呪いを解くカギ
カヤが気を失っているあいだ、三人は焚き火のそばで静かに座っていた。
夜明けの光が差しこみ、祠の中は薄く橙色に染まっている。
海から吹く潮風が、焦げた匂いとともに流れ込み、戦いの余韻をかすかに残していた。
カノンはカヤのそばで膝をつき、濡らした布で少女の額を拭っていた。
その様子を横目で見ながら、アラハバキは腕を組み、アテルイに視線を向ける。
「さて――おぬしにもう少し聞きたいことがある」
「……なんだ」
「なぜあの村に来た。なぜ“船”が必要だった?」
焚き火が小さくはぜた。
アテルイはしばし黙り込み、炎の揺らめきを見つめたまま答える。
「……この地の北に渡るためだ。陸を通れば“支配者”の目を避けられない」
「支配者?」
「この一帯を縛る神格がいる。名は知らんが、俺たちの行く手を塞いでいるのは確かだ」
アラハバキは鼻で笑い、肩をすくめた。
「なるほど。逃げ道を探しておるわけだな」
「そうではない。ただ――まだ戦うべき時ではないと思っただけだ」
カノンが静かに言葉を継ぐ。
「今は力を整える時期です。北に渡れば、干渉を受けにくくなるはずです」
カノンは淡々とそう言いながらも、胸の内では静かに思っていた。
――本当は、アラハバキを退けたのはアテルイ様だと。
けれど、それを口にすることはしない。ただ、火の光の中で揺れるその背中を見つめた。
「ふむ……」
アラハバキは目を細め、炎の向こうから二人を見つめた。
「どうやら、おぬしたちはこの地のことを何も知らぬらしいな」
外から潮騒が響き、遠くでカモメの鳴き声がした。
夜と朝の境目にあるその静けさの中で、古き神はゆっくりと口を開いた。
「この辺りには、もう“主”と呼べる存在はおらぬ。
そいつはつい最近誰かに殺されておるし神格でもないぞ」
アテルイが顔を上げた。
「……死んだのか?」
「ああ。もう何日も前のことだ。
わしと対等になどなれぬ、ただの老木だった。根も枯れ、魂も薄れておったわ。
――つまり、この地には、もはや“主”と呼べる存在はおらぬ」
アラハバキは焚き火の炎を見つめ、ゆっくりと笑った。
「それになぁ……主が消えた途端、面白いほどに小物どもが好き勝手を始めおった。」
「おぬしがわしと互角に戦えたのなら、“山の主”など敵ではなかっただろうよ」
アラハバキは笑いながら続けた。
「奴らは結局、“妖(あやかし)”にすぎん。
所詮、人でも斬れる存在だ。力こそあるが、神には届かぬ。
だが勘違いするな。この地には、二種類の異形が棲んでおる」
「二種類?」とカノンが問い返す。
「一つは、いま言った“妖”だ。
人でも倒せるが、普通の生き物よりははるかに強い。
牙や爪に呪気を帯び、腐った土や濁った水から湧く。
そしてもう一つは――“神”そのもの。心気をまとい、意志で世界を動かす存在だ」
アテルイは静かに聞き入り、カノンは息をのんだ。
アラハバキは淡々と続ける。
「おぬしらが次に出会うのは、たぶん後者だ。
神の形をした、何か。理(ことわり)を喰うもの。」
その言葉に、アテルイの瞳がわずかに揺れた。
「……どうやら、おぬしたちは本当に何も知らぬようだな。
この世界で生きるには、あまりに無防備すぎる」
カノンが目を伏せる。アテルイは何も言わず、焚き火に手をかざした。
その沈黙を破るように、アラハバキは続ける。
「北へ行く理由――教えてみよ。何を求める?」
その問いに、カノンの肩が小さく震えた。
彼女は一瞬、言葉を探すように唇を動かしたが、声は出なかった。
「ふむ……あててみよう」
アラハバキは酒を一口含み、低く笑った。
「“悟り”に会いに行くのだろう?」
カノンの白銀の瞳が見開かれる。
炎の光にその頬が朱に染まり、彼女は小さく息を呑んだ。
「……なぜ、それを」
「わしを誰だと思っておる。あれの名前は、誰でも知っておる。
“悟り”――この地の最北、氷海の果てに棲むもの。
なんでも見通しあらゆるちしきをもっているとも」
アテルイが静かに問い返す。
「なんだそんなやつが実在するのか?」
「おるとも」
アラハバキの声には、確信があった
カノンは息を詰めたまま、うつむいた。
「……その名を聞いてから、ずっと探していました。
でも、本当に存在するのか、信じ切れなくて……。
だから、あまり期待させるのも申し訳なくて、
“とりあえず北を目指すべきでは”とだけ提案したのです。
運がよければ会えるかもしれない――そんな気持ちでした。
もし本当に“悟り”が見つかったら……その時に、アテルイ様。
あなたにすべてお話しするつもりでした」
アラハバキは盃を置き、炎を見つめる。
「信じようが信じまいが、あれは在る。
そして、“悟り”であれば――おぬしたちの呪いを解く術も知っておるかもしれぬ」
その言葉に、アテルイの眉がわずかに動く。
だが、アラハバキは同時に冷ややかに続けた。
「だがな……今のままでは、いずれ死ぬぞ。二人とも」
焚き火の音が止まったように感じた。
アテルイが顔を上げる。
「俺は神だ。それでも、か?」
「ふん……おぬし、どうせ神として生まれてまだ数十年といったところだろう。
数千年も崇められてきた神と、本気で刃を交えたことなどあるまい。
――わしが初めてだろう?」
アラハバキは口の端をわずかに吊り上げた。
「それにな……わしがほんの少し本気を出しただけで、死にかけておったではないか」
挑発とも冗談ともつかぬその声には、揺るぎがなかった。
「だが、神とて不死ではない。
まして“精霊術”を知らぬままでは――次に出会う神格には勝てぬぞ」
カノンが息をのむ。
「……それを、学ぶことはできますか?」
「できるとも。学んでおいて損はない。
それに、この地に最初から根を張っておる者どもは、皆それを使える。
――もっとも、わしは教えぬがなぁ」
アラハバキは喉の奥でくつくつと笑った。
「……もっとも意地悪していってるんではなく、わしは“教える”のに向いとらん。
言葉で伝えるより、力で叩き込む性分でな」
肩をすくめながら、軽く盃を傾ける。
「だが、おるぞ。教えるのがうまい奴が。
いつの世にも、そういう面倒見のよい神がひとりはおるものだ。探してみるがいい」
アテルイは眉をひそめた。
「……まるで他人事だな」
「他人事よ。わしはもう放浪の身だからな。
とはいえ――忠告だけはしておこう」
その声が低く落ち着く。焚き火がひときわ強くはぜた。
「今のままでは、次に“神格”と出会った時、おぬしらは確実に死ぬ。
だが、あの薙刀と、その力があれば……たいていのことは切り抜けられるだろう」
アラハバキはゆるく掌を掲げた。
その手に宿る淡い光が、夜明けの光と重なり、祠の壁を照らした。
「わしの牙を鍛えたその刃は――ただの武器ではない。
神気を宿し、持つ者の魂と共鳴する。
……おぬしが、どこまでそれを扱えるか。見てみたいものだな」
アテルイは黙ってその言葉を受け止める。
カノンはそっとアテルイの背に視線を送り、唇を噛んだ。
アラハバキは立ち上がり、外の光を見やる。
潮風が吹き込み、祠の灰がさらわれた。
「この地は、もう長く保たん。
“主”がいなくなってから、力の均衡は崩れた。
従っていたものは好き勝手を始め、外の神々までが干渉を企てておる。」
その言葉に、カノンが眉をひそめた。
「……それほど、ひどいのですか」
「ひどいどころではない。
あの村にいた“老婆”――覚えておるだろう。
あれが火種よ。あの女こそ、わしの住処で妖を呼び出した張本人だ」
アテルイの目が細く光る。
「やはり、あの巫女が」
「ふん、あやつは裏で妖を招いていた。おそらく村で起こったこともあいつの仕業だろうの地はもう、誰のものでもない。風の向くままに生きるしかあるまい」
その声は、どこか寂しげで、それでいて晴れやかだった。
アラハバキはひとしきり語り終えると、立ち上がって大きく伸びをした。
その表情はどこか晴れやかで、焚き火の光がその頬に揺らめいていた。
「……さて、言いたいことは言った。もうこの地にも飽いたわ。
わしはこれより放浪の旅に出る。南でも北でも、風の向くままにな」
アテルイがわずかに目を細めた。
「放浪……か 気ままなものだな」
「はは おぬしもそうなってくるわ」
アラハバキは軽く笑い、盃の残りを飲み干した。
それからしばらくしてアテルイを呼ぶ声が聞こえた
彼女が目を覚ましたようだ
「……ここ、は……」
幾度と彼女と会話を交わしふいにアラハバキが姿を見に来た
炎の光に照らされた神々しい顔を見た瞬間、彼女は反射的に悲鳴を上げた。
「ひっ……! あ、あの神様!?」
アラハバキは振り向き、心底めんどうくさそうに言った。
「おお、起きたか。そこの村娘よ。……生きていたか」
「生きていたか、ではありません!」と、カノンが思わず口を挟む。
しかしアラハバキは気にも留めず、無責任に続けた。
「まぁ、よかったではないか。だが、村に帰ればまた生贄にされるぞ」
「えっ……そ、そんな……!」
カヤの顔が青ざめる。
アテルイは呆れたようにため息をついた。
「アラハバキ様。あまり不用意なことを言うな」
「事実を言ったまでよ」
その一言に、場の空気が少し凍った。
カヤはうつむき、唇を噛む。
カノンは静かにアラハバキを見つめ、控えめに言った。
「……でしたら、この子をアラハバキ様と一緒に連れて行ってはくれませんか?
ここに残せば、また犠牲になりますそれに私たちは北に行きたいのですが村には彼女を連れていけません」
アラハバキは眉をひそめた。
「なに? わしと旅をさせると? この珍竹林長きの小娘をか?」
カヤはびくっと肩を震わせる。
「いやいや、わしは嫌だぞ。面倒だし、泣くし、退屈だし……」
アテルイが口を開く。
「頼むよ。お前の好きな女だろう」
「断る! わしはな、妙齢の女が好みなんじゃ!」
間髪入れず、アラハバキの声が響いた。
アラハバキは即答したが、次の瞬間、ふと黙り込んだ。
祠の隙間から吹き込む風が、少女の髪を揺らす。
そのか細い姿を見て、彼はわずかに目を細めた。
「……まったく。可哀想なものよ。帰る場所もないとはな」
そして、ため息をつきながら手を伸ばした。
「仕方あるまい。……一時だけ預かってやる」
「え?」
カヤが顔を上げる間もなく、アラハバキは彼女の腰を片手で軽々と持ち上げた。
「お、お、おろしてくださいーっ!?」
「うるさい。落とすぞ」
次の瞬間、彼の体が光に包まれた。
黒々とした鱗が現れ、巨大な蛇の姿がその場に現れる。
カヤは目をむき、悲鳴を上げた。
「ひゃああああああっ!? ヘ、ヘビィィィ!?」
アラハバキは愉快そうに笑い、言い放つ。
「北でも南でも、どこでも行けるのがわしの特権よ!」
そのまま彼は尾を打ち振り、地を滑るようにして祠の外へと飛び出した。
朝日が差し込み、白い光が二人を包みこむ。
「いやああああ! ま、待ってくださああああいっ!」
カヤの叫びとともに、神と少女の姿は陽光の中に溶けて消えていった。
残されたアテルイとカノンは、しばし呆然とその方向を見つめていた。
やがてアテルイが、短く息を吐く。
「……嵐を連れていったな」
「ええ。でも……あの二人なら、大丈夫でしょう」
二人の視線の先で、風が海へと流れ、遠くで波が砕ける音がした。
夜明けの空が、ゆっくりと光を満たしていく。
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