M-2 「マジか」
「ちょっと待って。どこまでが──夢の話?」
何度、口を挟んだかは覚えていない。とりあえず、たくさんだ。
夢の話──。空想や妄想を指した言葉だが、今の私はその用途では使っていなかった。文字通りの意味だった。
机の上には1冊のノートがあった。アタシがメモを取る為に用意したものだ。アタシの文字で無数の文字と図形が記されていて、時々夏芽の小さくて形のいい字が記入されている。最初はただ、話を聞いていただけだったが、途中でおかしいぞと気付き、慌ててメモを取り始めた結果だった。メモは27ページに渡っていた。
「えっと。別所先生が……ちょっと待って。どこに書いたっけ」
夏芽がノートをペラペラとめくる。「──あった。この、待ち伏せ計画を話した所まで」
「何万字か彫れ、って言った後?」
そう、と夏芽は頷く。その目に再び涙が浮かぶのを見て、アタシの胸も締め付けられた。少しだけ鼻をすすって、アタシは壁掛け時計が13時なのを見ながら、ふぅむと考える。聞かされた夢物語。空想や妄想という意味じゃなく、文字通り。
「モモちゃん、ありがとう。信じてくれて」
妄言じみた独白に気恥ずかしさを覚えたらしい。
夏芽は両手で自らの頬を挟み、隠すような恰好で言った。それには答えず、アタシは笑顔を返した。
正直、信憑性は30パーセントほどだった。証明するから眠ってみてよ、と夏芽は何度も言った。いや、それには及ばない。証明なんていらない。この子が嘘をつく必要がない。それだけで十分だ。
「でもなんで、モモ? アタシがモデル? とか?」
そう聞くと、夏芽は真っ赤な顔をしてうつむいた。雄弁すぎる沈黙だ。釣られてアタシも頬が熱くなってしまった。さておき。
呼吸を深めて、脳の回転数をあげる。夏芽の話をノートで補完しながら、再構築していく。彼女視点だけでなく、別所視点で事象をなぞったりもした。不明な部分が多すぎて穴だらけではあるが、頭の中で簡単な研究概要をまとめる。
それと同時に、携帯を開く。着信が24件、新着メッセージがSNSの物も含めて139件来ていた。どうでもいいメールは未読のままにするとして、アタシは宛名と件名だけをさらっていく。
その中に、佐倉からのメッセージを見つけた。件名は「刑事来た!」だった。写真が添付してあったので開いてみると、訪問した刑事の名刺を撮ったものだった。そこには、強行犯係の小野寺昭と書かれていた。地域課じゃなく、いきなり刑事課が出張ってきた……?
「……マジか……」
「どしたの、モモちゃん?」
「いや、ちょっとめんどい人が、からんで来たみたいで……」
大規模ではないが、修正を加えなければいけない。脳内の作業を続けながら、他の情報を精査していく。何か連絡はあったかと尋ねると、夏芽が自分の携帯を取り出し、着信が2件あったと答えた。どちらも学生課からの電話だそうだ。
「ゼミのグループチャットが、先生の話題ですごい事になってるね」
そだね、とだけ答えて、アタシは思考を止めた。夏芽の顔を見る。また思い出していたのか、涙ぐんでいた彼女はアタシの視線に気付く。
「よし。ナッチ、3つだけ約束して」
1に、これから1週間は出来る限り、行動を共にすること。アタシが不在時の出来事は、後で情報を共有すること。
2に、基本的にアタシの話に合わせるようにしてもらうが、打ち合わせていない事項の場合は正直に行動し、発言すること。
3に、夢に関する内容を聞かれたら隠さないこと。
「了解したけど……」
やはり夏芽は気になったようだ。「条件3だけがよくわからない」
それは保険みたいなもんだ、そう答えはしたものの、この約束事のキモはそこだ。二重の意味がある。
夢について夏芽が話す内容は、とても現実離れが過ぎて、聞かされた者はすぐには理解ができないし、納得もいかない。アタシだってそうなのだから。質問者は夏芽の精神状態について、疑問を覚えることになるだろう。それでノイズをふるいにかける。そうして残った情報にだけ意味がある。
そしてもう1つの意味──。予想では2日以内の話だろう。その現場にアタシはいるはずだから、約束1と2にさして意味はない。
「とりあえず、昼ご飯食べよっか。遅くなったけど」
食欲は無かったが、これから訪れるであろう長丁場に向けて、栄養は蓄えておくべきだ。アタシはそう提案した。脳を動かすにもエネルギーが必要だ。夏芽の夢に付き合わないといけないし。
信頼と疑いと不安が3割ずつ。
残るは……期待、かな。
*
*
近所のファミレスで、ちょうど食後のコーヒーを飲んでいた時だった。アタシの携帯が鳴った。学生課の佐倉からだ。メッセージではなく、コールしてきたという事は至急の用事か。出てみると佐倉は挨拶もそこそこに、同級の伊達夏芽と一緒なのか、と尋ねてきた。
「いますよ。仲良くご飯食べてたとこです」
アタシの言葉に、夏芽がスプーンを咥えたまま顔を上げた。いいから食べなさいと、手を振ってジェスチャー。
「今、掲示板に呼び出しは貼ったんだけど」
学生課は学生に用がある際には、掲示板に学生番号を書いたカードを貼りだす。このご時世に愚鈍な事だとは思うのだが、古くからの習わしらしい。無意味だ、と佐倉自身も愚痴っていた。反応が無ければ、掲示日と期限との中間辺りで、どうせ電話を鳴らすからだ。
「……先方が急ぐ、と?」
「察しが良くて助かるー」
ルールを無視して、夏芽に電話をかけて呼び出すよう命令できる相手が、佐倉の元にいる。
「30分で着けるかな」
「りょ。じゃあ、伊達ちゃんに学生課の、応接室まで来るよう伝えて」
佐倉は通話の最後に、うまくヒントを出してくれた。応接室を使うという事は、相手は学長や教授じゃない。警察だ。
だいたい想定内の時刻だった。14時11分。つまり今朝の段階で、警察は監視カメラの存在に気が付いていており、精査が終わったという事だ。
夏芽はまだ食べ終わっていなかった。っていうか、ほとんど食べていなかった。いつもスローペースで小食の彼女ではあったが、オムライスの「オム」が少し欠けた程度だった。無理やり野菜ジュースを飲ませた。
学生課に顔を出すと、何か事務仕事をしていた佐倉が立ち上がる。目線だけで会話をし、彼女のあとについていく。学生課応接室。佐倉はノックして、「伊達さんが見えられました」と中に告げた。佐倉の案内にお礼を言って、アタシは夏芽の手を引いて入室した。
左の1人掛けソファにスーツの男。奥のパイプ椅子には学生課の課長が座っていた。刑事らしき若い男が立ち上がって、アタシと夏芽の顔を交互に見た。何かを言い出す前に主導権を握る。
「アタシは遠藤萌々香。で、こっちが……『ナッチ』?」
「……伊達夏芽、です……」
はじめまして、と言ったのと同じトーンで、刑事は「お呼びしたのは伊達さんだけなのですが」と言った。そんな事は承知の上だ。
「この子が昨晩、別所先生の研究室に行ってるから、その事を話しておかなきゃと思って。そうよね、『夏芽』?」
「……」
「とまあ、ショックでうまく話せないので、通訳代わりに。それに──」
あえてゆっくりと室内を見渡す。
「婦警さんもいないみたいですし。男の人しかいない密室にこの子1人を残すわけにはいきません。錯乱したこの子が暴行された、とか血迷って言い出しても困りますし」
「……お話を伺いたいだけなのですが」
「それとも、そこのドアを開放しておきますか? 先ほど案内してくれた、学生課の佐倉さんに臨席していただいてもかまいませんが?」
話を知る人間は少ない方がいいに決まっている。なにせ夏芽は、被疑者になるかもしれない重要参考人だ。刑事はしばし沈黙した後、鼻だけで息を吐いた。手帳を出す。
強行犯係、巡査、上杉秋良。
聞き覚えがあった。字面ではピンと来なかったが、「アキラ」という名前で思い出した。同音の名前で憶えていた。小野寺昭のペアっ子だ。
アタシと夏芽が並んで、ソファに腰を下ろす。佐倉が持ってきてくれたお茶に口をつけた時、上杉が口を開いた。
「では遠藤さん。伊達さんは昨夜、別所先生の研究室にいたとか。それは何時頃の話ですか?」
「話せる、『夏芽』?」
「……」
夏芽は口を開こうとしない。赤い目をしばたかせて、うつむく。
「夏芽は昨日の17時50分頃に、駅前公園で別所先生と待ち合わせをしていました。その場には私もいました。彼女はタクシーに乗り、大学へ。夏芽の研究に関する指導を受けるためです。先生は徒歩でした。大学まで歩いて15分ほどかな。アタシは飲みに行くので、そこで一旦別れました」
アタシの言った「一旦」の時に、上杉のメモを取る手が一瞬止まった。
「夏芽の研究はその日に終わらず、持ち越して明日──つまり、今日、続きをおこなう予定でした。『ナッチ』、何時頃で約束したんだっけ?」
「えっと、都合がいい時間に来てくれ、という事だったので、私は午後8時頃に、研究室にお伺いするつもりでした」
「で昨晩、夏芽が研究室を出たのが、おそらく22時半。電話を受けました。その20分後にアタシは夏芽と再会し、2人で居酒屋に行きました。解散したのは23時40分頃です」
「……遠藤さんは、とても正確に時間を覚えてらっしゃるようで」
助かります、と言いつつも、上杉の目は笑っていない。
三人で会った駅前公園は、ちょうど上り電車が出発した時刻であったし、飲み会の解散は夏芽の終電に間に合うようにした。駅前には防犯カメラがあるし、居酒屋のレシートはちゃんと取っている。夏芽が研究室を出る際には別所が見送ってくれたはずだが、そこも防犯カメラが仕事をしているはずだ。
「時間をとるのが癖なもんで」
「それでは、伊達さんにお聞きします。今の遠藤さんのお話に何か、付け加えておくような事はありますか?」
「……」
「では、質問を変えますね。伊達さんは別所先生の研究室で、どのような話をされたのですか。研究について、ということですが?」
「『ナッチ』が卒論にしたいと思ってるテーマって、方言なんだよね」
「あ、はい。地域による方言の変化、について、です」
「それを別所先生と話された、と。こんな風に生徒さんと遅い時間に研究したりする事は多いのですか」
「そうですね。個人であったりグループであったり研究会全体だったり、場合によりけりですけど。先生はいつも時間を取ってくれました。忙しい時もあったのに、いつも私達に……」
そこで、じわりと夏芽の瞳に涙が浮かんだ。言葉が止まり、代わりに涙粒があふれてくる。上杉が不自然に手帳に目をやった。学生課長はもらってしまったのか、目元を手で押さえている。アタシはハンカチを夏芽に渡した。
「先ほど遠藤さんが時間をおっしゃってましたが、伊達さんは研究室に、どれくらい滞在されてたのですか? なにか時間を確認した覚えはありませんか?」
「別所先生が腕時計をされてて、それで時間の話をした記憶はあるんですけど、モモちゃ──遠藤さんみたいに覚えてはいません。すみません」
と。
そこで夏芽が言った。「あ。わかるかも。DDAに時間が」
しまった! と思った。上杉が「DDA……」とつぶやく。その存在については、打ち合わせはしていなかった。
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