第7話疑念の矢先

森の巨猿を追い払った翌日、村の空気は奇妙なざわめきに包まれていた。

 畑の傍らで麦袋を数えていた老人が声を荒げる。


「ひとつ、足りん……! 昨夜ここに積んであったはずだ!」


 ざわめきが広がる。

 徴税が終わったばかりの今、麦の不足は致命的だ。人々の視線が互いに交錯し、やがて――新参者である俺へと集まった。


「昨日、柵の外に出たのは誰だ?」

「巨猿を追ったのは……レインだよな」

「じゃあその時に……」


 言葉は鋭い刃となって背を突き刺す。

 俺は唇を引き結んだ。確かに昨夜、村人と共に森へ踏み込んだ。だが盗みを働く理由などない。

 だが理屈は疑いを消さない。人は最も疑いやすい相手を口にする。


「待って!」


 ミレイユみれいゆが声を張り上げた。

 緑の瞳が真剣に輝き、俺の前に立ちはだかる。


「レインがそんなことをするはずない。ロウを助けてくれた人よ。昨日だって皆を守って戦ったんだもの!」


「だが証拠はあるか?」

 低い声で村長オルドおるどが口を開いた。

 老人の目は冷たくはないが、厳しい。責任を背負う者の目だ。


「……ない。だが……!」

 ミレイユの声は揺れる。守りたい気持ちと、疑念の波の狭間で。


 俺は静かに前へ出た。

「俺じゃない。だが、疑われるのは仕方ない。俺は流れ者だ。ならば証明するしかない」


「証明?」

 オルドの目が細められる。


「足跡を辿ろう。昨夜の巨猿の騒ぎの時、麦袋を持ち出した者がいれば、痕跡があるはずだ」


 沈黙の後、村人たちは頷いた。

 俺は数人を連れて柵の外へ出る。湿った土に靴跡が残っていた。

 大きく、そして重い跡。巨猿のものではない。人の靴跡だ。

 俺は腰を屈め、慎重に指でなぞる。


「村の靴じゃない。底の形が違う」


「じゃあ……外から?」


 その瞬間、背後でざわめきが広がった。

 見張りの青年が駆け込んでくる。


「森の奥で……麦袋を見つけた! 爪痕がついて……!」


 運ばれてきた袋には確かに鋭い爪の痕が残っていた。巨猿に引きずられたらしい。

 安堵の声が漏れ、視線が少しずつ俺から逸れていく。


「……すまなかった、レイン」

 オルドが短く言った。謝罪というより、認めたという響き。

 だが完全に晴れたわけではない。人々の間にはまだ「石に映らなかった男」への疑念が残っている。


 その夜。藁床で目を閉じても眠れなかった。

 ミレイユの声が耳に残る。必死に庇ってくれた声。

 あの瞳を裏切ることはできない。

 だが、死によって強化される力を持つ限り、俺は人であることから外れ続ける。


「……いずれ、限界が来る」


 つぶやきは闇に吸い込まれる。

 森の奥では、今も巨猿の咆哮が木霊していた。


____________________

後書き


 今回は村で起きた麦袋紛失事件を描きました。

 偶然と恐怖が重なり、主人公に疑いの目が向けられる。村人の心は感謝と不安の間で揺れ動き続けています。

 次回は、森に潜む巨猿との決着、そして主人公がさらに力の正体に近づく場面へと進んでいきます。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る