A-4 「明烏」


ミサキ先輩と交わすキスって──

甘くて。

温かくて。

柔らかくて。

いい香りで。

僕の全て。

僕の全てで。

彼女の腕の中で、

僕は初めて、

自分が生きているんだって、

そう実感していた訳で──


「好き」

「やめて」

「愛している」

「恥ずかしいこと言うなって」

ミサキ先輩は笑って、

僕のほっぺたを軽くつねってきた。お返しとばかりに僕も彼女の後頭部に手を回し、その首元でクルンと跳ねた癖っ毛をもてあそんだ。

目が合う。

再び僕たちは唇を交わす。

そうやって2人の境目が、

いつか混ざって、

溶け合って、

ひとつの大きな塊になってしまえたら──


「そんなの嫌だって」

ミサキ先輩は困ったような表情を浮かべて、

「そんなおかしな塊にならなくても、大丈夫。私はずっとキミから離れない。ずっとそばにいるよ。心配するなって」

笑顔を浮かべると八重歯がチラリと見える。それに、と彼女は付け足した。「私は、私とキミ、でいたい」

「どうして」

「だって」


2人じゃないと、愛し合えないじゃないか。そう言うとミサキ先輩は自らソファに倒れ込み、彼女のアイデンティティを崩壊させんばかりの妖艶な表情を浮かべた。

「──来て」

「はい。喜んで!」


僕はミサキ先輩を愛している。


    *


僕はミサキ先輩を愛している。

愛している。

愛している。


耳に響いていた何を言っているかわからないアナウンスは連続使用か、一日の使用時間制限か。とかく警告してくるうるさいDDAを黙らせた途端、頭の奥で今度は別の警報が鳴り響く。発しているのは僕の体だ。


鼓動は激しく脈打ち、体中が熱い。なのに指先は酷く冷たい。頭はがんがんと鈍い痛みに襲われ、喉がカラカラに乾いていた。秋が近いせいかもしれない。

夢から覚めて、僕は一人。

喉に張り付く不快感と、全身を包む汗の匂い。

この不愉快な現実が、いつだって、僕の多幸感を消し去っていく。


でも、今日はそれだけじゃない。心臓が締め付けられるような、底知れぬ寂しさが胸に広がっていた。DDAを脱ぎ捨て、上半身を起こすと僕は目を閉じるのをやめた。


「ミサキ……先輩」


声に出して呼んでみる。

暗い部屋。僕の部屋。

床は見えない。明かりがないという比喩じゃない。汗で臭くなった服を脱ぎ捨てていく内に、文字通り見えなくなった。

衣類だけじゃなく、カップ麺の空き容器やパンの袋も混じっている。空き箱。靴下。潰れたペットボトル。丸めたティッシュ。何かの切れ端に、折れた鉛筆。それらの下に、読みかけだった本が読みかけのまま埋まっているはずだ。


「ミサキ先輩?」


いくら呼んでも彼女はいない。

夢の中の、僕の全てだったミサキ先輩は、どこにもいない。

僕は震える手で、枕元に置いてあったペットボトルの水を一気に飲み干した。いつ買ったものだったか、変な匂いがしたような気もしたけれど、涼しくなってきたから、きっと大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。

それでも喉の渇きは癒えない。


「ミサキ、先輩」


癒えないのは喉だけじゃない。

僕を潤すものがここにはない。

──DDA。

手に取ると、額に当たる鉄板のようなパーツに貼り付けてあったアルミホイルを剥がす。乾いた汗と埃のせいで張り付いていたので、爪で擦るように削り取る。

新しいものに取り替える頃には、DDA本体の温度はすっかり下がっていた。耳当ての部分にテープで貼り付けていたハンディファンも、充電していた予備と交換する。


「先輩。ミサキ先輩」


DDAを被った。

電源を入れると同時に指紋認証センサーを4回タップ。何モードかは知らないが、強制シャットダウン時まで復元する。「夢のまた夢太郎」は久しく名乗っていない。

コンソールを開くと、設定から本体設定パネルを開く。タイムゾーンを呼び出し、他国にしていたのを日本に戻す。システムクロックの作動を確認。


「ミサキ先輩ミサキ先輩」


ネットに潜れば、色々な事を教えてくれる人はたくさんいるものだ。DDA専用掲示板ではなく、全く別の世界には、有益な情報がたくさんあるものだ。

00:00:00

カウンターもちゃんと元に戻っている。


「ミサキ先輩ミサキ先輩ミサキ、ミサキ」


夢の欠片はセットしっぱなしにしてある。これ以外はもう必要ないからだ。ミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキ。「放課後の教室」と名前はつけたままだが、あそこは僕にとって、もう夢の世界ではない。ミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキミサキ。──真実の世界だ。


「……DIVE」

ミサキ、会いに行くからね。


     *


「おかえり」


     *

     *


「会いたかった」


     *


「……でしょ、アサヒくん!」


     *

     *


「アサヒ──朝日燈真っ!」


ミサキが僕を呼んでいる。ミサキの声が聞こえる。ミサキの声だ。

僕はDDAをスリープさせ、頭から外すとベッドに放った。渾身の力を込めて立ちあがろうとしたが叶わないので、転がるようにベッドから降りた。何かをかき分けて進む。声のする方向へ。ミサキの元へ。


眼前に何か長方形の形があって、ところどころから白い線が差し込んでいる。キラキラと綺麗な線だった。ミサキにも見せてあげたい。


少しずつミサキへ近づく。

僕の肘や膝が床を突く音ではなく、別の音がしていた。よくは聞こえないけど、たぶんダムダム言っているのでバスドラムだ。光の更に向こうから聞こえるようだった。

改めて見ると、長方形をした黒い形のものはドアだった。それが叩かれる音がバスドラムに聞こえたのだった。


ドアの隙間から入る細い線が、唐突に四角い光に変わった。

郵便受けから誰かの目が覗いた。

見間違えるはずがない。あの形。あの長いまつ毛。僕は何度も何度も何度も何度も、見つめながら、慈しみながら、怖がりながら、伺いながら、見てきたのだから間違いない。

──ミサキじゃない!


     *

     *


「誰だッ」

そう怒鳴った。つもりだったが、僕は喋り方をすっかり忘れてしまっていた。あんなにミサキとおしゃべりしたのに。

「朝日くん?」

「なんで電源切ってんだよォ! 心配したじゃないかァ!」


僕が声を出したせいで扉がますますうるさくなる。ダムダム、ダムダム。ガチャガチャガチャガチャ。「朝日くん!」うるさい。うるさい。叩くな。わめくな。ダムダム。ガチャガチャ。

うるさい。黙れ。誰だ誰だ誰だ。

ミサキ。ミサキ先輩ミサキ。

アサヒアサヒくん。

黙れ静かにしろ。

ダムガチャ。

ミサキ。

…….。


不意に僕は閃いた。このうるさいドアを黙らせる方法を。懸命に上半身を起こすと、精一杯に手を伸ばしてロックを回した。

──刹那。

僕の眼球が破裂した。


違う。

光。光光。光光光。

光の洪水に、僕は目を焼かれたようだった。

今度は音が溢れ、肩に強い衝撃が走った。


その内、五感を取り戻してくると、いろんなものの正体がわかってきた。

肩の衝撃は、僕が倒れ込まないように支えた誰かの手。

「朝日、無事やったんか」その声はサークルの部長、ハヤシ部長のもので。

大量の光はドアが開いたことによるものだった。


部長の向こうには誰かの足。ゆっくりと顔をあげると、誰かの体があって、誰かの── アベくん。サヤカさん。トモコ先輩。キクチ先輩。カジタくん。ヒラシマ先輩──サークルメンバーの顔があった。

もちろんミサキ先輩も。


やっぱりいた。この僕がミサキ先輩の声を聞き違えるはずがなかった。ミサキ先輩。ミサキ先輩。ミサキ先輩。ミサキ先輩。


すがりつきたくなって体を動かそうとしたが、僕の肩を押さえる部長の力はとんでもなく強かった。人は見かけによらないな。

「大丈夫かいな、朝日くん?」

ハヤシ部長はなぜか顔をクシャクシャにしていた。

「みんな、心配しとったんやで。急にサークル来ぉへんかと思たら、学校にも来てへんって沙也加ちゃんが言うてなあ。朝日くん、一人暮らしやし、電話も出ぇへんしで、倒れてたら大変やわぁ言うて、みんなで来てみたん。ほなら正解やったわ。良かったぁ」

関西人よくしゃべる。

「もうちょいはよ来たったら良かった。ごめんなぁ。こんなガリガリになってもうて。俺、部長失格やわ。ごめんな」


「──ハヤシ部長」

今度はうまく喉が作動した。

「なんや?」

それには答えず、僕は顔を上げ、サークルメンバーをゆっくり見渡した。

「アベくん。サヤカさん。トモコ先輩。キクチ先輩。カジタくん。ヒラシマ先輩」

「なんや?」

僕は応えた。「──消えて」


     *

     *


けれど──何も起こらなかった。

あれ?

「そんなん言うなて。何があったかは知らんけど、まだ入学して半年しか経ってないやん。もっと自分大事にせんとあかんのんちゃう?」

誰も怒らなかった。

むしろみんなの目が憐憫の色を携えて、口々に僕に話しかけてくる。励ましや心配や問いかけがほとんどだったが、僕は今それどころじゃなかった。

DDAの不具合に直面してしまったのだ。


     *

     *


あれ?

音声認識が機能していない。

あれ?

うまくコンソールパネルが表示されない。

あれ?

カウンター表示が消えている。残り時間がわからない。

あれ?

あれ? あれ? あ──

そこで暗転。

僕の意識がどこかへ飛んでいく。


「……DIVE」

聞こえた声は誰のもの?


     *


どこからか呼ぶ声が聞こえる。

僕は耳を澄ませた。階段を登りきった廊下の左から聞こえる。児童文学研究サークル、いつもの部室からだった。

胸を弾ませて扉を開ける。日の光が目に眩しく、視界が滲んだ。その光の中、ミサキ先輩が立っていた。

黒いテーパードジーンズに、淡いブルーのシャツ。袖を捲ったその腕には愛用のヘルメット。変わらない、クールな先輩の姿。

「やっと来たね」

その声はいつもと同じハスキーで、僕の心をたやすく蕩けさせた。


何も言えない。嬉しくて、寂しくて、怒りたかった。会いたかった。抱きしめて、キスをして、好きだと伝えたかった。

喉に詰まった感情が言葉にならない。


     *


「あー」だの「うー」だの。僕はあえぐ。


     *


「あー」だの「うー」だの。赤子か。

自分に突っ込んだ心の声は当然聞こえてないはずなのに、ミサキ先輩が笑った。いつもするみたいに、唇の端だけ引き上げるから、八重歯が見えた。

「また、ぼーっとしてるのか? そんなんじゃいつまで経っても──」


サヨナラできないだろ。


その一言が、僕の心を粉砕した。「え……?」

どういう意味だ。言い間違えたんだ。

「やめてくれよ、もう。そんな顔で見ないでくれるかい」

ミサキ先輩の表情は読み取れない。ほほ笑んでいるが笑ってはいない。


「いつまで夢の中にいるつもりだ? お前が愛しているのは、こんな私じゃない。そして、お前が本当にいるべき場所は、ここじゃない。そろそろ気付いているだろ?」

言葉の刃が、次々に僕の胸を抉る。

「ずっと気になっていたんだ。楽しそうにしてるお前が、ずっとそんな──救われていない表情をしていることが。だから、サヨナラさ」


「ちょ、待ってください!」

先輩は簡単に身を翻し、部室を出ようとする。僕は咄嗟に肩を掴むが、あっさり振り払われた。

「待って!」「やだね」「お願いです!」「嫌だって言ってるだろ」「……ミサキ先輩!」

振り絞った大声に、ようやく先輩の足が止まった。

「……行かないでください!」

「いいや、行くね」

振り返りもせず、その背中は遠ざかっていく。

「なんで!」

「理由がなくなったからさ」


ミサキ先輩がいないと、僕は──

真っ暗なトンネルを進むように、その背中はどんどん小さくなる。

「あなたが必要なんです!」

僕は手を伸ばして追いかける。だが、距離は縮まらない。

「……どうしてだい、少年?」

反響する声に、伸ばしていた指先が何かに触れた。僕は夢中でそれにすがりついた。

どうしてって? そんなの決まっている。

あなたを愛しているからだ。

あなたといる世界が僕の夢だからだ。

あなたといる世界が僕の「夢」だからだ。


僕は掴んだ腕を渾身の力で引っ張った。


     *


僕は掴んだ腕を渾身の力で引っ張っていた。


     *


「あなたが好きなんです、ミサキ先輩!」


     *


「あなたが好きなんです、ミサキ先輩!」

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