A-5 「朝日の夢」


「あなたが好きなんです、ミサキ先輩!」


叫んだ名残りの「い」の音が響いて消えると、今度は静寂が満ちていた。

僕の手は、ミサキ先輩の肘の辺りを掴んでいた。白すぎる皮膚に爪が食い込むほど力の限り引っ張ったようで、僕に覆い被さるような体制だった。

必然──僕たちの顔は近い距離にあった。


驚いた表情を浮かべたミサキ先輩。大きな目。まばたき一つで感情を切り替えたようだ。八重歯が顔を覗かせた。

「……元気みたいだな、少年」

間近で見るミサキ先輩はやっぱり──


「そんだけ元気あるなら、断っても平気だよな。ごめんな朝日くん。気持ちは嬉しいけど、お断りするよ」

そう言ってニヤリと笑った。


「男同士なんてごめんだね」


え。


バシンッ。

と音がした途端に、僕の手がベッドに叩きつけられた。腕の半ばに紅葉じみた指の跡。遅れて、痛み。

「いっくんから手を離せ変態ホモ野郎!」

サヤカさんの手も赤く腫れていた。それ以上に彼女の顔は真っ赤だった。


「ッつ」と短く声をあげて、ミサキ先輩が僕から離れた。僕が掴んでいた腕を反対の手で押さえている。血が滲んだ穿孔。僕の指が掴んでいた場所だ。

「大丈夫、いっくん?」

サヤカさんがミサキ先輩に駆け寄る。ミサキ先輩は椅子に腰掛けて、手をひらひらと動かした。

それを見て、再びサヤカさんが僕へと振り返ると、サークル活動中には聞いた覚えもないような、低い、底から響くような声を出した。


「あんた、なんなの? どういう神経してんの? 頭おかしいの? ──そりゃあ前からか。頭おかしいんだったら頭おかしいで、おとなしく寝てりゃいいんだよ。なんなのさっきの!」

「……さっき……?」

「はあっ?」

 アニメだったらサヤカさんの耳横で結えられた髪も、一緒に逆立っていたことだろう。白のサイドレールを思い切りバンと叩いて、彼女の怒りが加速する。

「覚えてもないの? 記憶力バカなの。元からバカなの。部屋の生ゴミと一緒に頭まで腐ったの? いっくんの腕、引っ掻いたじゃん。ボコボコじゃん! 血が出るほど掴むってなに? 加減って言葉まで覚えてないの? そんで乱暴に引っ張るって、あんた動物? 動物だったら人間サマに迷惑かけんなよ。勝手にのたれ死んどけよ。

学校にも来ないしさ。サークルにもさ、毎日来てた人間が急に来なくなってさ。で、なんであたしが聞かれないといけないのさ!同じクラスってだけじゃん。聞かれても知らねっての。

みんな優しいからさ、心配して家まで言ってさ。そしたら急にぶっ倒れて。迷惑かけまくるならさ、もうそのまま死んどけよ」


チョンチョンと指でつついてミサキ先輩が合図を送ったが、それを見て──あえて無視してサヤカさんはヒートアップする。


「いっくんはさ」

 そうか。それはミサキ先輩のことなのだ。

「いっくんはさ、超! 優しいからめっちゃ心配してたんだよ。さっきだってあんたがあーだのうーだの喚くからさ、心配して様子見てたんじゃん。そしたらなに? 腕掴んできて、怪我させてさ、あげくになによ。


好きです岬先輩──って?


いっくんは男! 岬一郎。岬一郎って言うの。長男だから一郎。なに? 長男だから一郎って。大正の生まれか。それとも明治か。えっとその前は──まあいいや。長男って言葉わかる? 長い男って書くの。男。男。いっくんはあたしと付き合ってる正常でまともな、男なの。あんたみたいな性癖歪んだ変態にコクられるって、めっちゃかわいそう。あとで慰めてあげないと──」


ね。と言うに合わせて彼氏にウインクを送れるくらいには、サヤカさんは僕に罵詈雑言を投げつけて怒りを発散させたらしい。

ミサキ先輩はやれやれとため息をついた。

「言い過ぎだぞ沙也加」

「えー言い足りなーい」

「本気かお前」


なんやなんや何の騒ぎやねん、と騒々しく登場したハヤシ部長の顔を見て、──正確には彼が開けたスーッと横にスライドする扉の形状を見て──ようやく僕はここが病院の一室で、自分がベッドに寝かされていたことに気がついた。

なぜここにいるか、という記憶は曖昧だったが、推測はできたし、おそらく正解なのだろう。


ふと額に手を当てる。あるものがなかった。季節ひとつ分くらい装着していたものがないというのは、自分の臓器が欠損してしまった喪失感にも、古い友人の旅立ちを見送った寂寥感にも、似ていた。あるいは──憑き物だった、かもしれない。

それにしても。

あるものがない、って不思議な語感だな。中国人キャラの言う「ないアル」か。


「……こんな時に笑ってるって、あんたの神経どうなってんの?」

「俺の出落ちネタが決まったんちゃうん?」

「関西人の癖に出落ちの意味を知らないんですか」

「知っとるっちゅうに」

「知ってることを知らないだけですもんね」

「ちゃうわ。知ってることを知らないことを知ら…….知って……る?」

「なぜ疑問形ですか、関西人?」

「なんで疑問形なん?」

息のあったラリーを交わす2人は、部室でも同様な会話をしていたのだろう。児童文学を論じる堅物の先輩と、それを好意から我慢する、いじらしい後輩。そんな風に見ていた僕の目は──

そんな風に聞こえた僕の耳は──

そんな風に捉えた僕の心は──


何を見てたんだろ。

きっと、夢ばかり見ていたのだ。


覚悟を決めて僕は、大きく体を動かしてミサキ先輩と向き合った。瞬時にしてサヤカさんが体をこわばらせたが、ハヤシ部長が両肩を強引に掴んで病室の外へと連れ出してくれた。

ドアが閉まると、途端に静けさが気になった。誤魔化すように僕は人差し指を立てた。それをすっと下ろす。

「どうした、少年?」

「すみませんでした。そこ、怪我」

「……ああ。沙也加が大袈裟なんだよ。こんなの格闘技やってたらよくあることさ。気にすんなって」

「付き合ってたんですか」

「うん? あ。沙也加? そ。──知らなかったとは知らなかったよ。びっくりだ」


「それなのに……」

えっとあのその、と口走ってしまう僕を見て、困ったように、悲しむように、笑うようにミサキ先輩は唇を歪めた。

「──なのに?」

「すみません。好きだとか言って」

「そこ謝るなよ」

そう言ってミサキ先輩は大爆笑する。「謝るかよ普通。馬鹿だなあ、お前。馬鹿だ、超馬鹿だ」

「馬鹿ですかね」

「馬鹿正直、かな。非常にいいと思うよ」

ヒィヒィと声をあげ、お腹を抱えて、足をバタバタと動かすミサキ先輩。いつだってクールで皮肉屋の彼がこんなに笑うなんて。初めて見た。なんだか嬉しくなって、僕も笑った。笑いすぎて涙が出てきた。


笑いすぎたから。

この涙は、笑いすぎたから。


     *


「──で?」


     *


季節はすっかり冬に変わってしまっていた。

部長から連絡を受けて大慌てで飛んできた両親にはしこたま叱られ、サークルメンバーには何度も頭を下げ、点滴の袋が空になるのを何度か目撃した頃、僕は自分のアパートへと戻ったのだった。


入院中に部屋はすっかり片付けられていた。

一人息子が大学入学して半年で、体と頭を壊して入院──そんな嫌な出来事はそりゃあ、払拭したいに決まっている。片付け方が尋常じゃなかった。入学したての学生の部屋か。


新品同然のベッド。そこに倒れ込むと僕はその場で体を反転し、天井を見上げた。自然に枕元を手で弄っていた。

「……そりゃそうだよな」

DDAがあったスペースだけが、不自然にあいていた。


病室では頭にDDAがないことを「臓器の欠損」だと思ったけど、違った。

DDAは僕にとって──「大気」だった。


生命体が大気から酸素を吸い込んで生きるように、僕はDDAから夢のエネルギーを吸い込んでいた。それは僕という生命体の形を保ち、潤し、日常の喧騒や辛い現実から僕の心を覆うフィルターでもあった。

DDAがなくなった今、僕は呼吸を忘れた魚のように、乾き切った砂漠の植物のように、体も心も乾き切って、ただひたすらに息苦しかった。


「……ミ」


思わず名前を呼びそうになって、慌てて自分を戒める。頬を叩いたのだが、思わぬことに手のひらがびっしょりと濡れた。

僕は知らず、泣いていた。この涙は、どこから来たものなのだろう。


痛み? 頬を叩いたから。まさか。あるいはサヤカさんが叩き落とした腕。赤い紅葉を思い出す。違うなら、心? 夢に潜り続けて見失ったままの心の痛み──?


罵詈雑言に傷ついたせい? サヤカさんの言葉の刃。その言葉が、僕自身が薄々感じていた、目を背けていた真実だったから──?


寂しさ? 久しぶりに見た親の顔。サークルメンバー。安堵よりも強く感じた、理解してくれる人がいないという、根源的な孤独感──?


喪失感? DDAを失った。それと同時に夢を失った。夢の中の存在を失った。生きる世界を失った。僕の魂の半分を無くした、その喪失感──?


失恋? 夢の中で愛した完璧なミサキ先輩と、現実で僕を突き放したミサキ先輩。両者との間に存在する、どうしようもない隔たりに絶望した、失恋の涙か──?


僕は、そのどれもが正解だと思った。そして、そのどれもが正解じゃない気がした。


名前のない感情。目からこぼすだけじゃ追いつかない。僕は枕に顔を埋めると、あふれんばかりに──あふれろとばかりに大声を出した。


     *


「──で?」


     *


世界が終わっていくのを感じた。

色が消え、ノイズまじりに変わる景色を、僕は知っていた。白濁する視界。


一瞬の静寂の後、目の前がまばゆい光に包まれる。眼球の奥まで響くような不思議な感覚。まぶしいと感じるけれど、目に優しくないわけでもない。ただただ、白。自分がいつしか目を閉じていることさえ分からなくなる。


     *


「で?」

僕の報告を聞いての第一声がそれだった。

「なんでこうなるんだ、少年?」


     *


僕が終わっていくのを感じた。


     *


これまでの顛末を語り終わった僕は言った。


「ただいま」


僕の言葉に。

困ったような。

悲しむような。

顔をして岬先輩──ミサキ先輩は優しく微笑んだ。


「……おかえり、とは言い難いんだけどな」


八重歯が見えた。


     *


静寂。


     *


「まあ。来てしまったのは仕方がないよな」

「帰るつもりはありませんから」

「帰すつもりもないよ」

ミサキ先輩は僕の手を取り、引っ張った。そのまま身をひるがえすと、走り出す。

「帰る世界もないよ」


彼に手を引かれ、僕は。


     *

     *


夢にまで見た夢を見ていた。

「好きですミサキ先輩」

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