第3話:河合奈保子と文部省の男達

「なあ、やっぱり用務員の河合さん、変だと思わないか?」 杉山が薄暗い暗室の中で現像液の瓶を揺らしながら、囁くように言った。


 薬品の匂いがむせ返る小さな空間、赤い安全灯の下で、写真部三人はいつものようにフィルムを確認していた。

「用務員室ってさ、旧校舎の中にあるんだろ。色々知ってるんじゃない?」「20時に時が止まるとか?人が壁をすり抜けるとか?不思議な記号が壁に映るとか?」

中島が分厚い丸眼鏡を曇らせて、指で拭いながら続ける。

杉山は深くうなづく「少なくても前の用務員の自殺は知ってるよな。だいたい、あの金歯とか怪しすぎるよ…昨日だって俺たちを見張ってたんじゃないか?なぁカイト」


カイトは現像作業に夢中になって聞いていない。

ただ黙々と現像したばかりの写真を光にかざした。

写っているのは何の変哲もない校舎の廊下や、古びた扇風機、埃っぽいガラス窓。お化け屋敷に使う素材としては怪しいが、それは雰囲気だけのものだ。


「河合さんて悪い人じゃないと思うけど……ちょっと普通じゃないかもな」

カイトは慎重に言葉を選んで答えた。


 その夜、写真部の活動が長引き、カイトは一人で帰ることになった。


 放課後の校舎は、不思議な静けさに包まれていた。

校舎を出て校庭に出る。ふと本館の大きな時計を確認するとちょうど8時。

「20時で時間が止まる…そんな噂もあったっけ…」

そうつぶやくと屋上に影を見つけて足を止めた。 


「……あれは……?」


 闇に浮かぶ月に照らされて、黒いシルエットが屋上の縁に立っている。

カイトは息をのんだ。それは、河合のものと思える腰の曲がった小柄な影だった。ゆっくりと、その影が夜空に向かって身を投げる――まるで重力を感じさせない、不自然なほど滑らかな動きだった。 


「河合さん!」


 カイトは闇の中へ走った。さっきの影が身を投げたであろう場所、屋上の下に息を切らしてたどり着く。


しかし…誰もいない。


 花壇には暗闇の中にひっそりと花は咲いていた。


その時、エンジン音が重く響いた。

ふと顔を上げると、校庭の正門から黒塗りのバンとクラウンが静かに出ていくのが見えた。薄暗いスモークガラスの向こうに、黒いスーツの男たちが並んで座っているのが横目に映る。

「……なんなんだ、あれ……」


翌朝、カイトは昨夜見た「河合の身投げと走り去る黒いバン」。あれは現実に起きたことだったのか…そんな想いを打ち消せないまま廊下を歩いていた。


「本当に飛び降りたんだって!しかも20時丁度に!」

と訴えるが、杉山も中島も聞き流すばかりだった。

「そんなわけないじゃん。気のせい気のせい。写真ばっかり見過ぎて目でも悪くなったんじゃない?」「夢でも見たんだろー」


 放課後、念のために写真部の三人で旧館へ向かった。

用務員室の前では、河合奈保子が腰を曲げて花壇に水をやっていた。

空には澄んだ秋の光。

彼女はタバコをくわえ、いつものように金歯を見せてにやりと笑った。


「なんだい、朝からじろじろ見てぇ。Hだねぇー。花も人も、手間暇かけなきゃ咲かないんだからねぇ」

「……あ、いえ」

昨日の記憶とあまりに違う、何げない日常の光景。カイトは目を閉じて、ホッと胸をなでおろした。


その日、お化け屋敷のために写真を何枚も撮ったが写っていたのは、ただ静かな教室や夜の廊下、本館の時計、埃をかぶった標本や、薄暗い窓辺ばかり。

怪しいものも、不思議な記号も、何一つ映り込んではいなかった。


軽音楽部の部室に、そんな写真を見せて報告に行くと、角田が大げさにため息をついた。

「やれやれ、ビビってただけ?あーあ、せっかく本物が映っている写真でお化け屋敷やれると思ったのに!やっぱり使えないなぁ根暗3兄弟!」

岩田が静かに「じゃあ、みんなシーツでもかぶってお化けやったら?」と言って、みんなで笑い転げた。 


 文化祭当日。

写真部員は慣れない仮装でお化け屋敷の暗幕の中に立ち、カイトは人生で初めてシーツをかぶって「うらめしや~」をやった。

惨敗だった。数えるほどしか客は来なかった。


「ぜーんぜん怖くない!」お化け屋敷をやっている教室前で、岩田と角田がカメラを構えて証拠写真まで撮る始末。

写真部3人は白いシーツ姿で肩を落とした。


午後。あまりにも暇なので、他の出し物巡りをしようということになり、三人は理科室をのぞいた。


午後の光が差し込むその一室には、紀藤先生がぽつりと机に座っている。


彼女は机の上に置かれた不思議な円盤をじっと見つめていた。


(つづく)

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