T-1 「つきまとい」


 土屋憧阿は気付かない。


「昔はさアニメ見るのも大変でさ、今みたいにサブスクとか無いからさ、なんていうの一期一会? その時を逃したら話題についてけないの。大変だったんだよ、ナイター中継まじで嫌い」


 滔々と語る。思い出を口にするたびに興奮してきたのか、額をテカテカと赤く染め、唇の端には涎の泡が噴いていた。

 この子、やっぱりオレの事好きなんじゃね?

 少なくとも、嫌われてはないよな。

 事務の佐岡波瑠はいつものように、笑顔を浮かべている。土屋の顔を見ながら、時折、視線だけ動かしてパソコンの画面を確認し、指を叩きつけるように高速でキーボードを操作する。

 仕事しながらでもオレの話に夢中だ。

 ふと波瑠が耳を覆う長さの黒髪を、すっとかき上げた。白い耳が見えた。土屋は呼吸と共に、こっそりと唾を飲んだ。


 事務長の馬場が顔を出した。

「佐岡さん、書類できた?」

「すみません。もう少しです」

「そ? 頑張ってね」


 会話の邪魔をしないように息をひそめていた土屋は、モニターの陰になるように屈むと、波瑠の耳元に顔を寄せた。東方の華の匂いがした。


「ごめんねごめんね。オレ、邪魔してるかな」

「邪魔じゃないですよ」


 波瑠は笑顔を浮かべている。黒目がちな瞳が、まるで月のような弧を描いていた。その下には、小さな泣きぼくろ。

 それに触れたかったが、土屋は結局、波瑠の肩に手を置いた。柔らかい感触。体温。


「仕事の邪魔になったら悪いから、オレは去るね。じゃあ、またね佐岡さん」

「はい。お疲れ様です」


 手を離す瞬間、親指が波瑠の首筋をかすめた。波瑠の体がビクンと硬直する。敏感な娘なんだな。いいぞいいぞ。


     *

     *


 デスクに戻ると、封筒が置いてあった。中を確認すると土屋は、大きくため息をついた。担当事務員の若狭に代筆させた、客への謝罪文だった。誤字がある。

 土屋は封筒を掴むと、若狭の机に叩きつけるように置いた。以前に佐岡波瑠が同じミスをした時は笑って済ませたが、仕事ができる彼女と若狭は違う。この──茶髪の化粧バキバキのデカ女は新卒だからか、教養が足りないのだ。ここでしっかりと注意をしておかないと、今後の彼女のためにならない。心を鬼にして土屋は叱りつけた。


「誰が謝りに行くと思ってんだよ。こんなの持ってけねーよ。やり直せ!」


 20分ほど詰問すると、若狭は涙を浮かべたが、土屋はさらに理詰めで問い詰める。泣けば許されると思っている、学生根性が気に食わなかった。事務長の馬場が「あとは私が言っておきますから」と進言してきたので、勘弁してやった。


     *

     *


 机で今日の日報を書きながら、土屋は佐岡波瑠の事を考えていた。

 職場に波瑠が事務員としてやってきたのは、冬のはじめだった。前職は秘書というだけあって人当たりが良く、物腰も柔らかい美人だったので男性社員は皆、色めき立った。土屋憧阿も、もちろん同じだった。

 コミュ障で、小太り。額は年々広がっている。そろそろ髪で誤魔化すのもしんどくなってきた。土屋は鏡で自分の顔を見るたびに、ため息をつく。話しかける事さえできなかったが、仲良くなれたのは春先にパソコンの設定をいじってやった時だ。


「すごーい。土屋さん、パソコン詳しいんですね。私、そういうの苦手で」

「あ。でも、ブラインドタッチできてるよね?」

「めっちゃ! 練習しましたから」


 その笑顔と、小さく出したピースサインで、土屋は完全に心を掴まれてしまった。気がつくと目で追っている。大した事ない仕事を作っては話しかけている。佐岡波瑠はすごく可愛い。

 まず瞳がいい。細目に沿って綺麗な二重まぶた。笑うと三日月。眉もいい。しっかりとした意思を感じさせる。口もいい。ぽってりとした唇はいつも艶々としている。細い首。時々、襟の隙間から少しだけ奥が見える。肌は白い。

 声も可愛い。他の事務員が出さないような柔らかな響きで、名前を呼んでくれる。「土屋さん」と呼ぶ、その── 「つ」の発音の際にキス顔になり、「ち」を発声時には八重歯が見え、「や」と言う時には唾液で濡れたベロが見える。

 夏の制服になって体のラインが分かるようになると、土屋はますますたまらなくなった。胸は小ぶりだが柔らかそうで、良い。尻も垂れていない。身長があるわけじゃないが、ほどよく女の子の体格をしていて、高ポイントだ。ストッキングに包まれた脚も綺麗だった。

 チャイナ服とか似合いそう。最近つけているオリエンタルな雰囲気の香水のせいもあって、土屋は頭の中で波瑠に中国風の衣装を着せていた。


「土屋さん。ちょっと来て」


 思考を邪魔したのは、上司である山本の声だった。土屋よりも7つ年下で、入社した時には仕事を教えたものだが、山本はその恩をすっかり忘れてしまったようだ。何度も同じ事を注意してくる。うっかり忘れたのは悪かったけど、しつこいんだよ。何度も何度も言うんじゃねーよ! 土屋は頭の中だけで怒鳴った。


     *

     *


 コンビニで買った弁当とカップ麺を平らげると、土屋は発泡酒を飲みあげた。呑まずにはいられなかった。仕事も同僚の山本も若狭も馬場も、何もかもが気に入らなかった。空容器を袋にまとめて部屋の隅に積む。それが崩れてしまった事にまで、腹が立った。


「うー。うーうー。うーうーうー」


 ゴミを蹴飛ばし、床を転がり、足をジタバタさせる。形容しがたい感情が、土屋の脳内で暴れ回っている。


 この世界は土屋憧阿に優しくなかった。

 優しいのは佐岡波瑠だけだった。


 指先に残った波瑠の首筋の感触を思い出しながら、土屋は這って布団まで移動すると、そこに寝転んだ。風呂は昨日入ったから、今日はキャンセルしよう。手を伸ばすと、DDAを掴んだ。純白だったボディは煙草のヤニで黄色く変色していた。

 土屋憧阿が50歳の誕生日に、自ら買った物だった。決して安くはない買い物だったが、彼女も子供もいない土屋は給料を好きに使える。最近はアニメの円盤を買う事も少なくなっていたし。


 DDA──好きな夢を見る機械──。

 まさに夢のアイテムだ。おかげで、風俗に通う回数も少なくなった。

 頭に被ると、土屋はDDAを起動させた。声紋認証のために「ドードー鳥」とルシッドネームを名乗った。土屋憧阿の「土」と「憧」を音読みしたものから付けた名前だったが、モデルにした生物には不思議な共感を覚えていた。

 飛べない鳥。ゆえに絶滅した鳥。

 ──クソッタレだ。


 複数の認証が終わると、土屋の意識は白いホーム画面に切り替わっていた。セットしていた『夢の欠片』の設定画面を開く。

 夢のシチュエーションは、掲示板に放流されていたログから構成した。『異世界ファンタジー』はロマンだ。その物語は土屋の意思ではなく、オートで進行していく。

 次いで、自分以外の登場人物を決める。基本的には構成したログの情報に従うので勝手に登場するが、ヒロインだけはこだわりたかった。

 モデルを呼び出す。黒髪、三日月の瞳、白い肌、左目の下の泣きぼくろ。柔らかそうな胸、引き締まった尻、肉がついた脚。最後に、今日触れた首筋の感触を吸い込ませる。

 佐岡波瑠が完成した。もはや現実と差異は無い。ずっと不明だった感触を入力した事で、このひと月の間、毎晩のように修正を加えていた設定が、ようやく満足いく出来になった。

 ようやく夢の物語を開始できる。土屋の胸は少年のように高鳴っていた。


「……DIVE」


 そのキーワードで。

 土屋憧阿は、夢の中へと沈んでいった。


     *


 夜だった。

 どこか、森の中だった。

 見渡すが、当然見覚えはない。ログの元々の持ち主が見た夢がベースになっているのだ。木の匂いがむせてしまうほどに青臭かった。


「すげえリアル」


 土屋は自分の手を見た。肌がみずみずしく、指毛も無かった。黒いダルダルの服を着ているが、お腹も出っ張っていない。跳躍も容易い。16歳の設定にしたのは正解だった。


「ステータスオープン」


 声に出してみると、空中に真っ白い文字が現れた。おっ。これこれ! 自らのステータスを確認してみると、『NO NAME(16) 職業:暗黒魔法使い』と書いてあった。


「名前、どうしよっかねー」


 少し考えてみる事にした。

 土屋憧阿。──ないない。本名でプレイなんて馬鹿がする事だ。現実を思い出してしまうし。

 トーア。──やはり本名は気が引ける。

 ドードー。───鳥の名前もちょっとな。

 D2。──かっこいいけど、メカっぽい。

 うーん?


 その時だ。

 近くで爆発音がした。続けて二つ。火柱も見えた。土屋は一瞬体を硬直させたが、ここが夢の中である事を思い出すと、走り始めた。やはり、体がかるい。茂みを飛び越えるのも楽勝だ。

 

 音がした方向を見ると、大勢の人影があった。人の形をしているが、生きていなかった。目玉が取れている者もいれば、腕が無い奴もいた。半開きにした口からうめき声を出している。ゾンビだ。

 そしてそのゾンビに囲まれるように、一人の少女が立っていた。険しい顔で周囲の動きを警戒している。チャイナ服。スリットから出た脚は肉感的。指でお札のような物を挟んでいる。キリッとした眉毛。三日月の瞳。泣きぼくろ。


 佐岡波瑠だ!


 土屋は自分のステータスを開いた。『職業:暗黒魔法使い』とあったからには、どこかに使用魔法リストもあるはずだ。

 それを見つけると、土屋はもっとも見栄えが良さそうな魔法を唱えた。


「ラビアンローズド・ファイヤーボルト!」


 出現した火球が、波瑠を取り囲むゾンビ共を駆逐する。「うわっ。すげえ、すげー。オレ、つえー」

 思っていたよりも威力があった。どうやらチート能力を持っている設定らしい。いい感じだ。

 波瑠は驚いた顔をしていたが、その表情も可愛かった。土屋は彼女に近づき、声をかけた。


「おケガはありませんか、キレイなお嬢さん。危ない所をカッコよく助けたオレに感謝してね」

「ありがとう。私はシャオ」


 佐岡だから「シャオ」か。呼びやすいけど、安直だな。土屋は自分の夢に文句をつける。


「名前、教えて」

「えーっとオレは、──ディディと呼んでくれ」

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ユメユメニアラズ -you may, you made me alive- 小坂ともみ @tomomi-kosaka

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