前の死によって、真実は闇に葬られるだろう…」
それは、リヒターの筆跡だった。シュミットは、かつてリヒターが慈善団体への寄付を装って大規模な資金洗浄を行っていた証拠を、カバンの中に隠されたマイクロフィルムとして持っていた。それを知る者は、誰もいないはずだった。
ちょうどその時、第二部の開演を告げるベルが鳴り響いた。
第四章:緊迫のクレッシェンド
第二部が始まった。第4楽章、アダージェット。アンナのフルートソロが、会場全体を包み込む。その美しくも悲しい旋律は、聴衆の心を揺さぶる。しかし、アンナの心は、もう不安でいっぱいだった。彼女は、確かに、あの青年がシュミットの飲み物に何かを混入したはずだと感じていた。彼が去る際、一瞬見えた彼の手には、小さな医療用チューブのようなものが握られていた。
ソロパートが終わり、オーケストラの演奏が続く中、アンナはシュミットの様子を伺った。彼の指揮は、次第に精彩を欠いていくように見えた。額には汗が滲み、顔色も少し悪い。呼吸も浅い。
シュミットは、状況を瞬時に理解していた。あの青年は、おそらくリヒターの手先だ。そして、自分はすでに毒を盛られている。体内にじんわりと広がる鈍い痛みが、それを確信させた。しかし、演奏はまだ続く。指揮を止めることはできない。彼の頭の中には、残された時間で何をすべきか、その選択肢が駆け巡った。
「あの証拠は、妻と娘の人生を狂わせたリヒターを裁くための、唯一の希望だ…」
アンナは、シュミットの明らかな異変に気づき、楽団員たちに助けを求めようとした。しかし、シュミットは、ジェスチャーでそれを制した。
「アンナ、今は演奏を続けるんだ! 私のことは心配いらない…君は最高の音楽を奏でるんだ…」
彼の視線は、舞台袖の天井裏に向けられた。そこには、会場の様子を記録する監視カメラがある。彼は楽譜に視線を戻し、最後の力を振り絞るかのように、再び指揮棒を振り上げた。
リヒターは、客席でシュミットの様子を注視していた。シュミットの顔色の悪さ、指揮のわずかな乱れ。
「フフ…計画通りだ。これで全てが終わる。証拠はどこにも見つからない。完璧だ…」
彼は満足げに呟いた。彼の計画は、完璧に進んでいるかに見えた。毒は緩やかに効き、自然な心臓発作に見せかけるように設計されている。シュミットが倒れれば、証拠は闇に葬られ、彼の過去は完全に清算される。
演奏はクライマックスへと向かい始めた。第5楽章、壮大な終曲。シュミットの体はもう限界に近づいていた。胃のあたりが焼けるように熱く、視界がかすむ。呼吸は荒く、意識が朦朧とする。それでも彼は、最後の力を振り絞り、情熱的に指揮棒を振り続けた。彼の指揮は、死に瀕した者の執念が乗り移ったかのように、さらに力強く、鬼気迫るものとなっていた。
その鬼気迫る指揮に、オーケストラ全体が呼応し、圧巻の演奏を繰り広げた。弦楽器の激しいパッセージ、金管楽器の咆哮、そして打楽器の轟き。それは、まるでシュミットの苦悩と、真実を求める叫びそのものだった。終曲の冒頭で鳴り響く強烈な主題は、彼の内なる闘争を具現化しているかのようだった。
第五章:終止符、そして沈黙
最後の音が鳴り響き、演奏会は終わった。会場は、割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。シュミットは、よろめきながらも、観客に向かって深々と頭を下げた。その時、彼の体が大きく傾いた。
アンナが悲鳴を上げて駆け寄り、倒れ込んだシュミットを支えた。
「先生!先生!しっかりしてください! 目を開けて!」
しかし、彼の顔はすでに蒼白で、瞳は虚ろだった。かすかに「…証拠…カバン…天井…監視カメラ…」と呟いたのを最後に、シュミットはアンナの腕の中で、静かに息を引き取った。カバンの中のマイクロフィルムは、どこにも見当たらなかった。リヒターの手先が、演奏時間中に、楽屋に忍び込み、巧みに抜き取っていたのだ。
会場は騒然となり、悲鳴が響き渡った。リヒターは、客席でシュミットの死を確認すると、満足げな笑みを浮かべ、館内の混乱に乗じて静かに会場を後にした。
「これで、俺の過去は完全に消え去った。誰もお前を信じることはないだろう、シュミット…」彼は心の中で呟いた。彼の計画は、完璧に成功したのだ。
その後、通報を受けたドイツ連邦警察(BKA)がホールに到着した。捜査官たちは形式的な現場検証を行い、楽屋の飲み物やシュミットの私物を確認したが、決定的な証拠は見つからない。シュミットの死因は急性心不全と発表され、事件性はないとされた。主任捜査官は、アンナの証言を聞くと、冷淡に言い放った。
「ミュラーさん、シュミット氏の死は遺憾ですが、科学的な証拠は何もありません。精神的なショックで錯乱しているのかもしれませんね。これ以上は、ご自身の精神状態を鑑み、どうぞお引き取りください…」
アンナの涙ながらの訴えは、まるで空虚な音の響きのように、警察官たちの耳には届かなかった。リヒターは、裏で警察上層部に圧力をかけ、捜査の方向性を巧妙に操作していたのだった。そして、彼はその後も何食わぬ顔で社会の表舞台に立ち続け、彼の過去の不正が明るみに出ることはなかった。
ベルリン・フィルハーモニーでの定期演奏会は、偉大な指揮者の突然の死という悲劇として人々の記憶に刻まれた。しかし、その裏で、真実は永遠に闇に葬られ、不正は裁かれることなく、事件に沈黙の終止符が打たれたのだった。
アンナは、シュミットの最後の言葉を胸に秘め、彼の死の真相を追い続けることを密かに誓った。彼女の心臓は、師の最後の囁きと共に、重い鉛のように沈んだ。真実を追うことは、孤独な戦いになるだろうと、彼女は直感していた。彼女がフルートを吹くとき、アダージェットの悲しい旋律は、師へのレクイエムであると同時に、彼女自身の、決して諦めない決意の歌となった…
SCENE#113 ベルリン、定期演奏会の夜 魚住 陸 @mako1122
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