初めての人間の村(後編)

 夜風が吹き抜ける広場に、ひときわ強い沈黙が落ちていた。

 納屋を吹き飛ばした光の余韻がまだ漂う中、村人たちは息を潜め、恐怖と畏敬の入り混じった眼差しでただ一人の青年を仰ぎ見ている。


 その中を、村長が震える足取りで近づいてきた。

 皺深い顔は蒼白に染まり、松明の火に揺れる影は幽鬼のようだった。

 そして地に膝をつき、額をこすりつけるようにして低く叫んだ。


「……あ、あなた様は……アラハバキ様にあらせられるのですか?

 慰みを務める娘はすでに用意しておりました。今宵、社へ奉るつもりでございましたが……

 まさか昼間に、かように御姿を現されるとは思いもよりませぬ。

 どうか、どうかお怒りを鎮め……あの化け物どもを送りつけるのはおやめくださいませ……!」


 その声に、周囲の村人たちも一斉にひれ伏した。

 昼間は石を投げ、槍を突きつけていた者たちが、今は恐怖に震え、掌を地につけている。


 アテルイは眉をひそめた。

 鋭い眼差しで村長を見下ろし、低く告げる。


「……俺は、そのアラハバキなどというものではない。なんだそいつは?

 それに、最初から言っているだろう。俺はただ船が欲しいだけだ」


 その声音には苛立ちが滲んでいた。

 さらに、隣に立つ蜘蛛の脚を持つ女へと視線を向け、きっぱりと言い添える。


「それと――あそこにいるのはカノン。俺の付き添いだ。

 手を出せば、容赦はしない」


 村人たちは一斉にざわめいた。

 その異形を「魔」と叫んでいた口が、今度は「異神の眷属」と恐れ敬う声へと変わる。


 村長は必死に平伏を続け、やがておずおずと顔を上げた。

「……恐れながら、ではせめて我らが住まいにお越しくだされ。

 事の次第をお話し申し上げたく……」


 アテルイは黙したまま頷き、カノンと共に歩を進めた。

 抱きかかえられたままの少女は、まだ怯えきった瞳で二人を見上げていた。


 村長の家は、藁葺きの屋根の下に広く掘られた竪穴の住まいだった。

 土間には湿った土の匂いが立ちこめ、炉の火が赤々と燃えている。煙は梁に溜まり、煤が黒々と積もっていた。壁には魚網や木製の櫂が立てかけられ、干した魚と塩の生臭さが鼻を突く。外からは波のざわめきがかすかに届き、ここが海辺の村であることを思い出させた。


 その奥に、村の巫女と呼ばれる老女が控えていた。

 白髪を後ろで束ね、濁った瞳はまるで深い沼に月影が揺らめくようで、火を映してなお暗闇を孕んでいた。

 そのただならぬ気配に、アテルイは思わず目を細める。


 村長はアテルイを正面に据え、膝をついたまま語り始めた。


「数日前より、この村を禍が襲うようになりました。夜な夜な現れる化け物……それは必ずアラハバキ様の社の近くに姿を見せます。

 我らは恐れ慄き、村の者たちは疑心暗鬼に陥りました。――ゆえに、あなた様が昼間に現れたとき、恐怖に駆られて荒々しく迎えてしまったのです」


 傍らの巫女が、かすれ声で言葉を継ぐ。

「アラハバキ様は、この地に古くから鎮まる土着の神。幾百年と村を護ってこられました。

 けれど、化け物の影が見え始めてからは、誰もが『神が怒っているのだ』と怯え……

 その御心を鎮めるために、娘を……夜ごとにお慰めに奉るつもりだったのです」


 老女の声は震えていた。

 そして先ほど助け出された少女を見やり、深く頭を垂れる。


 アテルイの胸に怒りが込み上げた。

 拳を握りしめ、低く唸る。


「……化け物が現れただけで、神を疑い、娘を犠牲にするのか。

 理もなく、ただ恐怖に従うばかりか」


 村人たちは一様に顔を伏せ、誰も返す言葉を持たなかった。

 炉の火がぱちりと弾け、沈黙を破る。


 やがてアテルイは大きく息を吐き、言葉を改める。

「よかろう。ならば、その化け物を退けてやる。その代わり――船を一隻、俺に渡せ」


 村長は驚きに目を見開き、やがて深々と頭を下げた。

「……感謝いたします。ですが……」


 そこで言葉を切り、妙な間を作る。焚火の赤が揺れ、誰もが次の言葉を待った。


「もしできることなら、アラハバキ様と直接お会いいただけませぬか。……いや、これ以上は申しますまい。ただ……どうか確かめていただきたいのです」


 アテルイは困惑の色を浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。

「……まぁ、土着の神に会えば何かわかるだろう」


 村長は深く頷き、さらに言葉を重ねる。

「アテルイ様ならば……アラハバキ様とも対等に立ち向かえるでしょう。

 そして、もし御神体に触れ、その神具をお持ち帰りいただけるのであれば……それを我らにお譲りいただきたいのです」


 その視線が、怯える娘へと滑る。

「ついでに――その娘もお連れください。供の巫女として。神前に仕える役目です」


 アテルイは鼻で短く笑った。

「……巫女か。ふん」


 とてもその娘から力は感じられない。おそらく余計な口減らしを「巫女」と称しているだけだろう。

 だが、老婆の巫女だけは違った。濁った瞳の奥には、底の見えぬ闇と、何かを待ち構えるような光が潜んでいた。


「それに……譲るとはどういうことだ?」

 アテルイは瞳を細める。

「神が人間に借りを作るものか。……お前たち、神を試すつもりか?」


 村長の声音には、ただ神を畏れる人間の素直さではなく、欲望と企みの匂いがはっきりと混じっていた。


 アテルイは胸の奥に苛立ちを覚えたが、それを押し殺した。

 ここで怒りを見せれば、また“怪物”と呼ばれるだけだ――。船を手に入れるため、理性で抑え込むしかなかった。


 それでも――村長の言葉の裏には、これから先に「戦い」が待ち受けているかのような影が潜んでいた。


 不穏な気配を胸に覚えながらも、アテルイは答えた。

「……いいだろう。化け物の正体を暴き、社にも行ってやる」


 そして怯えた娘を伴い、三人は夜の闇へと踏み出すのだった。

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